kyottides的 喜怒哀楽 -37ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 中国での尖閣諸島デモは、見え透いたからくりなのは、先にも触れたけれど、それを明白に物語るのは中国外務省の会見だった。
 行き過ぎた行為は困ったことだが、デモの参加者の気持ちは、分かるのだそうだ。

 これほど、人を小馬鹿にした態度はないだろう。ヨーカ堂や伊勢丹をはじめ、店舗が破壊されたり、中にはスポーツ用品店の商品がやりたい放題に略奪されたのだ。そういう、無法行為に対して、中国政府は、何の取り締まりもしようとはしていない。ここまで実害を生んでおきながら、中国政府は無法者どもを泳がせ、日本政府は「遺憾」だというだけである。
 掠奪者すら取り締まらないのは、これが、中国政府の泳がせによるものだという以外に、理由はない。
 日本政府の言う遺憾とは、ただ残念に思うという意味であって、だからといって何をするわけでもありません、という意味でもある。
 しかし、事実は、無法行為があったのであって、日本政府は、時を置かずに、無法行為に対して厳重に抗議し、破壊行為があったことへの中国政府としての謝罪を求め、被害者への損害賠償、犯人処罰を求めるのがスジだろう。(デモは、やりたければやるがいい。だが、破壊と略奪となれば、話は別だ。という毅然とした態度が求められているのではないのか。)

 日本の沿岸警備警察(海上保安庁)に体当たりして逃げようとしたことで逮捕した中国漁船の船長を、突然、釈放したことを、那覇地検の判断だなどとシラばっくれることにした日本政府に対する中国側の回答が、こういう事態なのである。

 今の民主党が、外国に対して腰が低すぎるのは、仙谷らの社会党時代の対外政策そのままだ。旧・ソ連、中国に対しては、ことさらに低姿勢だった。というのも、ソ連や中国が日本共産党に対して敵対的だっただけに、当時の社会党としては、彼らとの親密ぶりを見せつけることで、共産党が孤立しているかのような印象を与えたかったという意味でも、こういうスターリニスト、マオイスト(毛沢東主義者)の機嫌を取ることに汲々としてきたからだ。
 だが、そういう対外的な低姿勢、すなわち、事大主義は、結局は相手をより一層、傲慢な態度へと調子づかせるだけのことである。このまま卑屈な態度が続くとしたら、日和見主義、事大主義、と批判してきたのに続いて、遂には、売国奴という批判へと発展せざるを得ないことになるだろう。

 管直人は、有言実行内閣とか言って、実行力を強調したがっているようだが、その基本姿勢が事大主義であってみれば、対外的には、言うべきことを言わない、やるべきことをやらずに我慢する、という卑屈な態度を「実行」することに他ならない。

 自主独立の外交ができないのは、民主党に限った話ではない。自民党もそうだった。両党とも、アメリカという後ろ盾がなければ、ものも言えない臆病な態度ばかりである。今回の事態でも、打開したいのであれば、アメリカの応援を仰ぐしかないようなことになってしまっている。
 だが、そのアメリカは、日中問題では、静観の態度を続けている。なぜなら、自らのCIAがテコ入れして作った自民党とは違う民主党政権なのだから、その判断力と行動力を観察するしかないのだから。自民党のように、アメリカのシモベとして相応しいのかどうか、ソ連・中国に媚を売ってきたような社民勢力が入っている民主党の値踏みをしているのだから。

 尖閣諸島周辺で日米合同軍事演習ができたらなぁ・・・、と思いながら、沖縄の基地問題を抱える民主党は、アメリカと相談することもできない。

 日本に対して破壊・略奪をも辞さないほどの怒りを持つような事件とは、何だったのか。それほどに日本という国が中国に対してひどいことをしたのか。この、あまりにも不自然な過激さは、ひどすぎる芝居だとしか言いようがない。なぜ、ここまで、演出し、ものものしく警官隊を並べて見せることになったのか。しかも、警官隊は、わざと、ものものしく見せかけながら、無法者の一人として捕えようとはしていないのである。
 答えは、単純である。
 言論の自由と民主化要求を封じ込めるためである。ノーベル賞騒ぎを忘れさせるためである。
 だから、中国政府に対する切り返しは、「ノーベル賞での国民の声を忘れさせ、かき消すための、見え透いた芝居は、もうやめろ。そのために日本を利用するな」と、いうところから始めるべきだろう。
 だから、日本の商店や企業の被害への謝罪と倍賞を求めつつ、劉暁波の解放を求めること、ここに中国政府を黙らせる糸口があると思っている。
 相手のアキレス腱を攻めること。それが、できるかできないかは、政権党の覚悟にかかっているのだが、あの顔ぶれに、何の期待ができるだろうか。
 民主党などというインチキ政党に期待した人々は、大いに後悔するがいい。
 日本の「愛国」団体が中国大使館めがけて抗議のデモ行進を知った中国は、大学生中心と言われる大衆運動もどきを演じて見せた。内陸部三都市での同時多発のデモと日本の建物に対するテロで、翌日の日曜日にもいくつかの場所で似たようなことが演じられたらしい。

