kyottides的 喜怒哀楽 -30ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 このあいだの「口笛天国」のほかに、最近聞いたCMで気付いた1960年代の曲を選んでみました。


悲しき天使/メリー・ホプキン
 以前にもここで取り上げたことがあります。メリー・ホプキンスは、ビートルズのポール・マッカトニーの従妹だとかいう話もあって、彼がプロデュースした人です。


Herb Alpert & The Tijuana Brass - Bittersweet Samba
 この曲も紹介したことがあります。ニッポン放送の『オールナイトニッポン』のテーマ曲として親しまれていました。


なんとなくなんとなく/ ザ・スパイダース
 ザ・スパイダースは、GS(グループ・サウンズ)の中でも人気の高かったグループの一つで、この出身者には錚々たる顔ぶれがいます。リーダーの田邊昭知は、田辺エージェンシーの社長だし、堺正章、井上順、かまやつひろし、もよくテレビに出ているから知っている人も多いだろうし、大野克夫は作曲家として大活躍しました。
 この「なんとなくなんとなく」は、ザ・スパイダース時代の曲の中では珍しく井上順がリードボーカルを務めていました。
 メア部長の発言が騒ぎになって、アメリカ政府は慌てふためいているけれど、

「メア日本部長」に寄せられたコメントへの返信(再録)
 アメリカ政府が大恥をかいて外相のクリントン国務長官がお詫び行脚に走り回らなければならなくなって、報復に躍起になっているのがWikiLeaksですね。
 在外公館から本国への報告が次々と暴露された内容は、いずれも、世界の憲兵と思い上がるアメリカ政府の諸外国に対する侮辱的な気風でした。
 メア部長の態度も、従って、アメリカ政府では例外ではなく標準なのかもしれません。「喋り過ぎ」も存在をアピールして幹部にのし上がるための素養を、将来の(対外蔑視の)外交官たちのために披露した、つもりだったのかもしれません。

 実は、アメリカがこういう態度である限り、世界中の外交姿勢もこれに習うこととなり、お互いがお互いをホンネでは侮辱しながら駆け引きに走る国際関係が続くこととなるだろうと思います。「本音と建前」を使い分けているのは誰なのか、と、メアちゃんに聞きたいものです。

 この問題のもととなった「発言録」をまとめた学生の中には日系4世という若者もいて、日本のいくつかのテレビにインタビューで登場していますが、その発言に驚くとともに怒りを覚えていたようです。それだけに、メア部長が「内容は正確ではない」と弁明しても、異様なほど奇異に思い印象づけられた発言だから、ぜったい間違いない、と反論しているくらいです。しかも複数の学生の共同作業でまとめているのですから、文章の信ぴょう性はより高いでしょう。
 だからこそ、アメリカ政府は早々に、メア部長に分がないと判断して謝罪の態度を決めています。

 このニュースを巡っては、NHKと読売、朝日およびその系列メディアは、アメリカ政府の態度がはっきりしてから報道に踏み切ったことをキッチリと覚えておきましょう。(といって、共同通信、毎日新聞が”義憤”に駆られて報道したとまでは思っていません。購読部数競争で後塵を拝している商業新聞のスクープ主義だと受け止めています。)

 それにしても、どっちを向いても、だまし合いの駆け引きの世界というのは、・・・ねぇ。
 露骨な生存競争が社会の原理となり、お互いの戦いから逃れられないのが資本主義であってみれば、これは、宿命でしょう。
 これに対して「万国の労働者」が団結し連帯するはずのインターナショナルの精神もまた、今のところ、中国などがスターリンに見習ったまま、覇権主義=大国主義にどっぷりと浸かっているため、世界的な運動としては遠のいています。

