kyottides的 喜怒哀楽 -31ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 リビアのカダフィ政権に対して、国連が安保理決議をあげてその非人道的態度を非難したのをはじめ、欧米各国の政府は自国内のカダフィ資産の凍結とか友好条約の凍結などさまざまな行動を起こしている。
 だが、日本の政界は、この問題について、どの政党からも何の態度も聞こえてこない。日本の報道機関も、政府コメントを求めるような質問すらしていないのだろう。読売・朝日・毎日をはじめとした日本の商業新聞やその系列下にある電波メディアも含めて、そういう政界に疑問のかけらも抱かない永田町業界紙と言われるゆえんだと思う。
 北アフリカ・中東の政治的事件は、日本では、原油の供給量と価格への影響という観点にしか興味がないような報道ぶりだが、経済活動にしか興味関心を示さない日本の政界やメディアの姿勢とは、つまり、日本の資本の興味関心しか代弁していないことを象徴していると思えてならない。

 平和国家として国際社会で「尊敬される」「名誉ある地位」を確立したいはずの日本であるならば、リビアのような人道にもとる事態に対して敏感でなければならないはずなのだが、憲法のそういう理念については、深く考えようともしていないのが現状だろう。
 中国やロシアの高圧的な態度に対しても、まともに、切り返せずにいる日本政府だが、リビアの日本大使館の一時閉鎖の際にも、単に危ないから避難した、というだけでは、政治的には何の意味もない。閉鎖に当たっての政府コメントが出てしかるべきだろう。
 カダフィの弾圧のひどさに対して「遺憾の意」を表明するだけでも、国内での言論統制や辺境民族の抑圧を続ける中国や、チェチェン紛争以来の民族弾圧とその反撃としての無差別テロが頻発している強権政治のロシアに対しても、充分に皮肉を込めた牽制球になるはずだったのだ。(国内で弾圧や抑圧を行っているような国が他国に対して「上から目線」でものが言えるのか、と、暗に仄めかすだけでも“コウカ”、いや、“ユウコウ”ポイントになったのだから。)
 しかし、今頃になって「遺憾」というのも、かえって、恥の上塗りだろう。国連決議以降は、カダフィ政権に対して、もっと踏み込んだ態度表明が求められる情勢に発展しているのだ。

 独立国としての自覚も、国際的な政治的使命感も、何も感じることのない「美しいニッポン」の保守政界は、誰かが攻めてくるぞと恐怖を煽り、武装を強めたがるばかりなのだ。そして、アメリカに尻尾を振って、その後をついて行くことしか念頭にないのだ。どういう「国家意識が足りない」(櫻井良子)のか、考えてみるがいい。
 必要なことは、平和のためのイニシアチブを希求することではないのか。暴力・武力に対して、うるさいほど敏感になって、世界に向かって警鐘を鳴らすことではないのか。リビアのような問題であれば、言うべきこと、やるべきことは、数多あるはずではないのか。

 だから、深夜国会で「予算が通った」とニヤケる管直人とその一派の神経には、改めて背筋の寒くなる思いもすれば、情けないとも感じたのだった。それは、野党に対しても同感である。なにしろ、みんな揃って保守党なのだから。
 今日は、久しぶりに、サイモンとガーファンクルの曲から選んでみました。
 歌われている内容は、いずれも、今風に言えば、クレイジー・ケン・バンドの「タイガー・アンド・ドラゴン」ではないけれど、「♪ おれのっ、おれのっ、は・な・し・をっ きっけ~ ♪」といったところかと思います。

Simon and Garfunkel

the sound of silence lyrics


The Boxer (Original)
I Am a Rock
 昨日の記事について、返信コメントを書いていたら、今回もまた、長すぎてコメント欄に収まらず、記事投稿にしました。以下、その内容です。