 このからくりを見破るのは、難しくないだろう。
 ・中国共産党の中央委員会総会が開かれている最中でのこと
 ・1989年の天安門事件の際にオピニオンリーダーとして象徴的な存在となった劉暁波氏がノーベル平和賞などというものを受賞したこと
 ・この知らせを封じ込めようとした中国当局に対して、雨後の筍のように、学者、文化人、はたまた、中国共産党の元幹部など、国内の至る所から言論の自由を求める声明が併せて何百人にも及んで署名入りでインターネットに流されたこと

 こういうことが重なってみると、中国当局にとっては、大衆的な関心の矛先をそらせる必要に迫られているのは明らかである。そうした中で利用されたのが尖閣諸島の領土騒ぎなのだということは、見え透いているのではないか。
 尖閣諸島が国を揺るがすほどの大問題であるはずがないのに、これほどに大きな騒ぎを演じて見せるのは、いかにも不自然である。それだからこそ、その背後に見え隠れする中国共産党と軍部との確執が窺い知れるのでもある。

 しかも、である。
 今の日本は、イジメやすい。
 急激な円高を見ても、アメリカやユーロ各国がこぞって通貨安競争に走っている中で、ひとり日本だけが取り残されて、通貨高=輸出競争力の後退を招いているのだから。世界の経済のシワ寄せを日本にかぶせて自国経済を守ろう、ということで、足並みが一致しているのである。FTA(自由貿易協定)、EPA(経済連携協定)といった、個別協定ブームの中で取り残されてきたのも日本である。
 (このFTAやEPAは、あの1929年の世界大恐慌以降の、帝国主義列強によるブロック経済を彷彿させる。FTAの別名が地域限定排他協定と言われるように、経済排他協定であって、あの当時のブロック経済が日本やドイツを貿易経済から締め出そうとしたのと酷似している。)
 中国にとっても、日本がこのように孤立しているのだから、国際政治、国際経済にとって、日本のことなど気に留めているような余裕などないのだから、今なら、えげつないことをしたって、たいして咎められることもないだろう、と、情勢を読んでいるのだ。

 中国の政権当局が、この週末に起きた尖閣諸島を巡る反日運動に警戒感を抱いている、という報道も少なくないが、前にも触れたように、この問題での中国国内の動きは、どこまでもヤラセである。警戒感を抱いているとしたら、それは、中国当局内での主導権争いに他ならない。
 領土拡張の急先鋒は、いつの時代も軍部であり、これは、中国でも同じである。そして、その中国は、あの北朝鮮と同じ政治・軍事体制を取っている。つまり、政権と共産党と軍部の三位一体による統治という手法である。北朝鮮は自ら先軍政治と言い、軍部優先を明らさまにしているのにたいして、中国は、辛うじて共産党が軍部を抑え込んでいるかのように振る舞っているだけのことである。
 軍の幹部ももちろん共産党の幹部を兼ねているわけだから、国内の至る所で軍の息のかかった「運動」なるものを組織することくらい、なんでもない。

 こういう一党独裁政権にしてみれば、今回のノーベル平和賞問題は、国際社会での威信にとって痛手となったばかりではなく、むしろ、国内から今回の賞を評価する声があがったことこそが問題なのである。

 ところで、個人的には、ノーベル賞に関しては、自然科学分野での権威を除いては、見るべき価値などないと思っている。社会科学、人文科学の分野ともに、政治的に利用されることを明白に意図した賞である。
 ノーベル賞というものが、人類普遍の価値を評価するものとして認められ権威を持つには、検証可能な実績にのみ限定すべきであろう。そうだとしたら、自然科学分野以外に広めるべきではないだろう。社会科学、人文科学分野にまで広げたのは、自然科学分野でのこの賞の権威を利用して、その賞の価値を貶めることになっているとしか、言いようがない。
 はるか昔、佐藤栄作が総理大臣だった時に非核三原則を国是として宣言したことを以って、ノーベル平和賞を受賞した時、この賞に対する幻想は、個人的には、消え去った。


