kyottides的 喜怒哀楽 -23ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 日の丸は、デザインだけを考えれば、おそらく、世界で最も単純にして最高のデザインだろうと思います。
 他のどの国の国旗も、縦・横の向きが決まっていて、イギリス国旗などを除けば上下も裏表も一目で分かるだけに、見え方によっては、みっともないこともあります。(たとえば、USAの旗を逆さまにして掲げるなどすれば、一目でUSAに抗議する侮辱的態度だと分かります。)
 その点、日の丸は、どんな角度から見ても上下も左右も裏表も関係なく日の丸です。たぶん、こういう旗は他に例はないでしょう。誰にとっても分かりやすいし、白地に赤(紅)という、最高に縁起のいい旗でもあります。

 だから、日本人にとっては、この日の丸はとても親しみやすいし誇らしく感じるデザインでもあるでしょう。子どものころから日本の国旗だと教えられてみれば、この最高のデザインは、ごく自然に親近感を抱くものとなってきたと思います。オリンピックやワールドカップサッカー、F1など国際舞台で日の丸が掲げられるとき、誇らしく感慨深く感動を覚えるのも自然なことだろうと思います。
 その時、感激を覚える人々は、何に感激しているのでしょうか。
 例えば、今度の「3.11大震災」の時の世界の評価があります。悲惨な事態に陥ったにもかかわらず自制的で他者への思いやりを忘れない日本人の美徳と、それに比べて、国家機関の対応のまずさとの落差に大きな驚きが生まれています。日本人の多くが感じる日の丸への愛着は、この、世界が驚くほどの美徳を発揮する同胞への思いではないでしょうか。
 なぜそういうシンボルになったのかと言えば、おそらく明治政府以来百数十年の間に沁み込まされたシンボルだからだと思います。日本人にとっては、他のシンボルは何も掲げられたことはないのですから。

 青天白日旗の国民党と五星紅旗の共産党との内戦を味わった中国の人々は、それぞれの旗に対して全く違う感情を抱くと思います。ところが、日本の場合は、左翼の人間の中にも、オリンピックで日の丸が掲揚されるときには涙してしまう、という人もいるのです。おそらく、日本人にとっては、国家権力の象徴であるよりは同胞の象徴として意識されるからだろうと思います。それほどに、日本では、幼いころから身近に感じるように仕組まれてきた唯一の象徴だと言えます。

 しかし、わたしなどは、サッカーの国際試合などで、日の丸が林立する光景を見ると、右翼の集会かと思ってしまうほど、鳥肌が立つ思いがします。あの旗の先に銃剣がくくりつけられているのじゃないかとゾッとしてしまうのです。
 ナチスのハーケンクロイツや日本帝国主義の日の丸のように、あの全体主義のイメージが浮かんでしまうだけに、日の丸が掲げられる光景には、嫌悪感を抱いてしまいます。
 逆に、わたしの気分が高揚する旗と言えば、やはり、赤旗です。多くの職場の労働組合の旗をはじめ、赤旗が立ち並ぶ光景を見ると、ああ、こんなにもたくさんの仲間たちがいるんだと、気分が高揚するわけです。
 とはいえ、日の丸の林立にしても、赤旗の林立にしても、そのいずれもが、自らの力を誇示したいという行為には違いなく、どんな旗を掲げようと、それは、集団的な熱狂の表現に他ならないだろうと思います。それは、他者を威圧することでもあり、右だろうと左だろうと、どちらの場合にも、あまり褒められた行為ではないように思っています。
 一番嬉しいのは、赤旗だけではなくて、生協の七色の虹の旗とか民商の旗、あるいは平和委員会の緑の旗、原水協の白と緑の二色の旗などなど、いろんな旗が立ち並ぶ集会とデモ行進の光景です。数え切れないほど様々な旗が立ち並ぶ光景が好きなのです。