 オプケニさんへ
 コメントをありがとうございました。

 ドストエフスキー、懐かしいですね。最初に衝撃を受けたのが、貧乏学生のラスコリニコフが内心で言い訳しながら高利貸のばあさんを惨殺する『罪と罰』でした。
 人殺しが題材となっていても、日本の小説にはほぼ間違いなく何らかのセンチメンタリズム(人情とも言うかも)が漂っていると思うのですが、白人の小説には情緒もへったくれもないんだと、ビックリしながら、彼の小説にのめり込んだ時期があったように思います。

 おそらく、そんな頃から、自分自身では、キリスト教的な価値観に違和感を覚え始めていたのかもしれません。ユダヤ、キリスト、イスラムはいずれも同じ源を持つ一神教であって、その彼らには、命について独特の価値観があると思っています。簡単に言えば、強烈な階層(ヒエラルキー)意識があると思うのです。無価値と判断した命に対しては恐ろしく冷淡になることができる、と。または、善と悪とをいとも簡単に判じてしまうとも言えるかもしれません。
 これに対して仏教とかヒンズー教とか、または、インドネシアのようなアジア化したイスラムなどは、土着宗教の色彩を様々に取り入れた多神教的な感覚であることが多く、現代風に表現すれば、生態系の意識とか感覚がもとから根付いていたように思っているわけです。おそらく、アメリカもアフリカも、キリスト教徒が侵入してくるまでは、そんな感覚の生活だったのではないかとも思っています。
 中村元という哲学者は「三大宗教のなかで、仏教だけが唯一、武力を用いることなく国境を越えて広まった」という説を持論にしていました。たぶん、広まった先々で現地化していくような、教義の柔軟性を持っていたのだろうと思います。侵略を正当化するような宗教的思想的バックボーンにはならなかったわけです。

 レバノンに限らず、イスラエル、シリアも含めたパレスチナ全体が宗教的な対立と民族的な対立と、それに、米・英・ソ連時代のロシアが入り乱れて戦乱が絶えず、中東の火薬庫と呼ばれる事態が収まっていないのも、地下資源とかその流通拠点の争奪戦以上に、宗教的な事情が根強いように思います。
 もう一点、考える必要があると思うのは、アンチ・キリスト教としての共産主義です。リビアが社会主義を掲げながら実態はカダフィ独裁だったように、共産主義と独裁とがイコールとなってしまう例が、歴史上あまりに多すぎることです。
 個人的には、弁証法的思考方法と唯物論的世界観とは、哲学的に説得力を持っていると思っていますが、その政治思想が個人独裁につながるような表現となってしまっている限りは、未発達な内容または誤謬を抱えていると思っています。
 強烈な一神教に対抗する思想として深められた弁証法的唯物論による強烈なアンチ・テーゼがそういう政治思想につながったのか、いずれにしても、キリスト教社会から生まれた思想には違いありません。

 と、話に収拾がつかなくなってしまいましたが、現代の多くの国際問題、民族問題や今の北アフリカ・中東の闘いというのは、経済的な利害対立に根を持っているにしても、思想的には、一神教的な不寛容(唯一者にのみ従う価値観)と脅迫の宗教観(原罪=人間であること自体が罪だという脅し)が背景にあると思っています。
 リビアやエジプトで闘っている人々が、宗教色に偏っていないのは、イスラム革命と称されたイランの今日の事態とは異なって、大衆的に強力な支持を広げているのだと思います。

