kyottides的 喜怒哀楽 -34ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 きのう、届いたコメントに返信をかいたら、長すぎてコメント欄に収まらなかったので、ブログ投稿にしました。

 いただいたコメントは、こちらです。 ⇒ 今日も「今日の一曲」

以下、返信文。

 コメントをありがとうございます。ていねいな文面で嬉しく思いました。
 以前、毎年のようにヨーロッパ出張に出かけていました。フランス、イギリス、ドイツ、イタリアをそれぞれ2泊ずつくらいの駆け足の取材でした。パリにお住まいのnekaさんのブログは懐かしい風景もあったり暮らしぶりがうかがえたり、楽しみに思っています。

 さて、いただいたコメントについてですが、わたしなりの階級観、宗教観をまとめてみました。

 世界のどこの国が好きか嫌いかというのではなく、どこの国にも良い面も悪い面もあると思うし、どういう空気が自分に馴染むかは、それぞれの生活感覚だと思います。そんな中で、歴史を作ってきた風土について、自分なりの世界観はこういうものである、というだけですので、適当に読み流してもらえればいいと思います。

 階級社会の伝統について
 日本のように、階級制度の意識が薄い国の方が、誰もがチャンスを求めて激しい競争を演じることになると思います。特に、日本や韓国、台湾、そして中国などは、受験競争の低年齢化が凄まじいと思います。
 ドイツのマイスター制度が有名だと思いますが、ヨーロッパ諸国では、そうした一面的な競争ではなく、生活の多様性を受け入れたり、認めたりする環境があると思います。おそらく、生活習慣や文化などの伝統の重さが、階級社会を存続させ、それぞれの階級の中での幸福の追求という生活感覚が生き、社会的に受け入れられているのだと思います。
 誰でもチャンスがあると思える社会ほど、ワーカホリックが多く、また、自殺にまで追い込まれる激しい競争にさらされていると思っています。なぜなら、競争に勝てればいいものの、失敗や敗北は即、没落につながるからです。しかも、競争からの脱落は低年齢化が加速されています。

 ただ、そうはいっても、同じ「市民社会」と称され、表面上は階級制度など廃止されている社会です。にもかかわらず存在する持てる者と持たざる者との軋轢(あつれき)は、いずれ表面化せざるを得ないでしょう。昨今のヨーロッパ諸国の財政破綻とそれに関連する反発の激しさは、一つの象徴にも見えます。

 宗教観について
 わたし自身は、キリストやイスラムの一神教が侵略を正当化し諸国間・民族間の対立を生んできた宗教だと思っています。アジア的な、または、エジプト的な、さらにヨーロッパでもギリシャ神話や北欧神話のように、多神教の伝統が生きている地域では、自然との共生とか他者を受け入れる精神風土が生きていると思っています。
 三大宗教の中で仏教だけが武力に頼らずに布教を広めたという日本の哲学者もいました。ましてや、日本などは、神様も仏様も「あり」だし、不幸や災いのもとだって神様(死神、貧乏神など)で、悪魔という概念がもともと存在しませんでした。
 おそらく、人間にとっての正義というものの感覚が違うのではないかと思っています。

 さきの階級感覚とも通じるかもしれませんが、唯一者とか絶対者という存在を認め、そのもとでの自分の居場所を定めようとする社会と、誰でも神様、仏様になれると信じ、誰もが成功のチャンスがあると信じる社会との違いにつながっているように思うのです。

 フランス革命のスローガンとなった「自由・平等・友愛」のうち、「友愛」は日本では「博愛」と訳されてしまいました。日本的には、仲間を愛する「友愛」または「団結」ではなく、誰でも愛する「博愛」であるとして、誰でもウェルカムのように装います。しかし、それは、失敗・敗北したものに対する冷淡さと裏表であることが、実は、恐怖なのでもあります。
 戦争に負けた時、大宅壮一(大宅映子の父親)が言い出し、ふりまいた「一億総懺悔」のように、みんなが一緒であるかのように、誰もが同じ意識であるかのように描き出す一方で、異端者とか脱落者はあたかも存在しなかったかのように徹底的に黙殺する社会でもあります。

 とまあ、こんなふうに考えている次第です。
 政界の混迷は、民主党政権の誕生の際、民主党の「終わりの始まり」と指摘して以来、その通りに推移しているように見える。そんな中で、さまざまな人々から危機意識が募っている表現が飛び交うようになった。とくに、ナショナリズムを煽る右翼的な論調が勢いづいているのが特徴となっているように思う。