 さて、ところで、日本のパスポートには、菊の紋章が入っています。これは、天皇旗と同じ意味を表わしています。日の丸と同じくらいに上下左右、裏表、どこから見ても同じデザインです。オリンピックで日の丸が掲げられるのではなくて、パスポートと同じように紅の地に金の菊の紋章が入った天皇旗が掲げられるとしたら、どんな思いがするでしょうか。涙ぐむほど感激できますか? 現代日本のことを民主国家とは認めず、君主国家だと思っている諸君にとっては、感涙に打ち震えるほどの紋章でしょうが。
 民主国家の住民だと思うのであれば、パスポートには菊の紋章ではなく、せめて、日の丸を、と、要求すべきだろうと思いますが、毎年何百万人もの海外渡航者からは、何の疑問も提起されていないように思います。まあ、それほどに、一般の日本人にとっては国家の象徴など、どうでもいいことであるのには違いないと思っています。日の丸も、その程度に仲間意識の象徴にすぎないと思っています。しかし、その一般の意識を利用して国旗・国歌への忠誠を強制しようとするファシストは、泳がせるわけにはいきません。スペインの女闘士だったドローレス・イバルリではないけれど「奴らを通すな」です。

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 『西部戦線異状なし』という映画がありました。
 前線の兵士たちの会話で、
「なぁ、オレたち、なんで戦争してるんだい?」
「さあな。なんでも、ドイツの山とフランスの山のどっちが高いとか偉いとかでケンカになってるらしいぜ」
「どっちでもいいじゃねえか」
というシーンがあります。
 その同じころ、つまり、第一次世界大戦の頃、世界で最も古い歴史を持つ「国家」のひとつ、イタリアは、中世以来の領主国家の連合体からやっと統一国家へとまとまり始めたばかりでした。イタリア王国としてひとつの「国家」になったのは、この戦争の後のことでした。
 20世紀に入ってもまだ、こんな調子だから、「国家」意識を下じもの者どもに浸透させることが権力者にとっては特に必要なことなのでした。

 しかし、「国家」って、人民にとって、何なのでしょうか。そんなに大事なものでしょうか?

 国旗・国歌に反発した有名な事件が、1968年のメキシコ・オリンピックの男子200m走の表彰式でした。一位と三位がアメリカ人で、この二人は、いわゆるブラック・パワー・サリュートの人々でした。黒人公民権運動の昂揚のさなか、過激派のマルコムXや穏健派のキング牧師のいずれもが相次いで暗殺された1960年代を象徴して、国旗掲揚の際、国旗を見ようともせずうつむいたまま、黒の手袋をはめたこぶしを高々と掲げたのでした。二位に入った白人のオーストラリア人もこの二人に同調して、国旗からは目をそむけ、下を向きました。
 この二人の黒人は、オリンピックからの追放処分を受けたり、帰国後も脅迫や嫌がらせを受けたりしながら、その後、スポーツ指導者として大成しました。オーストラリア人の銀メダリストの葬儀の際、彼ら二人は棺を担ぐことで生涯の友情を示しました。
 黒人にとって、USAとは、納得のいかない国家、受け入れがたい国家だという時代はその後も長く続くこととなりました。

 国旗・国歌への敬意とか忠誠とか、それが必要だと思うのはどういう人間なのでしょうか。無邪気に「愛国心」など感じているとしたら、それが誰にどう利用されるのか、よく考えてみる必要があるでしょう。
 日本人であるわたしの場合、日本人の知恵とか文化の独創性や繊細さなど、先人たちや同輩の優れた資質に敬服します。しかし、国家としてのこの今の日本については、これでいいのかと、疑問とか怒りを感じることが少なくありません。そんなわたしにとっては、国旗やら国歌やらを押しつけられることには納得がいきません。そんなもの、なくてもいいじゃないかとさえ思っています。
 だからこそ、橋下だの石原だのというファシストには敵意さえ感じるのです。(石原は「君が代」はセンスが悪いとかで、嫌いらしいけれど。)

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君が代条例、慎重運用を要望 大阪府教育委員会
(東京新聞・2011年6月8日 21時11分)



 先週、大阪府議会が全国で初めてという“君が代条例”を大阪維新の会によるほとんど単独可決という暴挙で成立させました。そればかりではなく、今、大阪府議会は、この大阪維新の会と他の政党(公明、自民、共産、民主)とが全く話が通じない対立を深め、議会運営の様々な場面で混乱をきたし、一党独裁とも呼ぶべき事態に陥っています。
 5月30日、6月3日と相次いだ最高裁による二つの合憲判決もまた、この大阪維新の会の動きと軌を一にした政治的な判決でした。

