幕末から明治の初期にかけ、諸外国兵士と武士の衝突が各地で勃発しました。
なかでも明治新政府初の外交問題となったのが神戸事件です。1868年1月、徳川に組する尼崎藩を
牽制する目的で、新政府から西宮方面の警備を命ぜられた備前藩が西国街道を通行中、砲隊の行列を
横切ろうとしたフランス兵を槍で刺した(軽傷)のが事の始まり。
諸外国が責任者に対する厳しい処罰を求めたのに対し、事を荒立てたくない新政府と備前藩は、一砲隊長
に過ぎぬ100石の藩士滝善三郎正信(当時32歳)に腹を切らせることで決着を図ったのです。
本来ならこの警備隊の責任者である家老日置帯刀が全責任を負うべき事件であったはずなのにです。
滝善三郎正信が全責任を負って切腹した背景については、いろいろな解釈があるようなのですが、
切腹に応じれば子を300石に取り立てるといった密約があったのだという研究があって、それはもう
とんでもない密約だった。。。何故なら、もう徳川幕府は崩壊し、武士なんて身分は無くなっていたの
ですから。

滝善三郎正信切腹ノ図 兵庫津近くの真光寺で。パークスも立ち会ったとか。

供養碑は近くの能福寺にあります。 万歩計:25,000