前日の予報では降水確率20%の“曇り”だったのに、4日(日)朝起きたら雨粒が落ちてて降水確率は80%、しかも終日だからどうしようもない。

こんな折に備え何冊かの本は準備していても、あれもこれも不作で読み物に困る場合も少なくない。

TさんやHさんは、「面白くなくても意味不明でも、一応最後まで読む」と仰るが、私にはそれが出来ないから厄介、“当たりでありますように”と祈りながら最後の1冊手に取る日もある。

 

ただ今回のは、当たり外れから縁の遠い吉村昭の作品で、たまたま目に入った『昭和歳時記』を買ってたのだ。

吉村昭は私より15年以上も年長の昭和2年生まれだから、戦前・戦中時代の記述部分は分からないが、敗戦直後の貧しさや風物描写について懐かしく思い出す事柄は極めて多く、文を追うより思い出に浸る時間の方が長い・・

そんなことで、文庫本1/3読むのに丸1日要する有様となった。

 

小さい時分の我が家は平屋建てだったので、2階建てで“物干台”を備えてる家が羨ましくって仕方なかった。物干台へ上がって周囲見渡したり夕涼み、時には消防車のサイレン聞いて火事は何処?なんて・・だから最初に自分が建てた家は勿論2階建て。

この年齢になって初めて、平屋の贅沢に気付いた。

 

当時の冬の寒さは格別だったに拘わらず、暖房器具といえば火鉢・長火鉢・炬燵・湯たんぽ程度だったし、食糧事情も悪かったせいで“しもやけ・あかぎれ”なんて普通にあって、そのあかぎれの裂けた部分に粘土みたいな黒い薬を押し込んでた。

耳や小指のしもやけの痒さは今も忘れない。

 

当時はバス便(まだ木炭バスが走ってた)・電車は本数が少なく、朝夕の混雑は酷かったから、どの家も自転車の1台や2台は保有してて、移動手段として重要な役割果たしてた。その自転車も粗悪だったんだろう、よくパンクに見舞われたから、自分で修理するなんて子どもでもやっておった。

チェーン部分の動きが悪くなると、むかで油(ムカデを瓶に入れておくと、死んで融けて油になる)注してもいた。

この挿画見て、あれっ?“虫ゴム”が抜けてるぞなんて思ってしまう。

 

父親は日本酒党だったが、神戸大空襲で工場を焼かれた。

仕方なく暫くの間(恐らく2年間程度)会社勤めしてたのだが上手くいく訳も無く、気晴らしに毎日かなりの酒(当時日本酒など容易く手に入らなかっただろうから、焼酎だった?)を飲んで帰り、時には母親が提灯点して迎えに行くこともあった。

そんな中で起こったのが朝鮮戦争、鉄工業に特需が発生して工場を再建・・

以降、死ぬまで一切焼酎は飲まず、徹底して“大関”ばかり飲んでおった。

 

家庭排水や工場の汚水は池や川に垂れ流しする時代だった。

私が通う中学校の近くに、豚池なんて呼ばれる溜池があって、恐らくメタンガスなど有毒なガスを周囲に放ってた。その後も長い期間、淀川や神崎川もどぶ川状態が続き、“がたろ”なんて鉄屑拾う人もいた。金属の不足はもちろんだが、ご飯炊いたり風呂沸かす薪にも不自由してたから、近くの山で枯木探したりすると、母親に褒められたこともある。

 

楕円形に束ねられた毛糸の束、その束に両手首を差し入れ、母親が糸口引っ張りながら毛糸玉をつくってゆく、そんな手伝いも日常茶飯だった。

和裁やってた親は、鉄製のコテを火鉢の炭に突っ込んで熱し、布に折り目を付ける作業してた。時として手を休め、煙管に刻み煙草を詰め込み、雁首を炭の火に近付けて吸い始める。父親からは酒、母親からは煙草を教わったことになる。

 

『昭和歳時記』読んでると、こんなことが幾らでも頭に浮かび上がるから、先へ進まないの当たり前である。