
山裾の駅で一人の男が電車を降りた。ボタン式乗降の電車に慣れている風を装っていたが、土地の人間では無いようだった。年の頃は20歳代であろうか。ラフな格好から推測するとサラリーマンでは無いようだった。
彼は同級生の大半より年上だった。同級生は優しく接してくれていたが、気の置けない仲間にはなれない予感がしていた。どちらが壁を築いたのかは分からないが、決して高くはないその壁を乗り越えようとしなかったのは彼の方だった。彼は皆を愛していたが、同時に愛されることを恐れてもいた。高校にも行かず大学へ進学したくらいだから頭は良かった。ただ、良過ぎるというわけでは無かった。頭の良さは自我を増長させ、物心が付いた頃には、彼は自らを周囲の人間とは違う存在だと見なすようになっていた。
彼が故郷を離れたのは6歳の時だった。見知らぬ土地で、自らを守らなければならなかった。彼を守ってくれる山は、惨めなほど遠くに見えた。彼は模範的な生徒のように振舞った。自らが築いた虚像を守るために、初めて嘘をついた。彼は努力が嫌いだった。神秘のヴェールで自らを包むことで、自身のアイデンティティを確保していた。努力することなど、彼にとっては自身の価値を否定するも同然のことだった。何でもこなしてしまう勘の良さを持っていたが、我を忘れるほど何かに打ち込むということは無かった。いつも心のどこかが醒めていた。我を忘れることを恐れていた。自分を守らなければならなかった。自分が特別な存在ではないと知ることを恐れていた。
彼が故郷を離れたのは6歳の時だった。見知らぬ土地で、自らを守らなければならなかった。彼を守ってくれる山は、惨めなほど遠くに見えた。彼は模範的な生徒のように振舞った。自らが築いた虚像を守るために、初めて嘘をついた。彼は努力が嫌いだった。神秘のヴェールで自らを包むことで、自身のアイデンティティを確保していた。努力することなど、彼にとっては自身の価値を否定するも同然のことだった。何でもこなしてしまう勘の良さを持っていたが、我を忘れるほど何かに打ち込むということは無かった。いつも心のどこかが醒めていた。我を忘れることを恐れていた。自分を守らなければならなかった。自分が特別な存在ではないと知ることを恐れていた。
男はバス停へ向かった。何度も停留所の路線図を眺め、行ったり来たりを繰り返すところは、バスの乗り方が分からないかのようにすら見えた。やがて男は意を決したかのように踵を翻し、背後に聳える美しい山へ向かって歩き出した。
彼が、その予兆に気付いたのは12の時だった。その日、祖父が死んだ。彼の世界は特別なものでは無かった。永遠のものでは無かった。その日が来るまで、彼は、周りの世界の出来事など、お伽話に過ぎないとさえ感じていた。死など、彼に訪れる筈も無いものだった。彼は真実を知ることを恐れた。だから彼は心を閉ざした。学校に行く意味など、もはやどうでも良いことだった。その頃、彼に新しい家族が出来た。ヨーキーの赤ん坊。小さな檻の中に入れられた赤ん坊は、真っ黒でクマみたいだった。彼は一目で心を奪われた。しかし、サッカー部で忙しかった彼には、新しい家族と一緒に居られる時間など、ほとんど無かった。サッカーは大好きだったが、部活は大嫌いだった。ある日、彼が休日に一人でソファーに座っていると、その子がトコトコと歩いてきて彼の両足の間にストンと収まった。この子を死んでも守るんだと、彼が心に誓った瞬間だった。やがて、彼は学校に通わなくなった。学校に通わないことを、その子のせいにも誰のせいにもしたくはなかった。だから誰にも理由は分からなかった。いじめなど、彼には無縁のものだったし、友達がいないわけでもなかった。両親は彼を愛していたし、喧嘩することはあっても夫婦仲は良かった。ただ彼が中学へ通うことは、もはや無かった。それだけは事実だった。
朝方の寒さは影を潜め、照りつける日差しが、やけに眩しかった。男の目には全てが見慣れた景色のように見えて、一つ手前の交差点を曲がってしまったようだ。山奥へ歩みを進めても、男が目指す場所は見つからなかった。
彼は心を閉ざした。周囲の人間を全て屈服させないと気が済まなかった。彼は彼だけの王国の王様だった。そしてたった一人の弟にとっては、暴君以外の何ものでもなかった。彼は良く言葉を中途で投げ捨てた。それは恐らく後天的なものだっただろう。彼にとって言葉は面倒なものだった。彼は彼の言葉が理解出来ない人間を理解できなかった。彼にとって彼以外の人間は軽蔑の対象でしかなかった。彼にとって世界は征服すべきものだった。それでも、心の何処かで真実の川が奏でる音が聞こえていた。その場所に触れると、彼の心は壊れそうになった。いつまでも尽きることの無い水源が、その川には注ぎこんでいた。その川は彼が人前では決して見せなかった涙で出来ていた。事実、彼は脆弱だった。心の川で溺れて、流されないようにしがみつくだけで精一杯だった。川は何処までも流れていた。移り行く季節を映していた。絶え間ない時の音が聞こえていた。彼にとって世界は、目を開けては見られないものだった。耳を澄ましてはいけないものだった。それでも彼は世界を呪うことは出来なかった。覆いかぶさる空を、全身を貫いていく風を、どこまでもどこまでも愛していた。やがて、20世紀が終わり、彼は一人ぼっちになった。