 さて、そうはいっても、民主化運動の象徴としての劉暁波がノーベル平和賞ということで、民主化を求める勢力にとっては政治的に大きな励ましとなった。弾圧を覚悟の上で、言論の自由と政治の民主化を求める声明が数百人の著名人の署名付きで公表されたことは、政権にとっては大きな脅威となったことは明らかである。
 こんなものが国内に流布されてしまったら、政権そのものが揺るぎかねない。国民の興味関心を他にそらさなければならない。その狙いにとって最も好都合なのがナショナリズムなのだった。これをかき立てるのに、格好の標的が、ほかならぬ日本なのだ。
 中国政府は表向きは、このナショナリズムの行き過ぎを警戒するようなそぶりを見せていながら、実は、まだ、泳がせるつもりでいる。ノーベル賞騒ぎを忘れさせ、抑え込むためには、その方がいいのだから。
 さらにまた、共産党中央委員会総会の開催中であってみれば、党内での主導権争いの上でも、こういう「外野の応援」は好都合でもあるだろう。誰にとって好都合かは、疑いもなく、軍部である。
 それがまかり通るとしたら、かつての日本で、軍部が政治家を蹴散らして政権を乗っ取ったのと同じように、また、今の北朝鮮とも同じように、先軍政治となることだろう。今の中国の政権は、それほどに危ういところに来ているのかもしれない。

 忠君愛国にウンザリしているのと同じように、中国「人民」の愛国運動が、エセ運動であることにウンザリしている。他国を敵に回そうとするような、他国に対して攻撃的にふるまうような、こんな「人民」諸君は、恥を知れと言いたい。
 アメリカが言うようなテロとの戦いなるものも、世界中で侵略と殺戮を繰り返したキリスト教徒たちによる厚かましく恥ずかしいエセ正義だが、中国の「愛国」運動もまた、エセ正義なのだ。どちらの場合も、戦争がしたくてならない軍需産業や、人殺しと破壊を任務とする軍部の言い分である。

 ところで、共産主義とは、一党独裁とイコールなのか。それこそが、スターリンによって歪曲された「マルクス・レーニン主義」なるものなのである。今の中国が民主化問題を解決できないのは、こんなものをいつまでも掲げているからである。
 チリの落盤事故で地下700mに閉じ込められた33人の救出がいよいよ始まるところまで辿り着きました。
 この話題の中で、地下に閉じ込められた人々が、誰が先に救出カプセルに乗るのか、で、もめているそうです。それも、先を争ってのことではなく、逆に、自分が最後に残りたい、と。

 NHKなどは、これを美しい譲り合いの精神だとして、美談に祭り上げています。
 どこかの民放では、「地下に閉じ込められた最長記録のオトコとしてギネスに載りたい、と、もめている」と報じていました。
 どっちの話を信じるかは、人それぞれではあります。

 いずれにせよ、33人の男たちの陽気さ、楽天的な気質(かたぎ)が垣間見えます。予想よりもだいぶ早くに救出まで漕ぎつけたことで、この話題は「ああ、よかった」と気持ちが明るくなる話題には違いありません。あとは、ここまで来た詰めの段階で二次災害となるような事故が起きないことを願うのみです。
 先週のCCRは、懐かしいとは思ったけれど、やはり、甘ったるいというか、もろに田舎風(カントリー調)でしたね。それに比べて、シカゴの「長い夜」は、強烈でした。
 管楽器を採り入れたロック・バンドの草分けとして“ブラス・ロック”という言葉を生んだグループで、最初の頃は、時代を反映して政治色もあったのですが、長く続くうちに、ブラスも姿を消してしまい、軟弱な路線に変わっていってしまった・・・。今では「素直になれなくて」のような曲が代表曲だと思っている人も少なくないと思います。
 ところで「長い夜」の原題は“25 or 6 to 4”。4時まで25、6分(つまり3時34、5分)という意味なのですが、LSD25または624(Quaaludesのこと)というドラッグの意味ではないか、というダブル・ミーニングの議論が絶えなかった曲でもあります。
 公民権運動、ベトナム戦争、大学紛争などとともに、シカゴ「暴動」(というよりもシカゴ弾圧)や、さ迷うヒッピーの登場とドラッグの蔓延なども含めて荒っぽい空気の時代でした。

Chicago 25 Or 6 To 4


Saturday in the Park "Live" (1972)
Hard to Say I'm Sorry/Get Away


USA vs Democracy - Chicago Illinois 1968
 レストラン、コンビニなどの従業員の女性たちの顔ぶれが、10月に入ってから、ずいぶん変わったように思います。
 「このお店、ちょっと前までは、留学生のアルバイトとか、いたけど、そういう子がいなくなったね。」
 「うん。きれいな人が増えたわねぇ。」