 ただ、最高裁判決は、ひとつは判事全員の賛成ではあるものの権力の乱用を制する意図の付帯意見が付き、もうひとつの判決は判事一人が反対に回るなど、「ギリギリ違憲判決だ」と指摘する憲法学者もいるほどです。というのも、どちらの判決も、公務員の教職員に日の丸掲揚・君が代斉唱の際に起立を命じたり斉唱を命じたりすることは「思想、良心の自由に対して一定の制約を課すこと」だと認定したうえで、公教育の現場の秩序を維持するためには合憲だというのです。この合憲判決は、最高裁では初めての判決であって、憲法で保障する自由よりも秩序への服従を優先させた点で、戦後日本が全体主義への一歩を大きく踏み出す一里塚になったと思います。
 実際、大阪維新の会が目指しているのは、今回の条例は最初の一歩に過ぎず、秋には今回の条例に付随して「処罰規定」までも条例化しようとしていることが明らかになっています。反動思想の牙城であるはずの文部科学省や各地の教育委員会でさえも暴走ではないかと危惧するほどの事態となっています。

 大阪維新の会の代表で、府知事の橋下徹は、個人的にはどんな歴史観や思想を持とうと構わないが公教育の現場では秩序に従うべきだとし、条例も最高裁判決も「職場で普通の状態が守られることになるだけの話だ」と強弁しています。また、4月の統一地方選の結果、大阪維新の会が過半数を握ったことを以って「大阪府民の総意だ」「条例は府民100%の合意」などとも豪語するに及んで、冒頭に引用した記事のように「100%の合意ではない」と教育委員会からクギを刺されるありさまです。

 なぜ、今、この時期に日の丸・君が代の強制を急ぐのか、という議論は、さておき、この橋下一派の動きは、単に異様だと片づけるわけにもいかないでしょう。ミュンヘン一揆を起こした頃、ドイツ国民の多くはヒットラーを単なる変わり者だと軽視していましたが、いつしか、ゲルマン民族至上主義に酔い、反共主義に熱狂し、ユダヤ人の皆殺し政策へとなだれ込んでいくこととなりました。今の時代の橋下のような輩があの時代のヒットラーと同じような立場にならないとも限らないのです。

 さて、明治維新以来の「国家」の概念とは、絶対に守るべきものでしょうか。わたしはそうは思いません。現代の「国家」とは、歴史上、あくまでも一時的なものであって、これからも変遷の過程にあるものだと思っています。
 それを最も象徴的に表現しているのが汎ヨーロッパ主義です。つまり、いまの欧州連合(EC=ヨーロッパ共同体)の思想的バックボーンです。民族は異なっていても、だからと言って別々の国家である必要もないだろう、むしろ、国境や関税をなくして、広く統一して共同体として共存共栄を図ろうという趣旨です。紆余曲折はあるにしても大局的な流れとしては、この動きは後退することはないだろうと思います。
 また、AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)の連帯をめざす非同盟諸国運動もまた、国家間、民族間の新しい関係を模索する運動として育ってきていると思います。

 万世一系の血筋の護持に努めるべし、というのは、明治時代からの政略的な統治思想に過ぎず、経済先進国が帝国主義だった時代の競争、闘争のための体制に利用したものにすぎません。
 そしてまた、現在でも、アメリカ帝国主義をはじめ、中国やソ連→ロシアなどが未だに帝国主義時代の「国力=経済力と軍事力のセット」だという国家概念に縛られ続けているもとで、日本の国家主義もまた、個々人の思想・良心の自由などは踏みつぶしてでも国家の秩序=国家の統制力=やがては全体主義という仕組を維持したい者たちが要求するのが国旗・国歌への忠誠なのです。

 そういう背景を考えるまでもなく、橋下らに対しては、彼らが考える「普通のこと」というのは、例えば中国での思想統制が「普通のこと」であるのと同じことだと言いたい。これは北朝鮮の今の事態にも言えることだろうし、相次ぐ政権失脚で揺れている北アフリカと中東についても言えることでしょう。昭和の初めの治安維持法の時代の日本でも「普通のこと」でした。ヒットラー支配下のドイツでもユダヤ人抹殺と同じように思想を抹殺する焚書運動がありました。
 橋下は「秩序に従うのがいやなら公務員を辞めろ」と言います。つまり、それが、思想統制であり全体主義への地ならしなのです。日の丸・君が代バンザイの人間しか受け入れない体制をつくっていこうというわけなのですから。こういう考えがまかり通るなら、そのうち、「てんの~へいか~ばんざ~い」という遙拝(ようはい)までもが職場の秩序に義務付けられることとなるでしょう。

