このタイトルを最初に書いたのが12日のブログでした。
昨日は、東京電力の清水正孝社長の1ヵ月ぶりの記者会見が報じられました。
「ベストを尽くしてきた」との社長発言に、会見場のあちこちから、罵声やらたたみ掛ける質問やら、騒然とした光景が報じられるとともに、あくまでもポーカー・フェイスを貫き通した無感情な社長の表情に不気味さを感じた人も少なくないでしょう。
これこそが、何があってもシラを切り通す官僚主義の頂点に上り詰める人物の表情だとつくづく思いました。
原子力発電所をめぐる東京電力の事件・事故は、今回が最初ではありません。
最も有名なのが事故隠し事件(2000年~2002年)、ついで、新潟県中越沖地震で起きた柏崎刈羽原発事故(2007年)だと思っています。
ただ、原発事故、原発事件をいろいろと調べてみると、東電ばかりでなく、国内だけでも何十件もの事件・事故が発生していたことに驚きました。
事故隠し事件(原発データ改ざん事件)は、今回の震災事故の舞台となった福島第1、第2原発、それに柏崎刈羽原発が絡む事件でした。
原子炉の製造元であるGE(ゼネラル・エレクトリック)社の技術者がこの3か所の原発を点検した際、原子炉の亀裂や工具の置き忘れなどを指摘したのですが、これを握りつぶそうとした東電をこの技術者が内部告発した事件です。あまりにも杜撰(ずさん)な原子力管理、発電所運営に驚き、危険すぎるという判断によるものでした。
2年がかりの政府(原子力安全・保安など)とのすったもんだの挙句、東電は会長、社長など経営トップが辞任に追い込まれることとなりました。
原子炉に何か所もの傷があっても、それを政府に報告することもなく、むしろ、隠し通そうとしたのですから、恐るべき態度でした。
今回の震災の際にも、東電は、最初の爆発事故の時から、政府への報告を怠ったことで内閣の怒りを買い、総理大臣が東電に直接乗り込む、という醜態を演じています。
柏崎刈羽原発事故は、新潟県中越沖地震の際の事故ですが、原子炉の緊急停止の問題とは異なって、変圧器火災への対応をめぐって地元自治体への連絡を怠るなど、事故隠しともみられる経緯が問題となりました。また、IAEAによる調査協力の申し出を日本政府が断ったことに反発した新潟県知事が協力依頼すべきだと発言したなど、東電ばかりではなく、政府も事故隠しに加担している疑いがもたれた事例でもありました。
これらの点から柏崎市長は、安全性が確認できないとして刈羽原発の稼働を許可しない緊急停止命令を出し、以後、2年半の間、運転できない状態が続きました。
この事件・事故の時の東電の社長が今の勝俣恒久会長です。彼は、この柏崎刈羽原発事故で引責辞任したはずなのですが、逆に、代表権を持ったまま会長に昇格しています。社長当時も、今回の福島原発でも、勝俣会長は「想定外の事態」と繰り返しています。
こういう東電の態度については、すでに、多くの批判が聞かれますので、とくに、論じる必要はないかと思います。
基本的には、以前にも触れた「危機管理」の在り方(
無知で遅れた者たち=無恥な者ども)、「ほうれんそう」の在り方(
ごまかしと隠ぺい)でも論じたところです。
では、なぜ、東電は、こうまでして、自らの落ち度とか欠陥を隠し、シラを切る態度を積み重ねているのでしょうか。
あの清水社長や勝俣会長などの何があっても「ベストを尽くした」と開き直る態度はどこから生まれるのでしょうか。
それが、すなわち、官僚主義のなせる業(わざ)だと言えます。
官僚主義とか官僚制というのは、マックス・ウェーバーの規定したビューロクラシーが代表的な研究だと思いますが、一言で言えば、巨大組織での上意下達の支配・管理システムだと言えます。対立概念としてはデモクラシーが当てはまるでしょう。
徹底した上意下達の仕組みですから、上の階層ほど間違いは存在しないという前提に立っています。組織内では上の言うことは絶対なのです。このため、入社以来一度も過ちを犯したり認めたことがない者だけが昇進昇格できることになります。
自分の責任範囲ではミスを犯したことがない(または、それを隠ぺいしたり、他の者に転嫁できる能力に優れている)人間が凝縮されて集まっていく仕組みです。そういう種類の人間によって上層部に向けた階層(ヒエラルキー)が積み上げられているわけです。
官僚主義というのは、巨大組織を動かすために必要とされた組織形態でもあります。強力なリーダーシップのもとに一糸乱れぬ組織的行動を取るのにはふさわしい組織なのです。それが、独占的な大企業であり、そういう規模を持つ“国策会社”であり、そもそもの官僚機構(行政府、軍隊、警察など)なのです。
しかし、そのために、「上の者に従っているだけだから、責任はない」というモラル・ハザードを生み、上に行くほど「前例に従っているだけだから、自分の責任ではない」という前例主義に陥り、遂には、「想定外の事態だから、我々の責任ではない」というトップにたどりつくのです。そのトップ陣営がどう責任を果たしているかと言えば、絶対に間違いを認めない「ベストを尽くした」発言になる、というわけです。
彼らは、個人的な責任やリスクを回避することには長じていても、社会的な使命感とか責任感には、全く無神経になってしまうわけです。
これは、何も東京電力だけの体質ではありません。官僚機構のすべてが、こういう組織原則を貫いています。今は民営化されている政府系の企業も同じです。福知山線事故のJR西日本や証拠改ざん事件の大阪地検など、記憶に新しい事例も少なくないでしょう。いずれの場合も「オレは悪くない」でした。 絶対間違えないはずの政府=原子力安全・保安院が許可した原発なのだから、その安全性については、東電は「ベストを尽くした」のであって責任はない(=責任は判断基準を決めた政府にある)。原発が壊れてしまったのは「想定外の事態」なのだから、ベストを尽くした我々の責任ではない。会長も社長も「オレは悪くない」。そういう気持ちの表れが、声を荒げる記者たちに対して向けられたあの冷ややかな無表情なのでした。
さて、そんな中、管内閣の発足以後に、資源エネルギー庁の長官だった石田徹という人物が東京電力の顧問に就任していたことが明らかになって、官房長官の枝野をはじめ、民主党内閣は、自らが官僚を把握・統制できていないことに慌てています。災害復興をはじめ、管内閣では官僚組織を従わせることも活かすことも出来ていないことが、こうした事例からも露呈しているわけです。
また、御用メディアも、東電とは馴れ合ってきたことが、勝俣会長の発言でバレています。
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東京電力による記者会見「勝俣会長、マスコミとの癒着を認める」 こういう官僚主義に対抗するために必要なのは、カウンター・パワー(対抗勢力)だと考えています。それには外部からの監視の目も必要でしょうが、基本は、組織内での日常的な活動なのです。経営陣のご機嫌伺いを原則にしている正社員クラブ=御用組合ではなく、闘う労働組合なのだと考えています。そういう闘う勢力を潰すために働き、労働運動に日和見主義を蔓延させたのが、経営側の後押しを得て組織された御用組合=正社員クラブであり、「連合」に結集している諸君でした。そんな勢力ではなく、闘う労働組合を通じて、日常業務の安全管理をはじめとして経営側の政策に対する批判も行なえば現場からの提言を行うこともできるのだと考えています。
働く人々は、本当に闘う労働組合を作ろう、そういう組合に入ろう、それによって現場で働く仲間たち、危険を顧みず働く仲間たちとつながろう、支えよう。そういう思いが募るのです。