 年度の前・後半が切り替わったタイミングだからなのか、こうした職場で働く人たちの水準が上がっているように思います。パート、アルバイトの時給に大きな変動は見られない中で、こういう変化が起きているのは、なぜなのかと考えてみました。

 一頃は、ウエイトレスなどの中にも危なっかしい子が少なくありませんでした。サンダルをペタペタと引きずるように歩いたり、髪の毛がふさふさに出たままで料理を運ぶような無神経さとか、敬語・丁寧語の使い方も怪しくて笑ってしまいそうな接客ぶりとか、はっきり言って、働く人たちの水準はずいぶん低いと感じていました。
 ところが最近は、上場企業の受付嬢も務まりそうな、上品できれいな人たちが増えているように思うのです。受付嬢というのは総務部秘書課などの所属で、マナー教育とかコンティンジェンシー・プラン(予想外の事態が起きた時の対処法)の訓練とか、そういうことがしっかりできている能力の高そうな人たちなのですが、それくらいの水準ではないかと思うような人たちが、レストランのウェイトレスやコンビニ店員の中などに見られるようになって、店が明るくなってきているように感じます。
 こういう変化というのは、たぶん、労働環境が相当に悪くなっているためではないだろうかと思いました。
 新卒の高校生や大学生の就職難というだけではなく、すでにこの秋からは、質の高い労働者が、決していい条件とは言えない職場にも仕事を求めなければならない情勢になっているのではないか、と。そうなれば、かろうじて職を得ていた人たちは、ますます、働き場のない環境に追いやられてしまいます。

 アメリカやヨーロッパでは、そうした人たちの苛立ちを反映して、外国人労働者、不法移民の排斥運動が時折、表面化しています。それは、容易に安っぽいナショナリズムと結びつきやすいだけに、つまり、誰かを敵に回そうとする考え方に走りやすいだけに、社会不安の要因にもなりかねません。
 日本の場合、戦後教育のおかげで、競争原理一辺倒の教育のおかげで、つまり、民主的な精神とノウハウを育ててもらっていないおかげで、良くも悪くも、多くの人々は団結する方法を知らないために、社会運動、市民運動は育ちにくく、そのおかげで外国人排斥などのナショナリズム運動もまた欧米諸国のような事態には発展していませんが、しかし、むしろ、その方が、怖いかもしれないのです。というのも、ノウハウがない分だけ、一挙に暴動化しやすいからです。昔の日本の一揆や打ち壊しのような、いきなり暴動化する事態です。今でいえば、大統領選挙を巡って因縁の対決が続くタイの事態のようなものです。

 店が明るくなった、接客ぶりがよくなった、と、喜んでいる間に、実は、世の中の事態はとんでもない方向に動き始めているのかもしれない。そんなふうに感じるのです。
 しかし、その、とんでもない方向こそが、人民主権、民主国家への欲求の芽でもあるのです。あの「龍馬伝」ではないけれど、「誰もが笑って暮らせる世の中をつくりたい」気持ちに発展していく芽でもある、と。
 労働環境が変わるなど、行き場のない人々が増える時、そういう欲求が強まってくるのも必然なのですから。
 ただし、そういう欲求がかつての大日本帝国のように偏狭なナショナリズムに吸い込まれていくのか、そうではなくて、民主運動として発展していくのか、それは、これからの闘い方次第です。

 検察が検察を逮捕せざるを得ない失態を招いた大阪地検の事件は、誰もが“あいた口がふさがらない”ほどのお笑い沙汰となってしまっているけれど、受け止め方には大きな差がある。
 「まさか」ありえない事態だと驚きを隠せない人々がいる一方で、「やっぱりね」と日本の権力機構=暴力機構の体質が露呈しただけだと受け止めている人々がいる。また、これと関連することだが、はたして、最高検は、正義の味方なのか、という問題についても目を向けなければならない。
 大阪地検の問題がここだけの例外的な事例だと思いたい人々は、最高検が正しい判断をしてくれるものと期待しているだろう。
 だが、検察庁の体質が露呈しただけだと思う人々にとっては、最高検だってアヤシイ。というよりも、これ以上問題を上層部に波及させないために、あえて醜態をさらしてでも、大阪地検の特殊事情として封じ込めたいために、「私は悪(ワル)でした」というスケープ・ゴートを白日のもとに差し出すことにしたことが見え透いている、と、受け止めるのである。
 それにしても、逮捕された二人の上司は、今更人生の出直しなどできない自らの生活と将来がかかっているから、最高検の思惑には従わず、徹底抗戦の態度を取っているのだが、それこそが、日本の権力機構を支える諸君の腹にある“国家への忠誠心”の正体でもあることが浮き彫りになって、多くの人々の失笑を買っているのだ。
 だから、推測するのだが、最高検は、たぶん、この二人、また、最初に逮捕した現場主任を含めた三人を黙らせるために、ウラから手を回すだろう。脅すか懐柔するかは知らないが、「えーっ??? なに、それ?」という結末に導くことだろう。中国漁船の船長を放免した那覇地検、小沢一郎を不起訴にして検察調査会のクレームを浴びた東京地検、などのように、自分のクビが大事なのだから。

