「やめておけ。例えば両親のことを言ったとして、高校の奴等みたいにからかうとかガキみたいなことしなかったとしても、それを他の人に面白おかしく話したりしたらどうするんだよ」
「先輩はそんなことする人じゃないよ」
「わかんねぇだろうが。自分で自分を居づらくするような要素のある人間に話すなって言ってるんだよ。大体、話して口もきいてもらえなくなってもいいのかよ。やめとけ。そんで、風呂から出たらすぐ帰ってもらえ」
「なんでそんなこと言われなきゃなんないのよ。あたしは自由に恋愛もしちゃいけないって言うの」
愛弓は頭に血がのぼって、立ち上がり、持っていたカップを床に向かって投げつけた。
バリーンと音がして、残っていた味噌汁も飛び散る。絨毯にじわじわと染みが広がっていく。
そこへ、「どうしたの」と言ってお風呂から上がったらしい先輩がリビングに顔を出した。後ろには母もいる。
「じゃぁお前は耐えられる自信があるってことだな。そういう覚悟だったら勝手にしろ、オレはもう何も言わねぇ」
先輩が来たことを気にも留めずに、慧はそう言い放つと、煙草の火を消して、その場から立ち去って行った。
「何かあった?」
「いえ、ちょっと喧嘩しただけなんで、先輩は気にしないでください」
「ちょっと待って。カップ危ないから、動かない…」
突然だった。女の人の悲鳴がする。先輩は、わけがわからないといった表情で声の主を探していたが、私は真っ先に母の側に走った。
母は平静を失い、キッチンに向かってよろよろと歩いている。そしてキッチンにたどり着くと、引き出しから包丁を振りかざし、自分自身に突き刺そうとした。
その瞬間、私は母の手と包丁をつかんだ。
「お母さん!離して、お願いだから!」
叫んでももはや、母の耳に言葉は届かない。狂ったような眼でこちらを睨みつける。
「お母さん!お願い!」
二人で奪い合いをしていると、慧が焦ったように戻ってきた。
「何やってんだよ!やめろ!」
そういって二人に近づいて行った時だった。母が思いっきり私に体当たりをし、そのまま自分に向かって包丁を突き立てた。
「お母さん!」
私は意地でも離すまいとしがみつき、その反動で母と包丁の間に飛んだ。
そのまま母にぶつかり、しりもちをついて床に倒れる。
「おい、おい!しっかりしろ!大丈夫か!」
慧に肩を揺らされ、何とか目を開け、肩で息をしながら頷いた。わき腹に激痛が走る。じわじわと血が服にしみこんでいっているのがわかった。その横には血が付いた包丁が落ちている。よく見ると、足の裏からも血が出ていた。さっきの散らばったカップの破片を踏んだらしい。でも私はそんなことどうでもよかった。
「お母さん…お母さんは…」
母は口に手を当てて、自分が一体何をしたのかことの重大さに気づいたようだった。そのままどうしたらいいのかわからずにおろろろとしている。
「先輩、救急車呼んで!早く!後タオルと、右の戸棚に入ってる紙袋!」
先輩は状況がうまく飲み込めず、その場に立ち尽くしていたが、慧の声で我に返ったようだった。先輩が走り出す。
私はその足音を聞きながら、腕を伸ばし、母の肩を撫でた。
「あたしは大丈夫だから・・・ね?」
額からは汗が吹き出し、傷口からはずきずきと痛みが伝わってくるが、表情に出さないように耐えた。母の症状をこれ以上悪化させたくなかった。
すると母は、愛弓に後ろから覆いかぶさるように伏せて、「ごめんね、ごめんね、ごめんね…」といいながら泣き出した。
危ない。
「おばさん、落ち着いて。今救急車も呼んだし、大丈夫だから。な」
徐々に呼吸が荒くなってきている。
「救急車は呼んだ。後、これタオルと紙袋」
「悪いけど、愛弓頼む」
急いで戻ってきた先輩に、慧は愛弓を任せ、母を起こした。自分の膝を枕にして仰向きにさせる。そして紙袋で口を塞いだ。
「それ過呼吸…なの?」
「あぁ。いつも対応してるから大丈夫だ」
心配そうに母の顔を覗きこむ先輩に、慧はさらっと答える。私は母の様子を見ようとすることもできずに、痛みをこらえる。
「慧…お母さんは…?」
「お前よりは大丈夫だから、自分の心配してろ」
「そっか…先輩…すいません。こんなことになっちゃって…本当に…」
「気にしないで。これから救急車くるから、それまで頑張って」
愛弓は微笑みながら頷いた。先輩の声はやっぱり綺麗で、安心し、そのまま目を閉じた。
三分ほど経っただろうか。外から救急車の音が聞こえてきた。
「オレ、下行ってくるから、おばさん紙袋自分で持って。先輩はこのままそこにいて」
先輩が頷くと、慧は立ち上がり、エレベーターホールに向かう。少しすると、担架を持った救急隊員の人たちを連れて戻ってきた。手早く愛弓を担架に乗せ、救急車に向かって運び出す。母ももう一人に抱き上げられ、同じ場所へ向かった。車まで到着すると、更にもう一人隊員の人がいて、慧はその人に行きつけの病院と知っている限りの事情を説明した。先輩も慧が出ていった後の状況を説明し、救急車は愛弓と母の二人を乗せて、サイレンを鳴らしながら去ってた。