 さて、YouTubeでリビアの事態を物語っている投稿は、“Libya”という検索ワードで数え切れないほどヒットすると思います。また、わたしが見たのは“MeddiTV”というハンドルネームの投稿動画でした。この人の動画だけで30本くらいありました。
 “MeddiTV”という名前を見たのは、この人の動画がロイターだったかどこかの通信社記事で紹介されていたからでした。それも「出動命令に従わなかった治安部隊の兵士たちの一部が、見せしめに焼き殺されて路上に放置された」という内容でした。
 カダフィ側が国内のインターネットを遮断したものの完全ではないということで、その間隙をぬって、リビアの動乱の様子が、YouTubeでも、さまざま投稿されている。
 中には、公表にはふさわしくない、というフィルターのかかっている動画もあって、本人の責任で閲覧、という「決断」を選択しないとならないものもある。一言で表せば、残虐なシーンで、目の前で人が頭を撃たれる瞬間を撮ったものもあった。
 そんな中に、傭兵と見られる死体を映したものがあった。紺のまだらの戦闘服に緑一色のマフラーを首に巻いたままの亡き骸である。(カダフィ側の旗が緑一色で反政府勢力の旗が真ん中にシンボル画のある三色旗)

 その兵士の姿を見て、愕然とした。
 混血系のリビア人とは異なる黒人だと、ニュースで聞いていたとおりだった。そして、驚いたことに、その彼は、まだ若く気弱な少年のようであり、十分な栄養もとれないまま育ったような細く小柄な体つきだったのだ。

 傭兵部隊を抱えるなどとは、随分悪どい政府だと思っていたが、その傭兵の姿が想像とはあまりにも違っていた。と同時に、その悪どさが、二重にも三重にも浮き彫りになった映像だと思った。

 無防備の市民を平然と撃ち殺すような傭兵とはヤクザなゴロツキどもであって、本国から逃げてきた犯罪者などをかき集めた軍隊、というのが外人部隊かと思っていた。カネさえもらえば何でもする悪党ども、というイメージだった。
 ところが前線にいたのは、こんなに若く、こんなに弱々しい兵士だったのである。
 アフリカ各地から、貧困層の若者たちに狙いをつけて、彼らの弱みにつけ込んで、目先のカネで釣り上げて寄せ集めた軍隊。それが、カダフィの傭兵なのだ。そんな組織だから、(上官が部下たちを後ろから狙うなど)弱い者ほど下っ端で前線に駆り出され、そんな弱い兵士たちだからこそ、自らが恐怖におののいて滅多やたらに撃ちまくっていたのだ。
 故国の家族のためになるならと、すがる思いで雇われて、兵士になったらなったで最初に前線の矢面に立たされて、何から何まで、悲惨さが巡ってくる不運。そんな若者たちが、アゴで使われている様子が浮かび上がる。
 傭兵のすべてがそういう兵士だとは思わないが、少なくとも、前線で銃を持たされているのは、こういう若く弱い者たちであることが明らかになったのが、あの映像だった。

 自国民を弾圧するだけでなく、周りの国々に対しても若者を喰い物にし、非道の災厄をまき散らしている。それが、カダフィなのだ。

 このリビアの内戦が一刻も早く終結し、カダフィ政権が倒れることを願うばかりである。
 リビアは、いま、おそらく内戦と言っていいほどで、情勢は、反カダフィ勢力が勝利しつつあるように思う。
 チュニジア、エジプト、バーレーンの反政府運動に比べて、リビアの反政府運動に対するカダフィ政権の暴虐の凄まじさは数々の歴史上の弾圧事件にも例えられるほどで、ヨーロッパ系の報道機関の一部では死者が1,000名を越えたと報じているところもある。
 リビアは、既に東部地域に続いて中部地域も反政府派によって制圧され、とくに、軍隊や政府要人の一部が反カダフィ側に立った一方、一部のカダフィ派や傭兵による無差別な銃撃事件も多発していて、カダフィ政権はもう崩壊の過程をたどり始めているのは間違いないだろう。このまま事態が進めば、ルーマニアのチャウシェスク独裁の最期と同じように、独裁者とその残党が最後まで抵抗を続けたのち、独裁者が捕えられて即決裁判で処刑、ということになるのではないだろうか。

