エッセー風のレポート・・・(笑) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
僕がこれまでに出したレポート4本の内、

帰ってきた2本には両方とも

「エッセー風」と書かれていました・・・(笑)

とりあえず、先週のプチ発表で使った原稿をUPしますが、

かなり独断的な内容になっていて読みづらいと思うので、

面倒くさかったら読み飛ばして下さい♪




 
芸術とは何か?

まず第1にそれは、言葉である。

芸術という字を当てられ、発音される言葉である。

そしてそれは、意味内容を内包し、ラベルを貼り封をされ、

受け手に伝達される瓶詰めのような物である。

そして受け手はラベルに従い封を開け、しかるべきところに

整理をして解釈をするのだ。

しかし、その意味内容自体が伝わるわけではない。

同じラベルを貼った物が受け手の中に存在するのならば、

それが、解釈となるのだ。

故に「芸術」と一言、言うだけでは、

それは厳密な意味を持ち得ない。


長い人類の歴史の中で、

言葉の字義は共通のルールを培ってきた。

曰く、あれは木である。

曰く、あれは空である。あれは青い。あれは高い。

人間間の意志伝達手段として、それは形式のような物だ。

人は経験則により、それぞれにラベルを貼り

人と人が共通の理解を得ている物だと信じている。

しかしそれを証明する術はない。

全く同じ解釈など存在しえない。

全ての人は、生命は主観的な存在であるからだ。


自我の拡大と共に、

人は自分と他人を区別し孤立的宇宙を築いてきた。

自分と他人が違うことを、認識する。

認識した上で他人の精神と自分の精神が

隔離していることに気付くのだ。


アインシュタインの相対論的な宇宙観以前から、

人々は自分たちの宇宙が孤立していたことに気がついていた。

それはプラトンやデモクリトスのような哲学者だけではない。


だから人は神を求めるのだ。

孤立した主観的宇宙の中で、

自分が依るべき存在を確認するために。

では本題に入ろう。芸術とは、なにか。

少なくとも僕にとって、

芸術という言葉はどのように解釈されるか?


芸術には、作者が存在する。

それは主観的世界を自分の周りに存在する

道具を使って表現したものである。

それは色であり線であり音であり

時間であり空間であり平面であり3次元である。

そして、それは「私の感覚が捉える世界はこうですよ」

という表明に他ならない。


たとえば写真を撮る、僕にとってこれは

「言葉では伝えられない何か」を伝える。

ということである。伝える対象が自分か他人かは問わない。

外的世界を取り込むことにより、

その瞬間の感情、あるいは情景、に封をする。


その瞬間にシャッターを押す動機は様々である。

しかしそのシャッターを押させた何かに封をするわけだ。


たとえば詩を書く、僕にとってこれは

「言葉で伝えられると考えた何か」を伝える。

ということである。伝える対象が自分か他人かは問わない。

自分の中に存在する情景を、言葉という形式に乗せる。

そして、封をするわけだ。


ただの言葉も芸術でありえるだろう。

たった一言「空」と言うだけでそこには世界が広がる。

ただしその世界は現実に僕が伝えたかった世界とは異なる。

言葉は単なる形式に過ぎず

その意味内容は個々の主観的存在の経験により

変化して形成されるからだ。

その故に詩人は比喩を用いる。

自分の主観的世界を忠実に伝達するために、

あるいは確認するために。


鑑賞する側にとっては、どうであろうか。

芸術というのは、

その作品自体が完成してようが、してまいが、

それ自体で完結している物である。

常に鑑賞した瞬間に完結するのである。

完結しているという一点によって、

1つの宇宙像としての価値を持つ。

1つの宇宙像を、そこに封じ込めるのである。

それは作者の主観が捉えた、ある瞬間の描像であるので、

鑑賞する側にとっても、

それはある瞬間の共有であると言い得る。


そしてその存在は、作品を鑑賞者が鑑賞し

自らの主観的世界に基づき解釈を加える。

あるいは加えない事によって

姿を変える不定形の存在であると考えられる。

自分の主観を加えていく事によって、

その存在の形状は恒久的に変化していく。

変化していくことによって、その存在の根底に横たわる、

何かが存在することを示すのである。

それにより我々は時間を越え空間を越え、孤立的宇宙の中で

他者と共感できる何かが存在することを知る。


夜の淵に沈んだ時。

何処に在るかは知り得なくても、

それでも夜空に月が輝いている限り、

その存在を信じられるように。


厚い厚い雲に閉ざされた時にも、

僅かに零れる光の明るさや、

空気に伝わる温もりで

その存在を信じられるように。


流れていく水に反射する、

一適一適をどれだけ調べても

痕跡は残ってはいないだろう。

それでも、その存在を信じられるように。


そして玉ネギの皮のような主観的世界の積み重なりこそが、

この世界の実体でありえることを知るのだ。


誰が共感しうるかは個々の作品により様々であろう。

しかし完結している、という一点において、

それは共感の触媒たりえるのである。


脚注:

孤立的宇宙:

 いかなる情報も光の速度以上で伝わることはない。

 故に我々が今について知り得ることは、何ひとつない。

 我々が知り得るのは、常に過去のことのみである。


主観的世界:

「精神は、自然哲学者の言う客観的な外的世界を、

 すべて自分自身の素材で造りあげたのです。」

 ↑E.シュレーディンガーの言葉


アインシュタイン:

 相対的宇宙論では、絶対的な観測者など存在しえない。


プラトン:

 事物の背後には本質であるイデアが存在するとした。

 イデアは感覚によっては捉えられないとも。


デモクリトス:

 知性と感覚の論争において、感覚にこう語らせた。

 「知性よ、汝は我らから自分の論拠を借りているのに

 我らを倒そうというのか?汝の勝利は我らの勝利」





この発表を聞いた人の感想↓

「小説みたい・・・」

え~、それは褒められて・・・(笑)

この原稿を元に11/8に本発表を行いますが、

これから、もっと、しっかり論として成立するように

相当な時間をかけて手を入れる積もりです♪