6日(水)、5日連続の外出が響き、脚にたっぷりの疲労が溜まってしまった。
比較的気温の低い絶好のコンディションはモッタイナイが、読み掛けてる『白鳳の絶唱 大津皇子の生涯』を読むことにする。
作者は“はじめに”で、以下のように書いておる。
「天武天皇にことのほか愛され、文武の道において、人望において、天性の資質において、衆に抜きん出ていた大津皇子。その優れた大津皇子が、草壁皇太子を盲愛する皇后の陰謀によって、天武天皇崩御後、一ヶ月にも満たない日に、謀反の疑いで捕らえられ、あたら、二十四歳の前途多き命を散らしたという事実は、千三百年の歳月を経ても、なお、釈然としない気持ちを抱かせ続けます」
全編、作者のこんな気持ちが溢れんばかりで、古代史入門者の私にも、比較的分かり易い中味だった。
“686年9月9日、天武天皇(天智天皇の弟)の病は治らず崩御。24日、南庭で殯をして哀の礼を奉った。 この時にあたり、大津皇子(持統天皇の姉の息子)が皇太子(草壁皇子:持統天皇の息子)に対し謀反を起こした。
大津皇子は捕えられ、事件に連座した者も捕えられたのだが、大津皇子のみ死を賜り、連座したという30名近くの人物の内の一人だけが流罪となった以外は放免される”
このように、残された記述(日本書紀・続日本紀・懐風藻・後漢書に万葉集などの記述)にハテナと思うのは作者のみでなく、古代歴史研究者や愛好家も同じではなかろうか。作者はここに、天武天皇の皇后である後の持統女帝の謀略を感じ取るのだ。
自分の子である草壁を皇位に就けるべく、邪魔になった大津を葬る挙に出たんだと。
そして、持統の陰で策略を練ったのは藤原不比等ではないかという歴史家もいるみたいだ。何故なら、不比等の父親中臣(藤原)鎌足は、大海人皇子(天武)より大友皇子の即位に積極的だったから、当時干されており、この謀議に参加することで政局の前面に出ようとした・・
小説家や歴史家は、古い文書に如何なる想像を巡らせるのか、そんな点にも楽しさ見つけることが出来る。
ちょっと調べておきたいことがあり、図書館へ向かったのに、適切な本が見付からず退散、帰りの道筋で今日の一輪“ハハコグサ”を摘んで帰った。