 弁護士に不良弁護士が少なくないように、同じ司法試験に受かった検事たちに不良検事がいても不思議ではない。特に、在野の人間である弁護士と比べると、権力をカサに着て強制力を持っている分だけ、立場をはき違える不良検事が多くなるのも当然だろう。しかも、公務員が公僕であることを忘れて腐敗する以上に、人に対して法律の名による暴力(直接的には身柄拘束)を行使するだけタチが悪い。

 なぜ、こういう不良たちが生まれるのか。一言でいえば、戦後教育のおかげであろう。つまり、民主国家であるはずが、実態は、古い大和魂に拠り所を求めたナショナリズムを克服できなかったおかげなのである。
 司法畑を含めた国家公務員たちにとって、守るべきは、国民生活であるよりも国家の威厳とやらを後生大事に掲げ、その威厳に対する忠誠心を発揮することであって、国民一般に対しては「良き導き手」として振る舞おうという思い上がった態度が根底にあるのだ。太古の昔からのこういう愚民思想が、権力を担う者たちを支配する古臭いイデオロギーなのである。
 (外務省の対米密約とか、先日のNHKで取り上げた60年代の西ドイツ外務省との核武装を巡る秘密協議など、外務省には特にそういう体質がはびこっているし、これは、日本の核武装研究を行なった内閣調査室にも共通している。「我々は、一般の者たちよりも深く綿密に、この国のことを考えているのだ」と。)

 司法を含む公務員が国民的な支持を得るとしたら、それは、真に民主的な国家となる時だろう。役人は、国民の負託に応えて働くものである、という根本的な原則が、役人組織にも常識として定着する時であろう。
 だが、しかし、保守的な政権が続く限り、そういう民主化は、期待しようもない。
 最近は、雨模様の日もあって、だいぶ凌ぎやすくなりました。本来なら9月の雨とか、もっと、早い時期にくるものなのでしょうが、やはり、今年は1カ月以上も季節の変化が遅れているようです。
 カントリー調のロック・グループ、CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の雨の2曲など、ちょうどいいかな、と思いました。でも、彼らの最大のヒット曲は、やはり、プラウド・メアリーでしょう。

Have You Ever Seen The Rain?
Who'll Stop The Rain


Creedence Clearwater Revival: Proud Mary
 国家というものが組織され正当化された暴力のことである、というのは、今回の尖閣諸島の事件でも明白だと思う。国内においても、対外的にも、国家とは、そういう暴力のことなのである。

 暴力を後ろ盾にして、国家は政治を運営する、つまり、統治する。
 「いやいや、日本を含めて近代国家は法治国家でしょう」と思う人もいるかもしれないが、法律の効力を担保するのが罰則であり、軍隊、警察、司法がその罰則を運用するのであって、その方法が逮捕・拘置、刑罰、戦争という暴力なのである。
 (だから、罰則規定のない法律は、法律の名に値しないザル法と言われ、特に、労働関係法規や、社会的弱者に関係する法律にはそういうものが多い。)

 中国というのは、管政権の民主党ではないけれど、また、小沢一郎的ファシズムではないけれど、まさに「政治主導」の国家である。レアアースの扱いをはじめとする経済のコントロールにせよ、軍事施設を撮影したとして人を拘束するような治安上のコントロールにせよ、何から何まで、政治的に運用している国である。
 「政治主導」で思う存分に、言いかえれば、効果的に、暴力を行使している国なのである。

 さて、これに対して日本という国は、どうなのか。あの中国漁船の船長を釈放した経緯を見れば、中国による経済上の締め付けに震えあがって、慌てて行なった措置と言わざるを得ないが、時間が経つにつれて、官房長官の仙谷の日和見主義が浮き彫りになってきた。その日和見には、日本の経済界からの圧力も加わっていたということも知られ始めている。
 自民党時代もそうだったし、現在の民主党政権でも、変わっていないことが明らかになったのは、日本の政治とは、つまり、日本の経済界の要求に基づいて、経済界の言いなりに運用されている、ということである。
 日本は、だから、「政治主導」の国などではなく、経済界のニーズに突き動かされている国なのである。
 今回の尖閣諸島を巡る一連の事件の顛末(てんまつ)は、国家とか民族とか、そういうナショナリズムよりも経済的利益の方が大事だから、政府には屈辱的な役割を担わせておいてでも、中国との貿易の安泰を優先させた、ということなのだ。

