新神戸駅のすぐ北側に徳光院というお寺があります。この寺そのものは1887年から約20年かけて川崎財閥の創始者川崎正蔵が私財を投入して建立した新しいものです。
それよりも興味を引くのは、もともとこの地には滝勝寺という、役行者小角(普通 エンノギョウジャオヅヌ と読みますよね)が修験道の道場として創建した寺があったというのです。三徳山投入堂、あの断崖絶壁にお堂を投げ入れたのもこの行者小角です。
山歩きを趣味としている人が必ず一度は見掛ける彼の創建になる寺や、2人(匹?)の鬼を従えた彼の像ですが、役行者とはいったい何者なのかを調べてみました。これがまた楽しく、思わずニヤニヤ笑ってしまいます。
以下は色々な文章からの寄せ集めです。

役行者小角(役君小角 エンクンショウカク とか 役優婆塞 エンノウバソク とも)が実在の人物であったことを確認できる唯一の正史は「続日本紀」で、それも数行に過ぎない。よってその内容と、(彼自身は何も書き残していないので)彼に関する説話【日本霊異記など】を混ぜ合わせて、その人物像を想像するしか方法が無い。
小角は役一族の出身で、634年(飛鳥時代)奈良県御所市に生まれ、長ずるにしたがい山に関心を持つようになった。後、金剛・葛城山で修行し、遂に金峯山において金剛蔵王大権現に出会うこととなった。その蔵王大権現を本尊と崇めつつ、北は東北地方から南は九州に至る山々を歩きながら修験道の基盤を確立してゆく。
修験道というのは日本古来の山岳信仰に仏教を中心とした外来宗教、それに民間の信仰を結びつけたものであって、山を聖域とみなし、奥深くまで分け入って修行し、神秘的な力を獲得する方法である。この神秘的な力でもって自他の救済を目指す宗教であると考えて大きな誤りは無い。実際小角の呪術は驚異的な力を発揮したため、時の政権からも恐れられ、699年、謀反の疑いで伊豆に流刑となった。しかし彼は呪術でもって鬼神をも使役し、水汲み、薪集めをやらせ、言う事を聞かぬ鬼神は縛りつけて懲らしめたので、鬼神は全く背けなかった。一方彼は、昼間は島で大人しくしていたが夜になると海上を駆け渡り、富士山に登って修行を続けたという。このような力を有する小角であるから、お堂を投げ入れる位の事は至極簡単な作業であったに違いなく、考えようによっては鬼神を使って組み立てさせたとも。彼、この伊豆大島の地で亡くなったという説がある一方、罪を許されて帰り、701年(706年とも)68歳で箕面の「天上ヶ岳」で滅したとの伝えもある。平安時代に入ると山岳信仰は益々隆盛となったので、小角の名は一層高名となったのは当然で、彼が現した様々な業が喧伝されるようになる。それから1000年以上も後には、時の天皇から「神変大菩薩」のおくり名を賜っている。

市が原から摩耶山へ向かう途中に「神変大菩薩」を祀る祠があるのにお気づきでしょうか?
あれって役行者小角のことであるとは、今回始めて知りました。