 そういう現状が改まるとしたら、また、諸外国が日本に対して態度を改めるとしたら、日本が非同盟運動に参加し、AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)連帯の一員となることでしょう。アメリカ帝国主義の手先ではなくなって「万国の被抑圧民族」との連帯の側に回るのですから。
 「非同盟という名の同盟だ」という非難は、軍事同盟だらけの資本主義大国の言い分です。そのスタンスを忠実に守っているのが日本のメディアですから、非同盟運動についての理解は日本では阻まれています。(NATOをはじめ軍事同盟にすがっているのは、日本も含めて資本主義大国だけであることが今の時代の特徴です。)
 中国もまた非同盟運動の一員ですが、それゆえに、非同盟・日本に対して大国主義の態度をとるとすれば、非同盟運動内での警戒感を広げ、支持を失うリスクを抱えることになります。(実際、中国の覇権主義を批判し警戒する国が増え始めていることから、今年の全人代=全国人民代表大会では、外交姿勢の穏健化に転じるそぶりを見せています。ただし、その覇権主義を総括したわけではなく、あくまでもポーズに過ぎないとは思いますが。)
 といっても、日本の非同盟への方向転換は、はるか遠い道のりだろうとは思いますが。
 前回の「口笛天国」の映像ですが、あのイギリス人本人が口笛を吹いていたわけではなく、口パクなのだそうです。あのステップなどを見ると、すっかり、騙されましたけど、楽しそうな映像で気に入ってます。

詳しくは、こちら。 ⇒ Whistling Jack Smith

 あの動画では、頭の部分が切れていますので、改めてレコード盤で引用しました。
Whistling Jack Smith - I Was Kaiser Bill's Batman - 45 rpm


 ところで、口笛で思い出すのは、60年代に売れていたアメリカのミッチ・ミラー合唱団です。大雑把にいえば、アメリカの軍歌が得意な男声合唱団、といったところでしょうか。
 そんな中で、有名な曲が「クワイ河マーチ」とか「史上最大の作戦」などではないかと思います。これにプラスしてミッチ・ミラーではありませんが、「大脱走」も並べてみました。
 クワイ河マーチの映画『戦場に架ける橋』も『史上最大の作戦』、『大脱走』も実話に基づいた戦争映画ということで、選んでみた次第です。いずれも大ヒットした映画で、『史上最大の作戦』と『大脱走』は、主役級の大スターがこぞって出演した大作でもありました。

 ★ 『戦場に架ける橋』は、日本軍の捕虜になったイギリス兵たちが、タイとビルマ(ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出されて鉄橋を作る物語で、英国紳士の気高さを見せつけようとする英国将校を主役にしたものでした。橋の完成直後に、味方の軍がこの鉄橋を空襲して破壊するのですが、その時には、彼は、橋を守ろうと狂奔するに至っていた、という、『アラビアのロレンス』の結末のような終わり方でした。彼にとっては、いつの間にか、敵国に貢献してしまう行動であるよりも、苦難を極めて完成させた建造物への愛着に囚われてしまった、という映画でした。

 ★ 『史上最大の作戦』は1944年6月6日、D-Dayとして知られるノルマンディ上陸作戦を描いた映画です。イギリス、カナダ、アメリカの連合軍がフランスの海岸の守備に当たっていたドイツ軍の虚を突いて成功させた上陸作戦で、これ以降、連合軍がドイツ軍を押し返し、一挙に戦争の終結へと向かうことになった作戦でした。夜明けからの作戦だったため白兵戦となり、多数の犠牲者を出した上陸作戦でもありました。

 ★ 『大脱走』も実話を映画化したものです。ドイツ上空で撃墜された連合軍の空軍の捕虜が集められた収容所から大量脱走を図ったものでした。収容所を脱出してドイツ軍を脱走者の探索に振り向けさせ、戦力を消耗させる、という捕虜の任務があったそうです。実話では、200人の脱走が試みられ、このうち50人ほどが脱走できたものの、ほとんどが殺害され、ドイツを脱出できたのは数名だけだったそうです。映画ではアメリカ人が活躍していますが、実話では、この作戦に参加したアメリカ兵はいなかったそうです。