 権力に押し付けられる秩序など、まっぴらごめんです。自由で自立した個々人による自律的共同こそ促進されるべきでしょう。そういう人々を育てる教育こそ望まれるべきでしょう。

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 楽天は、パ・リーグを1球団減らそうかという騒ぎになった時に、労働組合・プロ野球選手会の奮闘などもあって、何とか生き残ったというか、なんとか立ち上がった球団で、他の球団に比べてガンバッテほしいという気持ちがあります。
 言ってみれば、プロ野球界の吹きだまりのような心身ともにキズだらけの選手たちや監督、コーチ陣でスタートした球団です。
 1年目の田尾監督(元・中日選手)の時には惨憺たる結果に終わり、「再生工場」で有名なあのボヤキの野村監督にバトンタッチして、あのマーくん(田中将大)を獲得するなどして、3年目には日本一を争うほどのパワフルな球団に生まれ変わりました。ところが楽天の杓子定規な契約観念から3年契約の終了とともに野村監督を手放し、昨年はまた成績不振に陥り、監督は1年でクビになって今年は熱血監督・星野仙一で巻き返しをはかることになりました。
 しかし・・・。


楽天 18安打でも負けた 球団初の屈辱

 選手の頑張りと監督の熱血ぶりとが、お互いに空回りしているように感じます。
 野村監督時代に“やればできる”底力を感じさせてくれたチームだし選手たちもそう思っているでしょう。だからこそ、楽天の試合は随所に全力プレーが見られ、やる気満々なのが分かります。ところが結果が出ないのは、なぜでしょうか。
 星野は星野で監督として十分な成果を上げてきたと思います。ただしかし、彼の場合は、もともと潜在能力の高かった球団での成果にすぎなかったようにも思うのです。それを生かしたのが阪神での監督時代だったでしょう。しかし、彼の場合は、情熱的である分、裏を返せば、情念的に馴れ合いにはまってしまうこともありそうです。それを象徴したのが北京オリンピックでの惨敗でした。大学時代からの友人、山本浩二(広島・ミスター赤ヘル)と田淵幸一(阪神・三代目ミスタータイガース)をコーチに据えたことで最強の指導部を作ったはずなのですが、それが却って裏目に出て、馴れ合い指導部になってしまった結果がオリンピックでの惨敗だったと指摘されています。
 今の楽天を見ていると、そんな北京オリンピックを彷彿(ほうふつ)させるような光景のように見えます。

 田中にしても岩隈にしても、いいピッチャーだと思うし、42歳のホームランバッター山崎も頑張っていると思います。元・大リーガーの松井稼頭央(元・西武)とか、岩村 明憲(元・ヤクルト)など“一流”の空気をチーム内に送り込んでくれる選手たちも獲得しています。楽天が吹きだまりだった時代は終わっているでしょう。

 野村とか落合が、一匹狼的な選手生活を送ったのちに名監督になったのにはわけがあると思っています。選手時代に味わった孤独とか試練とか、選手のことをよく分かっている人たちだからでしょう。その分、監督になってからの選手の活かし方、育て方に優れた手腕を発揮することになったのだと思っています。もともと練習嫌いだった王貞治が練習のオニに脱皮してからホームラン王になったことが、選手時代も監督時代も、野球と野球選手をよく理解している人物に成長し、それがソフトバンクの黄金時代を作ったように、この三人の名選手・名監督には、どん底をよく知っている、という共通点があるように思っています。

 選手たちは能力も高いと思うし、やる気も満ち溢れていると思います。それを生かせるかどうか、それは、やはり、監督、コーチ陣にかかっているように思うのです。18安打も打ったのに負けるなんて、どこか指導上の欠陥があるとしか思えません。

