ひとひらの言の葉 -2ページ目

ひとひらの言の葉

ふと思うこと

今日の文章は毒が強めなので、毒にあてられやすい方は読むのをお控え下さい。


フラッシュバックが起きる時点で普通の状態ではないのだと気付くべきだった。
普段生活を送れているから大丈夫であろうと思ってしまったのだが・・・
今回ばかりは友人に「そんなになるまで我慢しちゃダメ!」とものすごく怒られた。

いえね、病院嫌いなのですよ。
付き添いとかならいいのですが、診察となるとね・・・

でもなぜだろう。自分を本気で心配して怒ってくれる人の言葉は嫌じゃない。
言葉に嘘がないからだろうか。
言葉と感情が一致してるからだろうな。

我こそは正義と信じて疑わない人の言葉には嘘も悪意もない。
なのになぜか“愛情”という言葉が薄っぺらく感じるから混乱する。
今なら分かる。
“愛情”という言葉を掲げた後ろに“支配欲”がチラついて見えていたからだ。

人間はいつもいい人ではいられない。
というより、いい人でいようと思っていたわけではない。
その場が嫌な空気になると具合が悪くなる。
頑張ろうとするのは自己防衛の為でもある。
だから過剰に“いい人”だと思われるのは私には重荷だ。

世の中で言う“いい人”というのは大抵自分にとって“都合のいい人”であることが多い。
だがほとんどの場合一方的に”いい人”のイメージを作り上げるから、少し違う部分が見えると“裏切られた””騙された”と言う。
本人は何も変わっていないのに勝手な話だ。

そのままであることを否定され続けると自分が迷子になっていく。
「私はどんな人だった?」


きちんと整理するため、都度専門の方に生い立ちから話さなければならなかったのだが、皆が皆、口を揃えたように「今までよく頑張って生きてきましたね」と言われる。
確かに、通常なら経験しなくても良いことだらけだったとは思うが。
世の中には“通常”ではないことって多くあったりするんだけどな。
まあ、そう言ってくれるならとりあえず自分を褒めておこうと思う。

追い込まれた時に極端に冷静になるのも一種の解離状態だったんだろうな。
痛みを受けているのが自分以外の誰かだと思うことで、芯の部分を守っていたのかもしれない。

ドッペルゲンガーが死に至るのも、もしかするとその原理なのではないだろうか?
他者のものであるはずの痛みが自分のものだと知った時、精神的苦痛に耐えられなくなり崩壊していく?
なんて、また余計な事に想像を膨らませては笑ってみる。
新しくするには既にあるものを壊した方が早い場合もある。
かなり無茶なやり方ではあるけどね。

彼だけを悪者にするつもりはない。
対人間の関係では10:0ということはありえないからだ。
私が彼の過ちを許せる人だったら、
私の“感覚”が過敏でなければ、
私が感情を抑えずもっとうまく伝えられる人だったら、
何か違ったのかもしれない。

どちらが悪いわけではない。
ただ分かるのは、私ではなかったというだけだ。

幸いにも私の周りには本気で心配してくれる人がいる。
否定され続けた“感覚”を肯定し、共感してくれる人がいる。
そういう人たちを大切にしていこう。

人間をおもちゃか何かのように「頑張れないならいらない」と悪意無く言えてしまう人のためにはもう頑張れない。

少しづつ、時間はかかるかもしれないが、自分を取り戻していこうと思う。

過去を整理することは大切だ。
前に進むために行き詰った原因を探り、この先に進むにはどうすれば良いかを考える。
だが自分一人で迷う場合には、第三者の意見が必要になることもある。

今日の文章は少々まとまりがないかもしれない。

男女共同参画センターというものに行ってみた。
自分の中でずっと抱えていた違和感について、第三者の意見を聞きたかった。

抱えていた時点で本当は気付いていたのだろう。
認めたくなかったのかもしれない。

言葉の暴力は傷が目に見えないため見過ごされてしまう。
本人も気が付かないうちに蓄積され、気が付いた時には深い傷となっている。
目には映らないので、近しい人に理解してもらうのも難しい。
世間の言う「いい人」の基準が何と適当なことか。
良い勉強になった。

「あなたがいなければ生きていけない」という言葉は一見素晴らしい愛情のように思える。
「共に生きていこう」という風に進めば互いに支えあえる力になる。
しかし一方的に自分の命を背負わせる形になれば脅迫、支配になる。
実際に自殺脅迫をされたこともあった。
身動きが取れなくなった。