 チュニジアやエジプトでは、軍隊の指揮系統、治安能力が維持された中での政変だっただけに、独裁者を追放した劇的な政変ではあっても革命だとまでは規定できないだろう。実際、独裁者を倒した後の政治機構の在り方は、まだ、模索を続ける迷走の中にある。比較するとすれば、今のところは、フィリピンのマルコス独裁を倒した政変と似ていると思う。民主化というよりは、政治腐敗の一掃、という段階にあるのではないか。
 これに対して、いまのリビアで起きているカダフィ打倒の闘いは、弾圧が酷ければ酷いほど国民の反発も燃え上がり、闘いが激しくなるほどに団結と統率が求められる段階に立ち至っている。つまり、カダフィ打倒を目指す統一戦線とか評議会のような組織的な統率が実現し始めているのだ。(ちなみに、評議会のことをソヴィエトと言います。)
 このため、カダフィ側の政治機構と軍事機構の内部崩壊までもが始まっている点で、チュニジアやエジプトの例とは比較にならない変革が起きていると言えるだろう。カダフィ側の弾圧から始まって、いまでは、悪あがきの抵抗、という段階に立ち至っている。その抵抗が激しければ激しいほど、政権打倒の統一戦線が鍛えられ組織的になってきているだけに、このプロセスを経験することで、リビアは最も革命的に民主化していくように思う。

 エジプトの秘密警察もタチが悪い権力機構だったが、リビアには傭兵がいるということで、もっと、タチが悪い。
 傭兵で思い出すのは、なんと言っても、フランス革命の時のルイ王朝の傭兵である。王家一族を護衛するための近衛兵がそうだった。その傭兵というのは、スイス人だった。山岳地帯に暮らすスイス人は、その体格の強靭さとか忍耐強さとか産業にも恵まれていなかったことなどから、当時の絶対王政各国で傭兵に雇われていた。
 というのも、王宮を守る近衛兵たちは、軍隊の中でも、もっとも戦闘的で、誰よりも恐れられる軍隊である必要があったからだ。だからこそ、国民に対する情け容赦ない弾圧行為にも抵抗感がない軍隊として外人部隊が編成されることになった。
 今のリビアには、そういう絶対王政時代の近衛兵さながらの組織があるというのだから、裏を返せば、それほどに国民を脅さなければならない政権、国民を恐れる政権でもあったことになる。

 また、この北アフリカ・中東での政変では、いわゆるインターネットの普及による情報化社会の特徴が表れている、と言われているほかに、気付くことが、いくつか、ある。
 一つは、独裁政権・抑圧政権を支持・擁護してきたのがアメリカ合衆国であって、この地域の大衆的感情としては、反米色が強いと言われていること。
 もうひとつは、中国での反体制運動の芽。

 アメリカが自国で二大政党以外の政治的潮流が連邦議会に出られないように封じ込めてきたエセ民主主義国であるように、かつて、イランのパーレビ独裁を支持していたように、やはり、今でも、諸国民の自由と民主主義などよりもアメリカの利害を優越させてきたことが露見してしまった。アメリカは、だから、今の各国の政変が反米闘争に発展しないようにと、戦々恐々としているのだ。(アメリカの庇護を受けてきたイスラエルも同様である。)

 また、中国の場合は、北アフリカ・中東の反政府闘争に触発されて勇気づいている反体制の人々がいるけれども、たぶん、運動はそう簡単にはいかないのではないか。
 帝国主義時代の日本と同じように、大国主義と国威発揚のナショナリズムに染まってしまっている勢力の忠誠心と立身出世神話のロイヤリティの高さが、アラブ諸国に共通していた露骨な愚民視、国民不信の弾圧とは違っているのだから。
 それに、ソ連・東欧が崩壊したのも、経済的に行き詰まって国民生活が窮乏していったことが背景となっていたことを考えると、今の中国経済の成長は、反体制が多数派にはなりにくい要因でもあるだろうと思う。
 ただ、それでも、前にも指摘したように、中国が今のような大国主義に立ち、また、「愛国心」を煽りたてようとしている限り、そして、日本に対する高圧的な態度もまたこの一環として利用していること自体が、そういう煽動をしなければならないほど、国内の求心力の衰えを表わし、体制内部から崩れかねない権力の脆弱さを反映しているとも感じているだけに、政治情勢は変わらないとは言い切れないだろう。