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 日曜日の昼過ぎです。この時間は、出掛けていなければ、NHKの囲碁を見ながらノンビリしていることが多く、BGM探しにYouTubeをうろうろしてしたりしています。
 「初夏」ということで前にも何曲か選んでみましたが、梅雨の合間の穏やかな日曜日ということで、今回もこんな曲がいいんじゃないかとを選んでみました。
 シャンソン=カンツォーネというと、日本語で言えば歌謡曲ですね。懐かしい響きがあって、アナログ時代のぬくもりのようなものを感じます。音のキレが鋭いのがデジタルなら、アナログは不鮮明である分、丸みのある音に感じるわけです。その丸さが懐かしかったりゆったりした気分になれるように思います。
そよ風にのってDans le même wagon
マージョリー・ノエルMarjorie Noel



花のささやき//ウィルマ・ゴイク


夢みるシャンソン人形Poupee de Cire Poupee de Son
フランス・ギャルFrance Gall



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 前回も書いた「管内閣のペテン師ぶり」という表現ですが、きのうからの管直人の態度は、まさに笑ってしまうほど呆れたペテン師ぶりを見せてくれました。謀略的な策士ぶりでのし上がってきた人物の正体が丸見えでした。

 発言がコロコロと変わるお気楽オボッチャマの鳩山などは「一定のめど」という表現でイチコロでした。これで、鳩山は管直人が首相を辞任するものと思い込んで、本会議前の代議士(=衆議院議員のこと)会で民主党一丸で臨むことを呼びかけてしまい、結局、自民党等の内閣不信任決議案は否決となりました。
 ところが、本会議後、民主党幹事長の岡田の「辞任の取り決めなどしていない」という発言に鳩山は「それは、うそだ」と言ってみたものの、深夜の管直人の記者会見では辞任の時期はとうとう明言しなかったほか、番記者たちが漏れ聞いた管直人周辺からの「オレは辞めるつもりはない、と言っている」との話まで聞くに及んで、やっと、だまされたことに気付くありさまだったのです。
 (今日の報道では、鳩山は「ペテン師まがいだ」と怒っているそうですが、「まがい」どころかペテン師そのものであることを強調しておきたい。)

 曖昧な表現で身内からだまし討ちにかける。これが、管直人のやり方であり、今の日本の内閣総理大臣なのです。震災対策等々での「一定のめど」がつく時期とはいつ頃のことなのか、民主党内でのゴタゴタが継続されることになっただけのことです。もちろん、与野党間の攻防も、この問題でノラリクラリが続くでしょう。

 管直人がトップに立って以来、国政選挙でも地方選挙でも負け続け、また、3.11震災での対策でも5月末までに作るはずだった仮設住宅も目標には遥かに及ばず、福島原発事故では情報隠しやら、指揮の乱れやらを繰り返して、住民の避難から農産物や海産物の被害、さらには、学校施設などの放射線問題に至るまで、どれをとっても失策ばかりです。
 逆に、管内閣が国民にもたらした恩恵と呼べる成果というのは、何かあるのでしょうか。自民党などが攻撃材料に使う「子供手当」にしても、管内閣になってからは、元々の政策の見直しに追い込まれている状態です。
 つまるところ、管内閣というのは、誰のために何のために役立ったのでしょうか。言いかえれば、この内閣は何に対してどういう使命を担い、責務だと考えているのでしょうか。

 首相の管直人といい、内閣官房の枝野、仙谷、それに与党幹事長の岡田といい、彼らはいったい何を目指しているというのか、全く見えてきません。権力の座にあり続けること自体が目的化しているとしか、言いようがないのです。しかし、そうであればある程、また、彼らの権力が続けば続くほど、日本の内閣の信頼は泡と消え、国政に対する国民の怒りと海外からの嘲笑に包まれることになるばかりだと思います。

 同時に、今回のゴタゴタで改めて浮き彫りになったのは与党民主党のオポチュニスト(日和見主義者)ぶりです。状況次第でいくらでも態度を変えてしまう猫の目政党であって、政治に対してつゆほどの責任感も感じられないことです。それに、自民、公明、たちあがれニッポンなどが超党派の救国体制づくりを早々に放棄して倒閣を最優先課題にしたこともまた、党利党略と言わざるを得ない勇み足となりました。