後で知ってみれば「死にたい人は勝手に死ぬからわざわざ脅迫はしません。そう公言している時点で死ぬ気はないから安心していい」だそうだ。
確かに。やはり第三者の目は大切だ。良い勉強になった。

理解しあうことはできなくても、協力することはできると思っていた。
でも、無駄だった。
彼は人に寄り添う心を持たない人だった。
全て無駄だった。

カサンドラ症候群という言葉も初めて知った。
声を発することのできない人が、私の知る以上に世の中に多くいることを知った。

おかしな話だが無駄だったと思えてかえってすっきりした。
自分のできることはやった。
やはり人間出来なかったことよりやらなかったことの方が後悔するものなのだろう。

感情的にならないよう話したつもりではあるが、きちんと伝わっていただろうか。
「今までよく頑張ってきましたね。あなたなら大丈夫ですよ」
相談員の言葉に私は泣いていた。
言われる側になったのは一体いつぶりだったろうか。


切り落とすようなことはしたくなかった。
彼もまた、ねじ曲げられた正義に当たり前を奪われた人だったから。

でもそういった共依存こそが危険らしい。
体に変調を来たしては本当に大切なものも守れなくなる。
ここは専門家の意見に従った方が良いだろう。
やはり私は自分のことに関してものすごく鈍いようだ。

ふと友人が「奉仕と自己犠牲は違う」と言っていたことを思い出す。
もしかすると既にあの時壊れ始めていたのかもしれない。

切り落とすようなことはしたくなかった。
でも、切り離すことは必要なのかもしれない。

私はまだ生きなきゃいけないから。
守るべきもののために。
守りたいと思う自分のために。

「人の3倍のスピードで生きてるよね」
何故か昔からよく言われていた。

3倍のスピードで生きてたら3倍年とってるのでは?
と言うより、その“3”という数字はどこから出てきたのか?
自分としては3倍どころか、体が3つ欲しいと思うぐらいなのに。
そう考えて、ふと思った。

そもそも自分の性質が人の10倍から100倍の情報を吸収すると言われているわけで。
仮に10倍だとして、体が3つあるなら3倍のスピードで生きればおおよそ処理できるか、少し余るぐらいか・・・
なんて、まったく意味のない計算をしては笑ってみる。

まあ計算したところで現実に一日は24時間しかなく、体は1つしかないので、処理し切れないことが溜まっていく日々である。

整理し切れない感情を開放するのに久し振りに映画館に行ったがやはり良いものだなと思った。
相変わらず一番後ろの席にしか座れないのは不便ではあるが・・・
これは今後の課題としよう。

前に進もうと思えば思うほど過去を振り返る。
過去ばかり振り返ってはいけないと、これまた色々な人に言われるけど、過去を整理しなければ前に進めない人もいる。
振り返ることで前に進めるなら、悪いことではないと思うのだけどね。

舞台をやっていた頃は未来の話ばかりしていた。

友人は「自分の名前を皆が知るぐらいビッグになりたい」と言った。
私は「多くの人が、皆が知らなくてもいい。何年かしてあんな人いたなって一人だけでもいいから思い出してくれたらいいな」と言った。
色々討論して、お互い難しいねと言って笑った。

そうなんだ。

「少しでもあなたが笑ってくれるなら、私はそれでいい」
私は何も変わってなかった。

表面上は変わっても芯の部分は同じ。
大人になって仕事も変わり、自分の立ち位置で変えなきゃいけないことがたくさんあって、
言えないことも、伝わらないことも多くなって。

それでもいつだって望むものは同じ、何も変わってない。
私が変わっていくのは変わらないでいるためなんだ。

先に何があるのかなんていつも分からない。
開けた道にたどり着けるのか、その前に毒ガスにのまれてしまうのか。

矢面に立つのはいつだって怖い。
いつも足が竦む。迷う。
それでも気が付けば「望むところだ」と思う自分を自分の中に見つけまた笑ってしまう。

自分で真逆のベクトルを扱いきれてないのだから、人が理解できなくても当然と言えば当然かと思い、また笑う。
アクセルとブレーキを同時に踏んでいる感覚とはよく言ったものだ。
私は元々普通じゃなかった。

もっと上手に生きられたら良かったのにね。

それでも私は私と一生付き合っていかなければならないんだ。
どこまで行っても私は私であることは変わらない。

さて、
どこ行こうか?
どこまで行けるのかな?