 そして、この際、ついでに指摘しておきたいのは、今回の一連の政変は、「国家とは組織され正当化された暴力のこと」であり、その担い手としての軍隊や警察が暴力装置であることの分かりやすい実例だということだ。エジプトでもリビアでも、軍隊の態度と動向が、政変の命運を左右しているし、他の国々でも、治安部隊が反政府運動を弾圧するニュースが度々伝えられている。
 (独裁国家であろうと民主国家であろうと、その本質は変わらない。軍隊を掌握する者または勢力が国家機関を掌握する。)
 国会質問で官房長官だった仙谷に噛み付いた自民党・丸川珠代などの右翼一派には、改めて、自衛隊のことを「実力組織」だなどと称することは、例によって国民をごまかそうとする態度であり、そんな呼称を振りまくのではなく、国民一般の間にも自衛隊内部にも、「暴力装置」であることの明確な認識と自覚を広めるべきだ、と言いたい。(以前にも「暴力装置は暴力装置だっ!」と書きました。)
 最高裁って、バカだね。
 誰もが、そう思ったのではないでしょうか。
 サラ金大手だった武富士の創業者から長男への遺産相続で、国が課税したのは違法だったということで、徴収した税金の他に年4%の利子も含めて長男に返せという判決だそうです。たった一人の個人に支払う金額が、総額2千億円だって。

 税金逃れの目的だったことが分かりきってはいても、実際に、長男は日本に生活拠点を置いていなかったのだから、課税対象にはならない、と、最高裁は、法律の中でも条文の「純粋解釈」という形式主義に立って、実態面での影響を切り捨てる判断を行いました。つまり、教科書にはこう書いてあるんだから、それに従っただけ、というわけです。
 武富士の創業者一族が税金逃れのために汚い手を使ったことは明白だが、それを取り締まる法律はなかったのだから、これを見逃す「べきである」という判決です。
 言わば、究極のモラトリアム(判断停止)でしょう。

 サラ金がどれだけのカネを収奪してきたのか、今さらながらに驚きます。国税が、創業者家族の相続税だけで11千億円を超える課税計算したということは、その2倍以上の個人資産を作っていたことになります。武富士からカネを借りた者も従業員だった者も、すべての関係者がこの創業者一族の奴隷だったと言えるほどです。
 そういう相手に対して、最高裁とは、随分とトボケた、シラジラしい態度をとるものだと思いました。

 最高裁は「被告の主張のように、香港で過ごした時間が日本にいた時間の2.5倍なのだから、生活拠点は明らかに香港にあった。従って、当時の法律に基づけば、課税対象者ではないことになる」という判断でした。

 私なりの“大岡裁き”なら、
 やいやいやい、てめぇらっ!!
 香港暮らしが実態だって? だったら、香港で何の仕事をしてたんだい? 日本の商売のことばっかりやってたんじゃねぇのかい?
 で、なんだって? 日本の暮らしとは縁を切ってただと? んじゃあ、聞くが、香港人のわりに随分、日本にばっかり出掛けてたじゃねえか。香港での生活が5カ月なら、日本で2カ月っていう計算になるぜ?
 やいやいやい、てめぇらっ!!
 しらばっくれやがってっ!!
 仕事も生活も、日本べったりじゃねえかっ。それでいてゼーキンは払えねぇとか言いやがって!! ふざけるのも、いい加減しろいっ!!
 です。

 「武富士さんのおっしゃる通りです」と言っちゃったバカの最高裁は、トップの最高裁長官が総理大臣と同じボーナスをもらうように三権分立の頂点の一人なのですが、行政(内閣)、立法(国会)と軌を一にして司法もまた、この国の国民に相応しい程度の判断力に基づいた権力機構の一つなのでした。