 ついでに、この際、指摘しておきたいことがあります。
★浜岡原発の停止「要請」
 これは、管直人は、東海地震の震源地と想定されている域内にある危険性から国民の安全のために緊急のこととして「要請」した、としています。
 しかし、この「要請」を発表した記者会見の直後に、かなりおおっぴらに指摘されていたのは、浜岡原発の停止を要請してきたのは在日米軍を置くアメリカ政府からの「やんやの圧力」だったことでした。米軍にとって日本にとどまらず西太平洋、東アジアの全体を管轄する極東司令部が横田(空軍)、横須賀(海軍)にあって、これらの司令部が避難騒ぎに巻き込まれかねない距離にあるからでした。しかし、この指摘は、一部の政治評論家がバラしたもので、日本のマスメディアは、放送も新聞も、早々にこの指摘をヤミに葬ってしまいました。
 つまり、喫緊の課題として即断即決するのは、何も管内閣自らの判断ではなく、軍事同盟傘下に収まっているアメリカからのものである、ということです。アメリカ言いなりの政府であるという点で、自民・公明内閣時代と全く変わっていないどころか、自公政権よりも一層、アメリカに対して卑屈になっていることが伺えます。
 だからこそ、「じゃあ、他の原発の安全性についてはどうなのか」と管内閣の場当たりな指揮に対する疑問が全国から噴出することになりました。

★サミットでの「1千万世帯の太陽光発電」構想のブチ上げ
 先月、フランスで行われた8カ国サミットで、管直人がこれからの日本のエネルギー政策として唐突にブチ上げた構想です。誰との相談もなく、誰との合意もなく、突然に飛び出す発言は、管直人の特徴の一つとなっているように、今回もまた、経済・産業を担当する大臣の海江田にとっても寝耳に水の話でした。与謝野を入閣させ、そのポストをはずされた時にも「人生は不条理」と管直人に対して皮肉たっぷりのコメントをした経験もある海江田は、今回もまた、コケにされ、不快感を表明せざるをえませんでした。
 この唐突な思いつき発言は、サミットの前の週にソフトバンクの孫正義社長と会談した時から突如として出てくるようになったものでした。孫社長が持論にしてきたのがまさに太陽光発電であり、彼は、高齢化や減反政策で耕作放棄地となった土地を生活に役立つように甦らせる方法として、そうした放棄地に太陽光パネルを敷き詰めれば、国内の電力需要は賄える、と、言い続けています。
 おんなじことを言ってしまうわけにはいかない管直人は、まるで自らのアイデアであるかのように、1千万世帯のソーラーパネル、という発言になったのでした。
 自らの内閣でも、自らの民主党でも、何のプロジェクトを立ちあげた形跡もなく、何の研究会を立ち上げた形跡もなく、ただ単に、管直人本人のみの思い付きの発言でした。一言の相談もなかった海江田にしてみれば「人をコケにするのもいい加減にしろ」というわけでした。

 アメリカの圧力に押されたり、その場その場の思いつきを場当たりに「政策」だなどとうそぶいて、次々とアドバルーンを上げては現場を混乱させるような、こんな態度こそ、詐欺「まがい」であり、だからこそ、ペテン師と呼ぶのが適切でしょう。
 強盗致傷よりも詐欺の方が重罪です。強盗によって経済的損害を与えつつ、ケガを負わせるような物理的な致傷事件よりも、だますことで負わせる精神的損害および経済的損害の方が重大だというわけです。
 その詐欺罪に限りなく近い言動を重ねる管直人は、日本の政治史上でも、例のないような重罪人だと思います。この人物を支える内閣官房も与党幹事長もほとんど同罪の共犯関係にあることは言うまでもありません。
 膨大な賄賂(わいろ)を手に入れた田中角栄(=田中真紀子の父親)が背任の罪のトップに立つと思いますが、そして、同じように賄賂に関わる事件に曝されている小沢一郎もまた、いかにも角栄の弟子に相応しいスキャンダルに身を置いていると思いますが、詐欺として断罪されるべき首相は、おそらく、日本の国政では初めての例になるでしょう。
 「だますつもりはなかった」など、立証が難しい詐欺という手法であるだけに、管直人の手法は悪質極まりないと思っています。