 仙谷らの元社会党、元民社党などの社会民主勢力は、あの「連合」のように、御用組合の担い手たちと同じ体質を持っている。派遣労働が問題になった時に、正社員クラブの「連合」は、当初、期限の切れた派遣労働者を職場から追い払う役割を担った。労働者の団結と連帯よりも会社の利益のために働こうとした者たちで構成された「組合」のナショナルセンターなのである。
 国内の問題、会社内の問題に限らず、外交的な諸問題についても、管政権の社民勢力の価値観と判断力は、御用組合たちに象徴されたような、カイシャのために働き、カイシャに頭が上がらない日和見主義者たちの態度として、一貫して変わらなかった。そういうことなのだ。
 御用組合とは、会社の不当な職場管理や待遇に対して闘う労働者たちが団結して旗揚げする労働組合とは異なって、むしろ、そういう人々の闘いをつぶすために、会社の総務部門、労担(=労働担当)部門が、会社の権限や資金を使って作り上げる団体である。名前は労働組合でも、「会社あっての私たち、会社のおかげの生活」を守りたい賛助会と化している。
 普通、労働組合を結成するとか加入するとか言えば、「会社に睨(にら)まれる」ということで、本人もまた、家族や友人たちも、躊躇したり、思いとどまるように説得したくなるのが常である。
 しかし、御用組合は違う。会社も認めてくれているのだから、また、会社が保護してくれるから安心だ、と、加入するし、ユニオンショップ制にも守られて組合員にならないとクビを切られる、というほど、加入せざるを得ない仕組みになっている会社もある。
 ユニオンショップ制は、もともと、労働者の身分を守ろうとして始まった方法であって、組合員であれば、会社が一方的に解雇や諸々の懲戒などの処分を行うことができず、組合の同意を得なければならない、という仕組みだった。しかし、会社と御用組合は、これを逆手(さかて)にとって利用しているのだ。待遇に不満を持つなど会社の意向に沿わない人間を、会社の責任で解雇するのではなく、御用組合に「組合員にふさわしくない」と言わせ、組合から追放させることで、クビにしやすい環境を作るのに利用されることとなった。
 会社と御用組合とは、江戸幕府と岡っ引きとの関係のようなものなのだ。だから、「連合」勢力の労働組合が、正社員クラブとか御用組合と言われる理由なのである。
 中国は、政治で経済を揺さぶる。その態度は、外交面に至ってまでも、えげつないほどに強力である。
 日本は、経済が政治を揺さぶる。その態度は、こと外交に限っては、どこまでも卑屈でさえある。


 ところで、中国のあのナショナリズムは、一貫して反日教育を行ってきたことの、素朴な結果である。中国の政権は自らの正当性を強調するために、日本による侵略という民族的危機を打ち破った英雄として描き出すあまり、日本そのものを社会的な悪と断じるようなアホなナショナリズムをかき立てることにもなった。
 中国の対日強硬姿勢は、国民のナショナリズムを抑えることができないために、やむを得ず、強硬なふりをしているのだ、という日本の評論家もいるけれど、こういう見方は、非常に軽薄だと思う。「政治主導」の中国では、ナショナリズム自体も、実は、“泳がせ”なのだということを理解していないからだ。
 中国のあのナショナリズムは、大日本帝国時代の日本のナショナリズムの“世論”と同じである。満州国バンザイ、大東亜共栄圏バンザイなど国の煽動の尻馬に乗って調子づいていたのと同じように、「おかみ」の言い分を鵜呑みにしてきた連中なのだ。中国政府は、これを利用して「日本政府が“誠意”ある態度を取ってくれないと世論を抑えられない」ふりをしているのに他ならない。
 言いかえれば、世論のふりをした政府のサクラのようなものである。政府が「黙れっ」といえば、ピタッと止んでしまうような世論“なるもの”なのである。
 こんなナショナリズムを煽り立て、利用せざるを得ないとすれば、大日本帝国、ヒットラー・ドイツ、スターリン・ソ連などと同じように、ウソにまみれた煽動を含めて、国民を煽り立てる方法に頼らなければ、政権の基盤を維持できないほど脆弱(ぜいじゃく)な権力=暴力装置であることを物語っている。そういう基盤の弱い権力ほど、時として、露骨に暴力の暴走に走りやすい。かつての日本の治安維持法やスターリンによる粛清のように。(今でも、東京都知事の石原慎太郎らを含む「立ちあがれ日本」などの極右勢力や、民主党の小沢一郎のように、強権的な大日本帝国的な勢力は生き続けている。)