 P.S.
 万々が一、最高裁が、武富士の個人資産を守ってあげることで、多くの元・顧客の過払い金返還請求の原資を作ってあげるつもりだったとしても、今回の判決では、その使途について何の条件も制約もなく、「取り戻した」武富士一族の一存にゆだねるカネを作ってしまったことには違いなく、武富士のヤツらが、最高裁の期待するような善意の支払いなどするわけがないことに気付かないか、気付いていても「法律上は、そうするしかなかった」と白々しく頬かむりするしかないでしょう。
 つまり、最高裁にどんな意図があったにせよ、その判断力は、管直人や鳩山由紀夫のような失言グセのある諸君の判断力と同程度のレベルだということになります。
 稀に見る搾取方法で個人資産を膨らませるだけ膨らませておいて、あとは、経営破綻だと言って、ケツをまくった連中の資産など、容赦なく取り立てて、世の中に返すべきではないのでしょうか。最高裁と管内閣との「バカやろう」ぶりが二重写しに見えてくるわけなのです。
 民主党の終わりは、いよいよ、現実化してきました。
 と、今さら、わざわざ、あれこれ書き立てなくても、誰の目にも明白だろうと思います。

 それにしても、造反の16人の衆議院議員について、「理解できない」(内閣総理大臣=民主党代表)だの「意味のない行動で、パフォーマンスと見られても仕方ない」(民主党幹事長)という人ごとのような発言は、一般常識から見て、それこそ、理解できません。
 造反を起こした議員たちの言い分は、民主党という看板は捨てられないけれど、執行部の決める路線とは別行動をとる、というのですから、普通は、これを分派活動と呼びます。ほぼ間違いなく、どこの政党でも、労組や市民団体でも、懲罰の対象となるし、最悪の場合、除名に値します。これに対して民主党幹部は、大した事ではないと、尊大に構えようとする苦しい芝居に終始しています。

 分派を分派と呼ばず、党内がバラバラなことがあっても、それを派閥という名称で、当然のこととしてきたのが自民党でした。
 70年代の自民党の内紛は凄まじく、三角大福と呼ばれた4大勢力が主導権争いをしていました。三角大福とは、三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫の4人です。
 中でも、大平正芳が総理大臣をしていた時のことです。内閣不信任決議案が社会党から提出された時、いつもなら、自民党はどんな内紛でゴタゴタしていても、一致協力してこれに反対して内閣を守るはずでした。ところが、この時だけは、自民党の反大平勢力が本会議欠席という戦術をとったために、不信任案が出席議員の過半数の賛成となってしまい、成立してしまいました。
 いつものパフォーマンスのつもりだった不信任決議案が、まさかの可決となってしまい、議案を提出した当の社会党や、民社党(今の民主党の前身の政党の一つ)などが、かえって慌てたという、笑い話のような結果となりました。

 もちろん、大平総理は、即座に衆議院を解散してしまい、暴挙と言われた衆・参同日選挙へと、突っ走ることになったのです。(二院制の役割をないがしろにするとか、政治空白の期間をつくってしまって国会の機能をマヒさせる、などの意味で、暴挙と指摘されました。)
 実は、この選挙戦で、大平氏は、遊説中に倒れ、他界してしまうという壮絶な最期となりました。結果的には、この大平氏の弔い合戦という空気が一挙に高まって、保守勢力にとっての危機バネが働いて、自民大勝となりました。

 この同時選挙を調べてみると、1980年の夏のことでした。
 そして、あの管直人が社会市民連合からの立候補で初当選した選挙でもありました。

 30年余り前の、自民党内紛による内閣不信任決議の成立という事件は、今度は、舞台を替えて、民主党の側の事件となりそうな、管直人にとって皮肉な巡り合わせの情勢となってきました。
 前回、“青春もの”で選んでみましたが、まだまだ、懐かしい曲があったなぁと思って、今日も続きです。