Colonel Bogey March - Mitc Miller & His Orchestra


史上最大の作戦マーチ/ミッチ・ミラー楽団


The Great Escape Theme

映像も音楽も、「埋め込み」ができないこちらの方が、いいかも。

 前・駐沖縄総領事だったメアという人間が、今、オバマ政権の国務省で日本部長に就任している。
 オバマにとっては、こんな男を対日外交の窓口に据えることが、日本に最大限の考慮を払ったことになるのだ。
 TPPもこの男のような態度で臨んでくることだろう。
 俳優には、映画で育ってきた人もいれば舞台で育った人もいるしテレビドラマ中心で活躍してきた人もいるが、岸谷五朗は舞台と映画をメインにしてきた人だと思う。
 その彼が演じている大河ドラマ『江』での秀吉役。これまでの大河ドラマ俳優とはだいぶ違う演技が、印象に残る。時としてやり過ぎだと思うこともあるが、あのスーパー・エキセントリック・シアター仕込みのドタバタぶりをうまく採り入れていると思う。
 舞台出身の俳優と言えば、基本的に、声も動きも大きいのが特徴だろう。それも、大河ドラマのような、劇的な決断とか運命の分かれ道のようなシーンが多いものの場合には、決めポーズとか腹に力の入ったセリフの言い回しなど、舞台出身者らしいその迫力がよく似合うと思う。俳優座出身とか歌舞伎、あるいは、宝塚出身、といった人々が、こういうドラマにはよく似合っているのだろう。
 だが、岸谷五朗が準主役級で出ている今年の大河ドラマは、ちょっと、異変が起きたかな、という印象なのだ。
 スーパー・エキセントリック・シアターとかワハハ本舗と言えば、アヴァンギャルドと呼んでいい新しい試みの集団だったと思う。カッコよくはなく、年中舞台を走り回り、セリフも機関銃のような早口で、しかも、吉本喜劇のようなタイミングを外すズッコケなどのツボを持ったお笑い、といったところだろうか。
 そんな劇団の出身者だとよく分かるのが彼が演じる秀吉の「猿」ぶりだ。畳に寝転がって幼児のように手足をばたつかせる駄々っ子ぶりとか、千利休(石坂浩二)相手に何度もズッコケるところなど、歴史劇を現代風に脚色している今回のドラマによく合っていると思う。大地康夫の人情役者ぶりも合わせて、この二人の演技は、異彩を放っていると思う。
 今後、秀吉が権力者にのし上がり、凄みが加わってくるときには、どういう演技になっていくのか、楽しみだ。

 そういえば、昔、『あぶない刑事(デカ)』シリーズで、舘ひろしと柴田恭平が二人で主役を演じていたが、走るのも転げまわるのも、ミュージカル劇団・東京キッドブラザーズ出身の柴田恭平の方がカッコよかった。(と、思う。舘ファンには叱られそうだけど。)
 リビアの情勢が日本にも影響が生まれ始めている、ということで、テレビ朝日の夕方のニュース番組で取り上げたのは、マグロの値があがる、という話だった。
 毎日のように、大勢の人々が亡くなっているリビアの問題で、日本人が心配するのはマグロが喰えるかどうか、だと。
 リビアの平和のためならば、マグロが値上がりすることなど、私は一向に構わない。少し我慢するだけでいいのだから。

 日本のメディアの感性というものは、こういうものなのだと、呆れるだけである。

 商業新聞・商業メディアが業界紙化するというのは、ある意味、運命めいたものがある。新聞の売上のほぼ半分に相当する広告主やテレビ・ラジオの収入のすべてを占めるスポンサーの意向に背くことは絶対タブーなのであるから。
 自分が籍を置いていた業界新聞の場合で、広告収入が60%、購読料収入が30%、イベントなどの事業収入が10%くらいだった。大手全国紙の収入が公表されることはないが、推定で広告料40%、購読料60%前後とされている。経営に大きな影響を与えるだけの広告依存度の高さが、新聞が「不偏不党」を掲げざるを得ない理由なのである。つまり、公正を装うことで、広告主の機嫌を損なわないことが絶対なのである。電波メディアとなれば、それは、新聞よりもはるかに露骨な態度とならざるを得ない。だから、業界紙化するわけなのだ。(だが、業界紙の方が、言論機関としては、旗幟(きし)鮮明にすることもある。例えば、今の時代のTPP問題に対する『日本農業新聞』の姿勢などである。この新聞にとってTPPは中立ではありえない。)