 中国もロシアも、日本の今の政権の素人ぶりにつけ込んで厚かましさを増長させている中、日本が危ない、日本を守らなくては、という論調で、だから、国家意識を高め、広めなければならない、「お国のために」「闘う」勇者を育てなければ、というのである。

 そのために何を言うかといえば、「美しいニッポン」である。美しい国土、美しい伝統、美しい文化、等々。とにかくわが祖国日本を美化することによって、愛国心を奮い立たせようというわけだ。そういう諸君は、たとえば、病気のふりをして政権を投げ出しておきながら未だに権力への未練、野心を捨てきれないオボッチャマ=安倍晋三とか、超保守的メディアとして有名な読売グループ(読売新聞、日本テレビの一群)で飼いならされた元アナウンサー=櫻井良子などを動員して、愛国心、国家意識を煽りたてることに熱をあげているのだ。

 ポスト・モダンという懐古主義が一つの流行になって久しいが、これは、今の社会に対する不満の一つの方向であり、言い換えれば、コンサバ・グループによる思考パターンである。不満の表現の仕方としては、アグレッシブ・グループも存在し、この両者は右と左の両極を形成していると言えるのだが、現状では、コンサバ思考の方が勢いを得ているだろう。なぜなら、日本が危ない、という危機意識を煽るチャンスに恵まれているからだ。

 さて、こういう現状認識を踏まえて、コンサバ・グループに問いたい。
 日本的なるものとは、いったい何なのか。日本の美しさとは、いったい何なのか。それは、明治政府がふりまいた虚構の日本主義ではないのか、と。
 今のコンサバ勢力のいう日本のイメージなど、せいぜい2世紀にも満たない、最近のイメージにすぎないではないか。それこそ、「○○家の墓」などというものが、庶民にとっては全く無縁な存在であって、実際には、圧倒的多数の日本人にとっては苗字などなかったではないか。

 それよりも、明治政府が成立した直後の欧米の外交官のニッポン・レポートの方がはるかに日本人らしさを浮き彫りにしている。
 キリスト教社会の彼らが驚いたのは、日本人の文化水準の高さと、底抜けの楽天主義だった。欧米外交官のレポートに共通しているのは、どんな貧乏人でも読み書き・計算ができること、大人たちが自分の子供に限らず分け隔てなく子どもを甘やかし可愛がっていること、大人も子供もあいさつ好きで人懐っこいこと、等々、原罪意識に支配された性悪説の一神教社会にはありえない現実が目の前に存在していることに対する驚愕にあふれている。
 その代表的なレポートと言えば、イギリス公使だったオールコックの『大君の都』(おおきみのみやこ)だろう。この作品は、今でも、岩波文庫で出版されている。

 だが、コンサバ・グループは、こういう日本らしさには、頬かむりをする。無邪気で陽気な、ある意味、無節操な日本人らしさは、コンサバにとっては、やっかいで邪魔な要素なのだ。
 彼らコンサバ・グループがイメージする日本的なるものとは、茶の湯やら華道、あるいは座敷儀礼など、そして、何よりも肝心なのが武士道とやらのソフィスティケイトされた儀礼的なスタイルなのだから。

 コンサバ・グループには、こう言いたい。
 日本人らしさとは、世界のどの民族よりも柔軟性に富んでいることではないのか、と。江戸幕府終焉の時や、戦後日本の姿に象徴されるように、権力が変わってしまえばいとも簡単に掌(てのひら)返しで順応してしまうような、そういうフレキシビリティは、ある意味、無節操でもあり、無責任のようでもありながら、それこそが、日本的な独創性と生命力を培ってきたのではないのか、と。
 サルマネ・ニッポンと揶揄されながらも、実は、単なるサルマネでは終わらず、常に独創性を伴うほどに徹底的に柔軟であったからこそ、日本人のフレキシビリティは世界品質の物づくり大国を実現したのだと思う。