 国内の矛盾の解決を回避して国外に敵を作ろうとするような、昔ながらのナショナリズムは、それと真逆のナショナリストを相手国の側に広げることにしかならない。行きつく果ては、互いに憎悪の感情を膨らませるだけだ。
 マルクス、エンゲルス、レーニンらのインターナショナリズムを真摯に学んでいるのか、それとも、スターリンや毛沢東によってゆがめられ、えげつない大国主義に毒されたままなのか、中国の権力と国内の主要なイデオロギーの在り方が問われている。
 「万国の労働者、団結せよ!」
 今の中国の指導部に、この呼びかけに応える気概は、あるのだろうか。と、問うまでもないような事態に陥っているように思えてならない。

 日本も日本で情けない政権だが、中国もまた、その基盤の脆(もろ)さを抱えた危なっかしい政権に見える。だから、ギクシャクしやすく、互いに、コトを荒立てやすいのだろう。
 どちらも、自らの過去を、真摯に誠実に総括できていないことのツケが回ってきているのである。

 映画、演劇、コンサート。
 観客席に座って鑑賞する催しに出かけたくなる季節です。そういう時は、ちょっと気取ってお気に入りのスーツに着替えて行きたい。鑑賞後にレストランに行くことも楽しみの一つですね。ワインも添えた食事をゆったり味わう贅沢を楽しみたい。だから、やっぱり、カップルで、ですよね。

 さて、どこの国でも、超がつくほどのロングランとなったのは、やっぱり「屋根の上のバイオリン弾き」と「キャッツ」かな。
Fiddler on the roof  SUNRISE SUNSET


Cats Musical - Memory

 
 だから、日和見主義は、こういうことになってしまうのだ。
 今の民主党は、社会党右派とか民社党、社会市民連合などの「社会民主主義」政党の、そのまた、日和見主義の連中が少なくない。この勢力は、資本主義体制と妥協しながら「市民」の立場に立つと唱えながら、資本主義体制の本質を何一つ変革できない臆病者の歴史を持つ。だから、政治的緊張関係の場面では、常に動揺を繰り返してきた。

 例えば、日本の原水爆禁止運動でも、さまざまな政治的立場の人々、宗教的立場の人々が一つにまとまっていた原水協(原水爆禁止日本協議会)に分裂を持ちこんだのも当時の社会党だった。1960年代のことだったが、アメリカとソ連とが「部分的核実験停止条約」を結んだことから、これが平和への第一歩だとしてソ連を支持すべきだという主張を持ちこんだのだ。
 この「部分核停」条約については、米ソなどの核軍備を既成事実として容認し、しかも、核実験停止の内容も骨抜きだとして、原水協は、これを支持しない立場を取ることになったのだが、これに反発した社会党勢力が独自に原水禁(原水爆禁止国民会議)という分裂組織を作るに至った。
 その後、原水協と原水禁との二つの団体が分裂したままそれぞれの運動を続けることとなり、その間の米ソの核軍拡競争は、この「部分核停」条約も反故にするほど、激しさを増し、米ソ英仏のみならず中国が核を保有し、インドやパキスタン、イスラエルなどへと核拡散の一途をたどることになった。

 大事な政治的局面では、いつも、後々に禍根を残すほどの大きな過ちを犯してきたのが、社会民主主義勢力の歴史なのだった。あの米ソの駆け引きのことを、平和への一歩であり、この成果を生んだソ連を支持すべきだなどと、ソ連の言い分を鵜呑みにしたうえに、日本の原水爆禁止運動を分裂させてしまった張本人が、いまの民主党にいる社民勢力の先輩たちなのである。

 そういう苦い歴史を思い起こすほどに、今回の尖閣諸島を巡る事件での民主党政府の対応は、歴史的に問題を残し、引きずることになる日和見主義を露呈させた。

 中国の漁船が海上保安庁の船と衝突しながら逃げようとした、というのは、地上でいえば、自分のクルマをパトカーにぶつけながら制止を振り切って逃げようとしたのと同じことである。那覇地検の言うように被害軽微につき、また、計画性もないことから、処分保留で釈放であるならば、地上でパトカーにぶつけながら逃げることも、“お目こぼしいただける”ことになってしまう。
 公務執行妨害での逮捕というのは、警察力に対する抵抗そのものに対する罪であって被害の程度の有無で判断するような内容ではない。デモ隊の一人が警備の警官を「邪魔だっ」とちょっと小突いたりしたら、指揮官の「逮捕っ」の一声で、一気に5、6人の警官が襲いかかるような性格の罪である。
 それに、そういう公務執行妨害の以前に、中国の漁船が日本の領海内に勝手に入っていたのなら、領海侵犯として拿捕(だほ)するのがスジではないのだろうか。ソ連がロシアになっても、あるいは、ソ連時代以上に、ロシア政府は、日本漁船をバシバシと捕まえているほどである。