 公平と称して政治的に中立を装うことは、はっきり言えば、ノンポリ(=ノン・ポリティカル=政治的無関心)となることである。だから、リビア問題について、政治的にはドクのない話題に偏りたいばかりに、よりによって、マグロの心配などという、ノー天気なニュースにならざるを得ないのだ。ニュージーランドの地震の被災者への思いとは打って変わって、リビアの人々の命への思いは、まったくもって、捨象されてしまうのである。命についてのこの扱いの違いには、慄然とせざるを得ない。

 戦場カメラマンがタレント化してしまうほどに、人の命を巡るドキュメンタリーとか現場からの問題提起という感性はすっかり鈍ってしまい、人が殺し合う現場の話題さえもエンターテイメント化する感性というのは、イギリスの国営放送BBCでも似たような問題があった。
 BBCのお笑い番組で、「世界で最も不運な男」という話題で、広島と長崎の両方で原爆を被爆した男性をとりあげ、笑いのタネにしたたために、日本の被爆者団体のみならず、日本政府でさえ抗議せざるを得なかった事件だった。BBCは平謝りの姿勢に終始したが、そんな欺瞞(ぎまん)は、あとの祭だろう。

 つまりは、メディアが商業媒体である限り、また、BBCのような“民主国家”の国営である限り、こういう、ノー天気なノンポリは、後を絶たないだろう。(人の命を巡る問題は、自国民のことにのみ関心が向けられるのである。)

 それに、メディアには、もっと重大な特質がある。
 ビジネスとしてスポンサー(最近はクライアントという表現の方がカッコいいようだが)の顔色をうかがう理由が、その収入の依存度の大きさばかりではなく、メディア自体が巨大化していることにある。
 巨大化しているだけ影響力が大きいことが、スポンサー(クライアント)に限らず、周囲からの圧力も大きいからである。広告主だけでなく、政府、各政党、団体、その他、常に、脅迫的な圧力に曝されているのだ。
 だから、巨大化すればするほど、ノンポリ化せざるを得ないのが実情でもある。それだけ、言論機関としては無能化して当たり障りのない態度に終始することになり、その言い訳が「不偏不党の報道機関」という弁解にならざるを得ない。

 だが、これは、裏を返せば、独裁者、独裁政党の国にとっては、強力な武器になる。太平洋戦争中の日本のメディアがいい例だった。大政翼賛会よろしく翼賛化することによって、大本営発表を鵜呑みにして垂れ流し、その宣伝機関と化したのだった。
(戦争報道というものは、どこの国でも、反戦的な報道では売れず、勇ましい内容の方が読者にとって心地よくもあり、好戦的な報道によって売り上げを伸ばすという宿命のようなものがある。だから、自ら進んで権力にすり寄ることで会社の業績につながり、巨大化したのでもあった。)
 それに、独裁者(政党)にしても、立憲君主や象徴君主などにしても、そういう“おかみ”を掲げる国ほど、権威に対する従属性が強く、メディアが、その代弁者としてのロイヤリティを獲得してしまうのでもある。(たとえば「NHKが言ってるんだから間違いない」などの素朴な信頼。)だからこそ、商業メディアは自ら進んで、体制派・権力派となっていくのだ。

 日本が共産主義だと冷やかされる理由の一つがここにある。中国のような独裁政党の国を除いて、全国紙が存在する“民主国家”は日本だけであって。800万部とか1000万部などという大量の購読者数を持つ新聞は、他の国にはない。つまりは、巨大化することによって、完全に御用新聞となってしまったわけである。独裁国家の政府機関紙と同じことになってしまったのだ。

 では、今の民主党政権のもとではどうなのか。
 御用新聞の本質は変わらないにしても、民主党があまりの体たらくであるだけに、その苛立ちを隠せない。そのために、御用新聞が拠り所にするのは誰かと言えば、ほかならぬスポンサーである。つまり、日本の財界の意向を受けて振る舞うことになる。
 財界もはじめはアメリカ型の政治が実現するかと期待していたのに、民主党があまりに期待外れとなったいま、その願望はひとまず白紙に戻して、使いものにならなかった民主党は、もはや、見限ることにして、「みんなの党」のような次の勢力を育てようという方向に転換しつつある。メディアもまた、そのように動き始めているのだ。(準国営のNHKにしても例外ではない。)

