21日(水)、朝の空は暗い上にちょっとばかり疲れも溜まってるのか、どうにも出掛ける気にならず本読みを決める。 読みかけて暫くするとNさんからFAXが入って来、何やら地図が書いてある。
要するに「新しい店見つけた、今日暇ならそこへ行かないか」というものだから、いやいや今日は休養日に決めたとメールで返事して、先日Yさんから借用した野中広務&辛淑玉の対談『差別と日本人』に目を通す。

よくは知らないが、辛淑玉と言えば歯に衣を着せぬ物言いで知られる在日三世であり、いろんな差別問題で日本中を駆け回ってる運動家だと思ってる。
片や野中広務はつい最近亡くなった自民党の重鎮で、内閣官房長官や自民党幹事長まで上り詰めた被差別部落出身の政治家だから、如何に2人が差別される側の人物であっても、果たして題名にあるような部分へ深く切り込めるものだろうかと、逆にそんな部分で楽しみにしてた本ではある。
読み終えた感想。
対談として「やっぱり噛み合っていない」
意見は大きくすれ違ってるのに、そこできちんと対立するでもなく納得するでもなく項目だけが前へ前へ進められてゆく。 対談だから仕方のない面もあろうけど、辛淑玉による“注釈”によって彼女の主張ばかりが先行してゆくきらいがあり、もう一方の考え方がなかなか伝わって来ないのだ。
中味は100年150年経過しても一向に解決の道筋が見えてこない深刻な状況が語られ、ハンセン病や障がい者、皮膚の色やアイヌ・ウチナンチュウにまで及んでるものの、政治家として色々な場で仲介役を演じてきた野中広務の歯切れは悪くて当然だし、見てる方向も活動家とは異なって当然で、対談本の企画段階から無理があったように思えてしまう。
辛淑玉による“注釈”が沢山挟まってるから、読者の理解には大いに役立ってて助かる、そこんところは否めない。
我々世代、特に兵庫県にとって記憶に新しいのは1970年代中盤に起こった八鹿高校事件で、解放同盟の暴力を伴った糾弾は大きな批判を浴び、その後の解放運動の足かせになった部分は甚大であったけれど、差別される側に立てば“どうしようもない表現方法”であったとも言えるし、部落差別をその他の社会問題に一般化しようとした日本共産党の姿勢にも大きな問題点はあったろう。
いずれにしろ人間社会に一種の差別は必然的に現われてくるといった解釈もあって、知らぬ内に差別者側に立ってるかも知れぬ自身の立ち位置には心せねばならない。