 中学3年生の夏休みに初めてギターを手にして、楽譜を読みながら、自己流で練習していました。それも、いきなりスチール弦のフォークギターでしたから、指がよく切れてシビレながらも、夢中になっていました。
 そんな頃、よく弾いていた曲の中にフォーセインツの「小さな日記」「希望」もありました。引用したYouTubeの動画は、オジサンになった彼らの歌声ですが、これはこれで、若い時とは違う円熟味というか迫力のある演奏になっていて、ちょっと、感動しました。
フォー・セインツ(小さな日記、希望)

 前回の「君について行こう」の中で“祖国”という歌詞が出てきましたが、今回の「君の祖国を」も、もろにタイトルに入っています。今の感覚では、ちょっと奇異に感じるかもしれませんが、60年代には、“祖国”という言葉は、右翼よりもむしろ左翼的な人々が好んで使っていたように思います。
 学生運動が盛んな時代で、いわゆる過激派が分裂を繰り返した三派系全学連に対して、最大勢力を誇った全学連(全日本学生自治会総連合)は民青(日本民主青年同盟)系全学連とも言われましたが、この機関紙の名称が『祖国と学問のために』(略称『祖学』)でした。(と、勝手に過去形にしてしまいましたが・・・。)
 その当時の「祖国」への思いというのは、高度経済成長でひどくなった大気汚染や荒れ果てていく国土の悲惨さを嘆き、また、アメリカに従属した軍事・外交に嘆く気持ちを表わしたもので、我々の祖国を我々人民の手に取り戻そう、というニュアンスが強いものでした。

 この「君の祖国を」は、映画『ひとりっ子』でタイトル曲として歌われました。
 この映画は、いわゆる反戦もので、『ひとりっ子』上映運動を通じて、確か高校の文化祭のときに生徒会の主催で上映されたのを観たように覚えています。
 主人公の高校生が、防衛大に進学しようかどうしようかと迷う中で、クラスメイトの女の子(たしか、藤田弓子でした)が、機関銃を構える格好をまねて、その彼に対して、ものすごい形相で、執拗に「ダダダダッ、ダダダダッ」と、撃つまねをする姿が強く印象に残っています。防衛大に行くっていうことは、人殺しを職業にすることなんだと、激しく詰め寄ったシーンでした。
 公務員だった私の父親なども、防衛大に行けたら将来は安定していて安心だぞ、というようなことを言っていただけに、この映画は強く心に残りました。
 とまあ、そんな時代背景を思い浮かべながら聴いてもらえたら、と、願っている次第です。

火星:君の祖国を シャデラックス

 日本のGDPが、中国に抜かれて、世界第三位に後退したというニュースがしきりに流れています。
 では、一人あたりのGDPはどうなのかと思って検索してみました。つまり、一人あたりの付加価値額、言い換えれば、生産性のランクになります。

 調べてみると、分かりやすい一覧表がありました。それが、こちらです。

 日本、中国ともに、ランキングの低さに驚くかもしれません。
 日本はフランス、ドイツと近いランクにいて年間4万ドルくらいのGDPなのですが、では、この4万ドルの価値を生み出すために、どれだけの労働時間を費やしているのかと言えば、日本のランクは、もっと、ずっと、下がると思います。大雑把にいえば、フランス、ドイツの年間労働時間が1700時間くらいなのに、日本は2000時間を超えているうえに、統計に表れないサービス残業も相当時間数にのぼるのですから。
 それに、もうひとつ。このGDPの内訳ですが、日本の場合は、消費支出(個人消費)の部分が減り続けています。つまり、日本の場合は、フランス、ドイツよりも長く働いて、やっと、それに近いGDPを生み出しているものの、その国民への分け前は、どんどん減らされている、というわけです。
 GDP総額で中国に抜かれたことよりも、この方が、悲しい現実だと思うのだけど。