 国家とやらがどうであれ、日本の人民は、そのようにして、時代に対応してきたし、これからも、そうだろう。日本人的な楽天性=お気楽な軽薄性は、だから、改めようがない。むしろ、この軽薄に見える柔軟さこそ、恐るべき誇るべき特質なのである。適当にその場限りにやり過ごしながら古い習慣を捨てきれない見かけ上の柔軟性ではなく、本気で柔軟であることで過去をかなぐり捨ててしまうほどだから、見方によっては無節操なほどにも見える。だがしかし、それが、日本の人民の誇るべき特質ではないか。神棚と仏壇の両方を尊重できるほどの独創性を実現したのではないか。

 では、コンサバ・グループの言うような国家意識とか愛国心とは、いったい何なのか。
 すでに指摘したように明治政府が振りまいた虚構にすぎない。つまり、帝国主義列強に肩を並べるために、欧米諸国が拠り所としていた価値観をまねただけの話である。本来の日本人的な柔軟性からすれば、お笑い草の、権力意識にすぎない。
 帝国主義が他国を侵略し、支配するための精神的な拠り所としたのが、愛国心である。これは、裏を返せば、他国の人々のことは、さげすむことに他ならない。それによって獲得するノウハウと価値観は、謀略的な駆け引き、つまり、ウソと密約で塗り固めた、強盗国家の論理である。
 愛国心に対しては愛国心で対抗するしかないから、互いに騙し合い、盗み取る闘いにならざるを得ない。
 その駆け引きが破綻した時に持ち出すのが、軍事力である。つまり、愛国心とは、軍事動員の地ならしの精神動員のことなのである。

 中国が日本を侵略して支配しようとしている、などと、本気で思っているバカどもも、こういう時代錯誤の愛国心にそそのかされたアホな連中だと言わざるを得ない。
 最初は文字通り植民地づくりを進めていたにもかかわらず、抵抗運動の激化など、あまりの不経済性から20世紀になって傀儡(かいらい=あやつり人形)政権を立てて自治領化するようになったのがイギリスなどの帝国主義列強だった。その潮流に逆行したのが朝鮮半島と台湾での日本化=皇民化政策だった。(しかも、欧米の自治領化というごまかしも通用しなくなり、抑圧されていた諸民族は、20世紀後半には相次いで独立を果たした。)
 では、中国が日本を侵略して得るものは何か。植民地化を目指しているとしたら、帝国主義の苦い教訓に背くことを敢えて犯すことになる。フランスとドイツの戦(いくさ)の象徴となったアルザス・ロレーヌ地方のように、学校の教科書がフランス語になったりドイツ語になったりを繰り返しながら、レジスタンス機運を高揚させただけの話である。支配することが不経済極まりなくなる。そんなことをしてまで侵略・支配するメリットは何なのか。
 中国が日本に攻めてくる、と、煽りたてる者たちの狙いは、日本を守ることではない。日本ばかりか、韓国だの台湾だの諸外国をも“日本の生命線”だなどという論理にまで飛躍させて、日本の軍事進出を正当化することにある。(あの大日本帝国の「満蒙は日本の生命線」のように。)
 つまり、世界の教訓を何一つ学んでいない時代遅れの帝国主義的な愛国心による「自分さえよければいい」論理に他ならない。
 他国を侵略してまでの領土拡張主義は、不経済極まりなく、最早、通用しない時代であることを知るべきである(アメリカにとってのイラクやアフガニスタンのように)。今の時代の国際関係は、従って、大国だろうと小国だろうと、軍事動員の隙を与えないための外交術がカナメとなっているのである。
 (ロシアや中国が、遅れた資本主義から稚拙な社会主義への道を試みたものの破綻をきたし、かえって、19世紀的な国家観に囚われて大国主義、覇権主義によすがを求めようとしていることが、彼らの悲劇であると思う。だから、彼らの政権が国内からも世界からも、しっぺ返しを受けるのは時間の問題だと思っている。北朝鮮もまた、そうした歴史の教訓に背を向けていると言える。)

 さて、ところで。
 和服の帯のお太鼓結び。これは、深川芸者が日本橋の落成パレードに駆り出された時に、その太鼓橋の形状に因んであみ出した帯結びだったとされる。つまり、お水系ファッションだった。それを見た女の子たちは、こぞって、このお太鼓結びを真似て、遂には、格式高い武家の娘たちまで、親たちが「あんな恰好するなんて」と非難する姿を真似るまでになった。
 流行を作るのは、アウトローだったり、いかがわしい商売の人々だったりする、という、いい例だろう。(いまでも、そういう気風というのは、世界のどこにでもある。)
 日本の場合、そういうことが軽薄だと思いつつも、社会的には、いつの間にか受け入れてしまうだけの包容力とか柔軟性があることに特徴があると思っている。
 ただの日吉丸が木下藤吉郎になって豊臣秀吉になったように、町娘が武家の奥方になれたように、血統よりも家系を尊重して養子を迎え入れることも珍しくないように、ある意味、いい加減というか、柔軟なのだ。

