行としての呼吸
令和5年、皆様の健康とご活躍をお祈り申し上げます。
初春の 日の生まれくる 薔薇色の 雲あり山の 低きところに
与謝野晶子
日の生まれくる、命の生まれくるようなはじめの時。
それは、呼吸から始まります。
私は”呼吸”そのものを、究極の”行”としてとらえる。
”行”としての”呼吸”とは、自然のままの”呼吸”ではない。
開かれた身体がみずから自覚をもって”呼吸”を”する(行ず
る)”ということである。
”呼吸をする”こと自体が、最善の意味で自己確認であり、自己実
現であり、自己創造であるような”呼吸をする”ことである。
西野流呼吸法のいう”行”としての”呼吸”とは”足芯呼吸”のこと
である。
私は、この西野先生のたたみかける表現に、感動しました。
(ノックアウトです)
そして、1月から金曜日の午前の、「基本の稽古を丁寧に見直そ
う」というコースに参加して、この先生の情熱をあらためて感じ
ています。
足芯呼吸で、木の根が水を吸い上げる時の臨場感を感じたり、
四元充足の以外のところのは「空」ということを、知ることがで
きました。
「空」は、まだイメージの段階ですが。
自己確認、自己実現、自己創造という道を希望をもって進んでい
けそうです。