菊水山っていう名前の山、他にありますか?
菊の御紋と言えば天皇家の紋章だ。普通は舌状花が16個のものが用いられるが、これ以外にも幾つかのパターンがあるし、南朝の紋だ北朝の紋だといった説もあって、あまり拘るのは感心しない。

これに対して菊水の家紋があり、楠正成家の家紋とされている。これも諸説があり、元々は天皇家が用いていたともされる。

まあそれは良しとして、菊水山って他所にもあるんだろうか?
この写真、12日(月)に撮ったもので、雲量0の快晴。

以下は昨年、定例観察会に向けて私が調べた菊水山に関する下調べ。
菊水山(459m)ができたのは昭和10年である。もちろん突然盛り上がって山になったのではなく、それまで大角木(おおつのぎ)山と呼ばれていたのが菊水山へと名を変えた。大角木山は楠木正成を祀る湊川神社の背景となる山で、正成が湊川で敗死して600年目に当たるのを記念して、この山の麓に菊水の模様に松を植え、山頂に大きな石碑を建てて、菊水山へと改名したのがこの年である。
菊の紋が皇室の紋章となったきっかけは、鎌倉時代初期の後鳥羽上皇が大の菊ファンで、身の回りのあらゆるものに中国から渡ってきた菊花の図柄を描かせたことに始まり、鎌倉中期には既に皇室の紋章として認識されるに至ったようである。
のち楠木正成は、この菊の紋章を後醍醐天皇から恩賞として下賜されたのだが、余りにも畏れ多いと、菊の下半分を水に流して菊水紋にしたと伝えられる。
錦の御旗を掲げ、天皇側として戦死した武将は数知れぬのに、何故楠木正成ばかりが神格化されたのだろう。ひとつは「桜井の別れ」で知られるように正成は、嫡子を河内の国へ残して湊川の戦いへ赴いたところ、これが敗戦を自覚しつつも天皇方に与して戦い、それが忠義であると脚色されたことによっている。
一方、徳川家康の孫である水戸光圀は勤王思想の持ち主だったとされ、実際彼は正成の墳墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建てているから、これが後の水戸学へ引き継がれ、さらにそれが軍部の拠り所として利用された面も大きい。も少し時代を遡ってみると、秀吉も正成墳墓の地を免租としているから、如何に天下人といえども、天皇家に対する畏敬の念は深かったわけで、まして庶民にとっての天皇は、平安の昔から神の地位にあった。
こうしてみると何故昭和10年に『菊水』山が出現せねばならなかったのか、当時の時代背景からして容易に推測可能だろう。
昭和3年に起こった世界大恐慌は、当時列強が推し進めていた軍備拡張政策を圧迫し、国家予算を破綻させる寸前にまで逼迫していた。それに耐えかねてワシントン軍縮条約が締結されたものの、日本と米英の艦船保有台数に大差がついたため、日清・日露の両戦に勝利した軍部の不満は大きく、特に植民地を持たなかった当時の日本にとっては、許し難い条約と映ったに違いない。その不満が昭和6年の満州鉄道爆破事件・満州事変、昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件へと軍部の暴走を加速させてゆく。
各種メディアも「一戦止むなし」との論調だったから、ここはいちばん、天皇に対する忠義を持ち出して人心を掌握する、そんな必要性に駆られていた時代だったのだ。
菊水山頂からの展望はほぼ360度で、北には丹生山系、西は明石海峡大橋から播州の工業地帯、南は紀淡海峡の友が島、眼下には神戸の市街地が東の西宮方向へと延びていて、六甲縦走の要である摩耶山も指呼の間だ。大阪湾に目を転ずれば、きらきら光る大阪ドーム、二上・葛城・金剛の山並みはもちろん、関西空港や紀泉高原までが見渡せる。
また、菊水山とは他にもありそうな山名だが、私が調べた範囲では見つからなかったので、ヒョッとすると日本唯一の名称かも知れない。
自然も面白いが、ちょっとした歴史も面白い。
花の最終ランナーはこのシマカンギク(キク科)だろうか・・

11日は終日雨だったけど今年の雨量は少なくて、布引の貯水池も満杯にはなってない。