 さて、日本的なるものとして守るべきものは、何なのか。少なくともコンサバ諸君が思い描くような形式的で儀礼的なものではないだろう。本音の部分をこそ見据えながら、日本的なものとは何かを考えてみようではないか。

 今日はジョン・レノンがニューヨークのダコタ・ハウス前で狂信的なファンにピストルで撃たれて即死した日。あれから30年ということで、話題に取り上げたテレビも多いけれど、その時に流されるのは、決まってImagineであり、彼のメッセージはLove & Peaceだった、ということになっています。

 しかし、イギリスという国が侵略と植民地支配を重ねた帝国主義の先頭を走っていた勢力の中でも、最も強烈な階級社会であったことが日本では意図的に隠されてきたために、ジョン・レノンのメッセージも単なるおめでたい平和主義だったように聞こえてしまいます。

 だから、今日は、敢えて、ImagineでもHappy Christmasでもなく、革命をテーマにした曲をとりあげておきたい。(去年の今頃は、これら2曲を選んだ「今日の一曲」でした。⇒ こちら )
 ビートルズでさえこういうテーマを掲げたほど、イギリスは階級社会であるし、その意識が強いでしょう。それを象徴していた例として思い浮かぶのはセックス・ピストルズのアナーキズムです。ただ、アナーキズム=無政府主義は、左翼思想の一つであったけれど、権力そのものを拒否するほどの極端な考え方に飛躍したユートピア思想であるために、一種の過激派、極左思想となっています。

John Lennon - Power To The People

 歌詞を紹介しているページがありましたので、リンクしてみました。 ⇒ こちら

The Beatles - Revolution (Live)

 こちらの歌詞も。 ⇒ こちら

セックス・ピストルズ TV初出演


The Sex Pistols - My Way

 この歌詞の紹介は、まあ、力作、かな。 ⇒ こちら

 マルクスやエンゲルスの期待に反して、資本主義の最先進国で、最も厳しい階級社会となったイギリスで共産主義運動が成功しなかったのは、植民地から吸い上げた収益の大きさが背景にあったと言われています。他の国の労働者に比べて恵まれた暮らしぶりで、「ゆりかごから墓場まで」と言われた社会保障も獲得するなど、労働運動や左翼運動は急激に衰えた、と。しかし、その一方で、階級差別は固定化され、将来に期待を持てない若者が慢性的にあぶり出される社会ともなり、その苛立ちがアナーキズムやハード・ロック、フーリガンなどにもつながっていったのだと思います。
 Imagine there's no heaven. とか、Imagine there's no country.などの歌詞も、そんな背景を考えながら受け止めてみると、また、メッセージの別の意味合いも聞こえてきそうに思っています。
 ロマンチックなクリスマスを過ごしたいのだから、こんな歌が沁みるかも。
 レゲエだから、ちょっと、雰囲気には合わないかもしれないけれど、ボーイ・ジョージは前回の続きの気分で選んでみました。
 あとは、クリスマス向けには定番といってもいいのではないかと思います。

do you really want to hurt me multivideo


When will I see you again - Three Degrees


Elvis Costello - She ( Soundtrack to Notting Hill, 1999 )


Righteous Brothers
Unchained Melody


ghost

 前回に続いて、”仮装シリーズ”にしてみました。

 70年代のヒット・メーカーの中には、グラム・ロックと呼ばれたミュージシャンがいました。あの「20世紀少年」でも知られるT.Rexとかデビッド・ボウイなどです。
 印象の限りでいえば、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが化粧をしたり女性的な服装を始めたのが最初ではないかと思うのですが、T.Rexのマーク・ボランの方がはるかに美形で魅力的で有名になりました。
 そんな潮流のあと、80年代に入って最もインパクトがあったのは、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージだったと思います。完全に女装して、ここまでくれば、仮装の粋ではないかと思いました。