 だから、検察は、法律上の疑問点を突っ込まれたら、答えに窮することをいくつも重ねてしまっているのだが、その背後には、元・社会党の官房長官、仙谷の意向が働いているというのは、どのメディアも、どの評論家も指摘しているように、「検察が政治的発言をするなどとは、奇異なこと」という点から、はっきりしている。
 そもそも、漁船の船長を逮捕することを決めたのも現場の警察(海上保安庁)ではなく政府だったのだから、日和見主義の保釈を決めたのも政府に他ならない。

 さて、民主党の日本政府は、今回の事件について、政府の関与をシラパっくれることにして政治問題化・外交問題化することを避けたつもりになっているかもしれないが、実は、逆に、中国を調子づかせる結果にしかならないことを見通すことができなかった。あの「部分核停」条約の時と同じように、である。これから起こりうる事態は、おそらく、日本外交にとっては、ますます、恫喝という手段が通用することの積み重ねになるかもしれない。民主党政権である限り、日和見主義者の政権である限り、そうなりそうである。
 たとえば、竹島(島根県)についても、今回の事例は、日本政府の外交姿勢について、韓国にとって大いに参考になっただろう。また、今回の尖閣諸島の東シナ海ばかりでなく、中国の傍若無人な態度に悩む南シナ海関係諸国にとっては大いに失望を招いたことだろう。

 日本が帝国主義時代をきっぱりと総括できていないことで政治・外交に問題を残してきたように、中国はスターリン主義、毛沢東主義を総括できていないために、多くの問題を引き起こしている。スターリンばりの大国主義がその最も大きな弊害となっているし、スターリンばりの個人崇拝を伴う独裁政治、毛沢東ばりの暴力主義などなど、挙げればきりがない。
 中国が支援し続けた政権には、そういう弊害を抱えたものが多すぎる。現存しているのは北朝鮮であり、かつて大問題になっていたし、今、その傷跡が大きくのしかかっているのがカンボジアである。カンボジアのポルポト政権に対しては、ベトナムへのポルポトからの国境侵犯が絶えなかった中、中国はそれに呼応して、ベトナムに対して戦争を仕掛けたことまであった。(この中越紛争を最初に世界に報道したのは日本の『赤旗』特派員で、彼は、その前線で中国軍に撃ち殺された。)
 このほかにも、チベット、新疆ウイグル自治区など、中国の民族政策、外交政策には、スターリン、毛沢東以来の態度が滲み出ている。(スターリンなどは、自分の生まれ故郷なのに、グルジアに対して弾圧を極めたほどだ。)

 日本の共産党も、このスターリン主義や毛沢東主義とは、その影響を受けた時期もあれば、それとの決別の闘いで辛酸をなめたこともあった。そういう歴史から、1950年代の終盤以降の現在の綱領路線では「自主独立」の立場を取っている。
 六十数ヵ国の共産党・労働者党による国際会議が開かれた際、ソ連を世界の共産主義運動の指導者として認めようとした動きに反対し、また、部分核停条約の際には原水協の立場を守り、さらに、毛沢東の文化大革命も支持せず、中国共産党を批判した(この時も、日本共産党のメンバーは北京空港で毛沢東の私兵だった紅衛兵たちに襲われ暴行を受けていた)。
 ソ連、中国とも、自らの路線を支持しない日本の共産党に対しては、敵同然にふるまう歴史が続き、そんな中から、ソ連追随派、中国追随派の者たちが脱落していったのだった。そんな彼らは、今では、存在すら知られることのない泡沫政党とか政治グループと化している。
 この「自主独立」路線に最も励まされたのが対米戦争中の北ベトナムのベトナム労働党(統一後にベトナム共産党)、南ベトナム民族解放戦線(アメリカ、日本は彼らの別称として「ベトコン」と呼んでいた)だった。ソ連派にもならず中国派にもならないことで、国際的なベトナム支援の輪が広がったことが対米戦争に勝利する力となったのだ、と。
 こういう歴史を振り返る時、中国の政府指導部、共産党指導部に対して、したたかに振る舞うことができるのは、おそらく、日本では自民党か共産党くらいだろう。相手に対して卑屈にならずに闘ってきた点では、自民党よりも共産党の方が毅然としているだろう。
 30年余りの時を経て、日中の共産党の和解を申し入れてきたのは、中国の側からだった。