 だからこそ、日本の大手商業メディアが日本の資本主義の御用新聞、ブル新(=ブルジョア新聞)であると警戒しておくこと、これが自分たちにとって大切なのだと思う。多分、冒頭に示したように、人の命への感性が一つの物差しになるだろうと思っている。もちろん、「国益」なる幻想に囚われた「愛国者」という水準においてではなく、である。
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 日本の新聞は、明治の初め、自由民権運動の頃に政論新聞と呼ばれた媒体が数々登場したが、讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例によってことごとく弾圧され、またその一方で、日清・日露の戦争報道を通じて御用新聞化することが売り上げにつながる味をしめた。
 昭和の初めには、ロシア革命に触発されて巻き起こった大正デモクラシー以来の労働運動や普通選挙権運動に際して、その付与と引き換えに制定された治安維持法によって、言論弾圧は日常化することとなり、商業新聞はさらに一層、軒並み翼賛化していくのだった。
 太平洋戦争後の日本では、もう既に、新聞の巨大化はほぼ完了し、また、新聞業界での戦後の民主化闘争の象徴となった読売新聞争議で労働側が敗北して以降、言論機関としての新聞の役割は、政治体制の批判ではなく擁護のための媒体であることを明確にしていくのだった。
 政党機関紙としては、戦前も戦後も、日本では共産党の『赤旗』(戦前の呼称は「セッキ」で「アカハタ」は戦後からの呼称)だけが文字通り新聞の体をなしている。現在、日刊新聞を発行しているのは『公明新聞』もあるが、『赤旗』には日刊紙とは独立して発行している『日曜版』もあり新聞事業全体としては比較にならない規模の違いとなっている。
 政党本部の収入では、年間200億円規模となる自民党と共産党が双璧であり、しかも、共産党は政党助成金を憲法違反だとして受け取りを拒否している唯一の政党だが、その収入の最大部分が機関紙収入であり、支出もまた、この発行費用に費やされている。
 古典的な意味からも、現代的な役割においても、政論新聞として最も分かりやすい存在だと言えるだろう。

 ところで、メディアの在り方は、インターネットの普及とともに、世界的に大きな変革が生まれている。アメリカなどで地方新聞が次々と潰れているように、また、北アフリカ・中東の政変などのように、情報の伝わり方も、政治的運動の広がり方も、今までにはなかった事例が広がっている。新しい手段をどう使いこなしていくのか、予測のつかない事態は、まだ、いくらでも生まれるだろうと思っている。
 レーニンが政治新聞を駆使し、ヒットラーや近衛文麿がラジオを、ケネディがテレビを制したように、インターネットを制する者が生まれるかどうか。また、そもそも、制することができるのか。過去の事例が参考にならない時代が始まっているとも感じている。

以上、コメントへの返信に代えて。

 「名誉ある地位・・・。」へのオプケニさんのコメントへの返信です。

 返信が遅くなり、申し訳ありません。

 今回も、興味深いご意見、ありがとうございます。

 日本政府の政治的なステートメントが世界から見れば影が薄いことは、アメリカ合衆国51番目の州と揶揄されるように、ほとんどの場合、アメリカに従属しているからだと思います。特に平和を巡る問題では、アメリカに追随するのが常です。日米関係に機軸を置く外交姿勢である限り、これは、たぶん変わらないでしょう。
 だから、問題だと思っているのです。こういうことでは、日本は真の意味での独立国家とは言えず、国際的な平和勢力にはなりえないと思うからです。
 アメリカの手先のままの日本であることには、忸怩(じくじ)たる思いをしています。

 ですから、それが、日本的な文化とか民族的な特質によるものかと言えば、おっしゃるように、別ものだと思います。万葉集についてのお話とか、すぐれた日本人の存在については、読みながら、ふむふむ、なるほど、と思いました。
 日本語というのは、世界でも稀に見るほどの繊細で豊かな表現を持っていると思います。人称表現の多さとか、「うまみ」などの味の表現、四季折々の風景描写の単語など、多々あると思います。それは、日本の気候や自然がもたらす豊かな水と緑とその多様な変化という環境が世界でも稀に見る好条件となって、豊かな表現力と文化が培われたものと思います。(しかも、日本近海の魚介類の種類の多さも、奇跡と呼ばれるほど、世界に例がないそうです。)