 日本でも米米クラブが、まさにそういう流れを汲んだヴィジュアル系のバンドとして人気を集めたと思います。与謝野晶子らがお茶ノ水に創立した文化学院(新宿南口の文化服装学院と間違えられやすいのですが、こちらの方がはるかに老舗)。私立の芸大というような雰囲気の学校で、洗練されたデザインとかオシャレの創造性は、秀逸だったのではないでしょうか。


Culture Club - Karma Chameleon


米米CLUB 「FUNK FUJIYAMA」 PV


「浪漫飛行」 PV
君がいるだけで

米米CLUB -HIT MEDLEY


T.Rex
20th Century Boy


Get it On ( Bang a Gong ) 1971

 幼児虐待の事件が後を絶たない。子どもを殺害した大人の言いわけで報道されるのが「しつけのつもりだった」という決まり文句である。

 子どもを虐待する大人は、本人が子どものころに虐待を受けていた例が多いという。直接的な暴力だったこともあれば、陰湿な言葉の暴力もあっただろう。それを称して“しつけ”だったこととなり、これが世代を継いで連鎖となっているのだろうか。

 だがしかし、5歳くらいまでの子どもといえば身長も100cmにも満たないような、人形のようなサイズである。そんな小さなものを相手に暴力をふるう気持ちが理解できない。人ごみの中で、所構わず寝転がって泣き叫んでまで駄々をこねても、叩いたり蹴ったりする気にはならない。あまりにも小さな生き物ではないか。
 気持ちをそらしてあげるとか、なだめるとか、子どもの相手をするのは大人にとっても人との付き合い方を学び、成長するチャンスでもある。どんな教え方をしたらいいのか、それで悩んだり、工夫したりすることにこそ大人の側の成長の機会がある。

 ヒトが人間となっていくのは、人間社会の中でのことである。言葉を覚えること、立ち居振る舞いを覚えることのすべてがそうであるし、ヒトが動物の中では極端に未熟な状態で生まれ出てくるのは、あらかじめセットされた“記憶”(本能)に頼るよりも、出てきたときの環境(気候であったり民族の持つ言語や生活習慣=生存方法)への対応のためであるという。だからこそ、地球上のあらゆる環境の中で生存できる能力を培ってきたし、ヒトほど広く多様な環境に対応できる動物はいないのだ。
 そういう未熟なヒトもどきを人間に育てていくのは、その子を創った本人たち(一人では創れないから「本人たち」)も周りの社会も含めて大人の責任である。と同時に、楽しみでもある。

 未熟に生まれて大きく育つ。
 それがヒトであり、どんな人間になっていくのかは、育てる側の想像をはるかに超えた存在にもなりうるのである。
 動き回るのは身体能力を培う練習である。
 駄々をこねるのは、自己主張の練習である。
 子どものやることは何だって、みんな、練習である。
 練習はたくさんした方がいい。どんな練習だって、みんな、身についていく。
 その練習を組み立ててあげるのが、その子の周囲の人間社会である。

 わけのわからない行動を始めたって、それは、何かの才能を伸ばすことになるのかもしれない。相手は大人の想像を超えて育とうとする無意識の欲求と行動にあふれているのだから。

 “しつけ”など、クソくらえ。
 “しつけ”と称する弾圧は、ヒトが人間になっていくのを妨げる大人のエゴイズム、傲慢に他ならない。その子を抑圧することで満足するのは、または、都合がいいのは、もう先が見えている大人の側だけにすぎない。まだ未熟な子が、どんな能力を開花させるか分からないほど楽しみなはずだというのに。

 社会的秩序を学ぶのは、ずっと後になってからでいいのだ。それよりも、幼児のうちは、何でもやらせること、能力の成長にカセをはめないこと、そんな中から人との接し方をもおのずと学ばせること、それこそが必要なのだ。

 「しつけのつもりだった」だと???
 ウソをつけ!! 自分の都合だけの話だろう。
 ウソをつけ!! 自分だけが逃げて、救われたい方便だろう。
 卑怯者が弱者に対して暴力をふるうのだ。

 さまざまな場面で蔓延しているイジメにしても、大人による子どもの虐待にしても、あるいは、男女間のDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)にしても、すべてに共通しているのは、共感性あるいは共通感覚(=コモン・センス=常識)の欠如である。競争原理の社会の中でモナド(単子、単体)化してしまった孤立的人間による他人に対する冷淡さがつくり出した社会的なひずみである。
 だが、そういう冷淡さはいずれ、跳ね返ってきて、自らが冷淡な扱いを受けることになる。モナド化した人間にとって周囲の人間が競争相手でしかなく、または敵であれば、周囲もまた、その同じ態度を返してくるのだから。
 (競争自体は、互いを高め合う動機になりうるが、それのみに陥ってしまえば、単なる敵意に転化する。)

 なぜ、こういうモナド化が進行したのか。それこそが、資本主義が生み出した人間疎外の事象に他ならない。
 資本主義経済の飽くなき欲求を維持し続けるためには、人間の労働力という「商品」をはじめ、あらゆるものが商品として社会に流通するための「命がけの飛翔」(『資本論』。売れるか売れないか、イチかバチかの賭けのこと)を、誰もが続けなければならない。売れなければ命はないからだ。世の中を知り、他人を知ろうとすることでさえ、マーケティングの一環としてビジネスに利用するための感覚に囚われていくことになる。

 あの『和民』社長の渡辺美樹が、龍馬伝に因(ちな)んで訪れた土佐の高知で、中学生たちの「自分のことよりも、人のことを考え、大事にすることが大切」という意見に対して、「うそつけよっ。自分が大事なんだろっ」と、しきりに挑発し、なかなか納得しない中学生たちが「じぶん“も”です」と答えれば、輪をかけて「“も”じゃなくて“が”だろう」と迫った。
 資本主義的に成功するためには、この自分こそが(生き残りたい、生き残るにふさわしい)、という信念がなければならないのである。
 そして、その資本主義の社会観、価値観に盲目なまま、モナド化した者たちは、身の周りでの暴力を厭(いと)わなくなるのである。
 きょうもまた、あすもまた、「しつけのつもりだった」事件は続くことになるのだろう。あらゆるものが商品と化す世の中である限り、続くのだろう。

 だが、しかし、誰もが感じることは、人と繋がっていたい、心の温かさを味わいたい、ぬくもりのある社会であってほしいのだ。群れてこそ人間になるのがヒトなのだから。そのようにしてこそ生存の方法と手段を獲得し、地球上最大の生息地を獲得した動物なのだから。
 封建主義に抗議した革命によって資本主義が勝利したように、資本主義への抗議もまた、このような人間的欲求から生まれ、広がるのだ。
 12月の声を聞くようになると、いよいよ、クリスマス商戦も本番。
 こういう曲も、よく聴くようになると思います。

ユーリズミックス 「There Must Be An Angel」 PV
 久しぶりに、「てっぱん職人」に行ってきました。
 太田市のお好み焼き屋で、お気に入りの店の一つです。
 ソースか何か、味に一工夫加えたのか、前よりも好みの味になっているような気がしました。
 今日は、二人でもんじゃ焼き二つに焼き肉二皿。これくらいでちょうどいい食欲となりました。

 お店は、こちら。 ⇒ 「てっぱん職人」
ナショナリズム=国粋主義というのは、正確ではなかったので、若干、補足。
 ナショナリズムは正確には国家主義であって、国粋主義はパトリオティズムです。国粋主義者はあのミサイルと同じ名前のパトリオット。
 両者の違いは、あまりないと思うのですが、国粋主義は、中華思想(=自分たちが世界の中心という考え方)と似ていて、「我が国」だけが正しいと思い込んでいる者の考え方ですから、他の国家・民族に対しては徹底的に蔑む(さげすむ)態度を取ります。日本でいえば、大和魂論者だと思います。東京都知事の石原慎太郎など、いい例でしょう。
 ナショナリズムは、この国粋主義に比べれば、幾分、穏健かもしれません。これは、スポーツの国際競技でも良く見られる光景です。「ニッポン、チャチャチャ」もこれに含まれるでしょう。いろんな国や民族があるけれど、自分の国が好き、といったところでしょうか。これは、特に政治的立場がどうのこうのということがなくても、心情的に生まれやすい感覚です。
 パトリオットは、このナショナリズムにつけ込んで、“愛国心”を煽動しようとするのが常です。

 さきの古賀・野中と中曽根・源田との対比でいえば、古賀・野中はナショナリストではあるけれど、中曽根・源田のようなパトリオットではない、ということになると思います。(源田はすでに故人ですが。)