 その一方で、日本人が全体として寡黙だとされるのは、生活の中に根付いている集団主義のようなものがあると思います。出る杭は打たれる、ではないけれど、個人のスタンドプレーが嫌われる空気のようなものです。美徳でもあれば欠点でもある、そんな特質だと思います。
 サッカーのアジアカップで優勝した時に、チーム一丸で闘った強さがクローズアップされました。先発も控えも分け隔てなくチームとしてまとまったことが大きな成長につながり、誰が交代しても高いモチベーションと使命感が揺るがず、優勝にまでたどりついた、と。
 昔も、上杉謙信や武田信玄が、トップの座を投げ出したくなるほど「おれがおれが」の家臣たちを掌握・統率するのに苦労して合議制の工夫をはかったことが、その後、周囲の戦国大名たちが恐れるような強力な軍団に育ったように、チーム作りによって力を発揮してきた経験が少なくないと思います。
 そのため、今でも、会社の業績など、成果を挙げた場合に、「私の力で勝ち取りました」と言えばヒンシュクを買い、「みんなに支えられて実現したみんなの成果です」と言えば称賛されるわけです。
 ただ、これは、逆に作用すると、集団無責任体質となり、今、世の中が唖然としているのが、次から次へと問題が表面化し続けている旧・社会保険庁のずさんさでしょう。

 ひところ、日本は共産主義だ、という議論がありました。強力なリーダーシップを土台にする欧米企業の人たちから見ると、合議制が特徴のように見える日本は、そんなふうに映ったのだと思います。特に、従業員の平均賃金と社長の年収とで百倍以上の差があるのが当たり前の諸外国の企業に比べて日本の場合はせいぜい十倍から三十倍程度ですから、共産主義的に見えたのかもしれません。(日産のカルロス・ゴーン社長の年収が八億円とかいうのが、欧米では当たり前でも日本ではニュースになるほどでした。)
 それほどに、いいことも悪いことも「みんなで」共有という空気の強い日本だと思います。

 「みんなのおかげです」という謙虚さは、日本的な美徳だと思っています。と同時に、個々人の使命についての責任ある態度、言い換えれば、自律的な態度が求められる、という点では未熟な社会ではないかとも思っています。
 たぶん、子どもの頃の学級会、生徒会から始まって、大人になってからの町内会、自治会、労働組合、市民団体などに至るまで、任意の組織での「みんなで決めて、みんなで実行する」民主的な経験の蓄積が必要なのだろうと思います。
 そういう民主主義の経験を奪ってきたのは、日教組=アカ攻撃を行なってきたニッポン主義の旧・文部省であり中教審(中央教育審議会)であり、教育委員会でした。おかげで、各種政治レベルの選挙の投票行動にも、ムード選挙が横行する“素晴らしい”民主国家となりました。
 自由で自律的な個人によって構成される共同という共産主義には程遠い現実だと思います。

 さて、例によって長話となりました。
 「永田町業界紙」など新聞・メディアについての話は、次回、ということにします。
懐かしのラジオ番組 - 走れ!歌謡曲


 最近、ビールのコマーシャルで流れている「口笛天国」。とても懐かしい曲です。
 ラジオの深夜放送「走れ!歌謡曲」のタイトル曲で使われていました。文化放送の「セイ・ヤング」のあと、午前3時から5時までの番組でした。
 「パック・イン・ミュージック」(TBS)とか「セイ・ヤング」が高校生くらいから大学生くらいまでの若い子たちを相手にしていたのに対して、午前3時からは、歌謡曲番組になっていました。(ニッポン放送の「オール・ナイト・ニッポン」だけは1時から5時まで通していたと思います。)
 タイトルにあるように、深夜便のトラック運転手に向けて放送されていたもので、3時までの若者向けの番組がフォーク、ロックがメインだったのに対して、純日本的に歌謡曲一辺倒だったと思います。菅原文太と愛川欣也のコンビで当時、大流行だった映画『トラック野郎』シリーズに出てくるようなデコ・トラが全国至る所を走っていた時代でした。

Whistling Jack Smith - I Was Kaiser Bill's Batman