 で、わたし自身はどうかと言えば、インターナショナリスト、ですかね。ネイションそのものの存在は現実のものとして受け入れざるを得ない歴史上の到達点なのだから、コスモポリタン(地球主義=国境のない世界一家を夢見る人々)とは違う立場です。
 ひたすら、素朴に、カール・マルクス、フリードリッヒ・エンゲルスが模索したインターナショナルの原点を大事にしたいと思っている一人です。(スターリンや毛沢東によってゆがめられた世界観に憤りを抑えきれない一人です。)
 ところで、インターナショナルとは何かと言えば、かつての組織名としては、国際労働者協会ですが、理念としては、国際連帯です。国家・民族の違いを踏まえつつ連帯し合う関係です。お互いを認め合って連帯・協力の仲をつくっていきたい。
 北朝鮮は、いったい何を考えているのだろう。
 三世代続けて個人独裁の継承を決めた後、高齢だったためか長老格の軍人が死亡した。それ以後の北朝鮮の動きに異変が起きていると言われる。独裁政党と軍部との間で主導権争いが起きているのではないか、という指摘だ。
 今回の砲撃事件は、おそらく、中国でさえ、歯止めが効かない事態の始まりなのかもしれない。

 実際に現場で戦争を体験している人々は、武力行使については極めて慎重なことが多い。
 例えば、日本でも、あの国会議員の靖国参拝を推進する集まりの代表であったり、日本遺族会の代表でもある自民党の古賀誠とか、その盟友と言われる野中広務などは、自民党の中でも平和主義者というか、軍事問題では慎重論者として知られる。アジア主義とも言われるようなアジア各国との平和路線を取り、二人とも中国の南京大虐殺記念施設には献花を伴う訪問をするなど、自民党内からも右翼からも非難されたほどである。
 これに対して、戦争現場を体験したことはなく、大本営だの内閣の厳重な建物に守られていた者たちが好戦的だった。特に日本列島そのものを”不沈空母”にするなどとアメリカに約束してしまった中曽根康弘とか、大本営参謀で戦後自衛隊のトップに上り詰めた上に参議院議員になった源田実(この人物が、神風特攻を戦意高揚のための宣伝に利用することを発案した)などが、戦争をしたくてならなかった。
 同じ自民党でも、現場体験の有無によって、戦争に対する態度は、これほどに違う。

 つまり、北朝鮮でも、指導部の中に戦争体験者が減ってきたとしたら、武力行使に対するブレーキが利かなくなっているのかもしれない。
 北朝鮮の成立期の金日成とその息子の金正日までは、本人たちも、その周辺の幹部たちも朝鮮戦争そのものを体験しているのだが、三世代目ともなると、それは、物語としてしか見聞きしていないことになる。勇ましい歴史ばかりを聞かされて、怖いもの知らずの見当違いの思考に凝り固まった者たちばかりが権力中枢に集中しているのだとしたら、これはとんでもないことをしでかすことにもなりかねない。

 こういう北朝鮮の後ろ盾になってきたのが中国なのだから、北朝鮮問題は中国も同罪だと思っている。あの、ポル・ポトの後ろ盾になったように。それに、「日本打倒」を正義だと思い込むようなガキどもを育ててきたのも同じ根を持つ。
 自分たちの権力さえ安泰であればよく、なおかつ、無謬性(むびゅうせい=過ちが一つもないこと)を主張せざるを得ず、カンボジアへの謝罪一つ出来ていない中国の指導部は、今回の北朝鮮の事件を含めて、これから、多大なツケを払わされるはずだ。それは、戦争という手段ではなく、国内政治の広い裾野から、また、外交面から、ツケを突き付けられることになるだろう。
 右翼などは、これをきっかけに、戦争をけしかけたいのだろうが、それは、国産戦車やライセンス生産の戦闘機を作っている三菱重工など、軍需産業を喜ばせるだけである。右翼のカネの出所なんて武器商人に決まっているし、あとは、せいぜい、本気でナショナリスト=国粋主義者になってしまったバカどもの元締めの暴力団にすぎない。こういう勢力に踊らされることは、絶対避けなければならない。
 外交的な包囲網こそが必要だ。

 それにしても、この件でも、管内閣はいちいち、内からも外からも、突き上げを喰うのだから、やることなすこと、まずさばかりが目立つ。そのせいで、肝心なことがますます後手に回り、政治と経済、そして外交の停滞を招くのだ。