 あ、いま、この群馬出身のオシャベリ、山本一太参院議員が質問に立って「(昨日の辞任めいた発言)これは、政治的詐欺じゃないですかっ」とぶち上げました。(06/03 14:02)
 やっぱり、みんな、こいつはサギ師、または、ペテン師だと思っているようです。

 では、また。

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 案の定、管内閣を追い詰める事態にまで行き着いてしまいました。
 管内閣のペテン師ぶりはこれまでにも何度も指摘してきましたし、自民党などの野党が彼らに対してノーの態度を突きつけるだろうこともまた、何度も論じてきたつもりです。
 また、民主党の内部分裂についても、もともとが野合集団なのだから身内同士でつぶし合いをするだろうことにも触れてきたと思います。
 ですから、今回の内閣不信任決議案の提出には、別段、驚くこともありませんでした。

 3.11大震災からの復興に当たっては、管内閣体制で行きたいのであれば、与野党を糾合した実行委員会体制にすべきだと指摘してきたし、管内閣では事態の解決にならないとすれば選挙管理内閣を組むべきだとも指摘してきました。しかし、管内閣はそのいずれも採らず、自民党に対して管内閣の指揮下にくだるような入閣を提案することしかできませんでした。(しかも、彼らは二大政党制を目指しているのですから、他の政党のことは眼中にありません。)
 管直人によるヘゲモニー(主導権)へのこだわりが生んだ結果です。その象徴となったのが内閣の取り巻き(参与だの顧問だの補佐官だの)の乱立であり、数え切れないほどのなんとか本部の設置でした。しかも、取り巻き陣は失言騒ぎばかりが目立ち、数々の本部はまともに機能していないことがさらけ出され、現地対策本部のトップだった副大臣が過労で倒れても10日以上も代理とか後任を置かずに放置したことなどまで問題になりました。
 それに輪をかけて失態をさらしたのが福島原発の事故対策でのていたらくでした。今では内閣と東京電力との間で責任の範囲をめぐって、なすり合いの泥仕合になっています。(象徴的なのが原子炉への海水注入をめぐって、止めた、止めないの責任のなすり合いです。東電にしてみれば内閣の責任にできる部分が増えれば何兆円もの賠償責任のいくらかでも軽減できるのですから、なりふり構わず、内閣の責任部分を増やしたがっています。)

 組織作りも組織運営も、何から何まで、管直人の体制では危なすぎる、というのが、今回の不信任決議案なのでした。

 でも、これでは、自民、公明らが、正義の味方のようになってしまいます。
 果たして、そうなのでしょうか。

 自民も公明も原発推進勢力ですから、もともと、今回の事故の責任は彼らが政権の座にあった時代の電力業界とのハネムーン関係のもとでの安全対策の手抜き ( 千年に一度のような不確かな天災を想定するほどの安全対策にカネをかけるより、あの収益優先だった福知山線事故のJR西日本と同じような「ゆるい」監督行政で電力業界と馴れ合ったこと ) にあります。その彼らが住民第一の勢力だなどと思ったら大間違いです。彼らは、むしろ、住民救済よりも東電の救済をこそ主眼に置こうとする勢力なのですから。自民も公明も、そして、現政権の民主も、この点では「同じ穴のムジナ」であることに違いはありません。この点だけは、絶対に見過ごしてはならないと思っています。

 管内閣は信任に値しないと明言していた共産党がそんな彼らによる不信任決議案には同調できず、棄権という方針に転じたのもそういう胡散(うさん)臭さを警戒してのことだったと思います。社民党もまた、この姿勢に同調しそうな気配を見せています。

 自民も公明、「たちあがれニッポン」も、管内閣のあまりの無能ぶりに退陣を迫る以外には打つ手がなくなってしまったかのように振る舞っていますが、国民の命と生活を守る大義に立つならば、退陣を迫る前に国会が全会一致できる手段を突き詰めるべきだっただろうと思っています。
 わたしなりには、超党派の実行委員会を立ち上げる考え方を描いてきました。自民党などの描く「復興院」では官僚組織のプロジェクトに過ぎず、そのトップに立つのが現内閣であれば、今のむやみやたらな「本部」乱立と大差はないでしょう。官僚組織のプロジェクトではなく、国会会派の各党幹部クラスによるプロジェクトのもとで官僚組織を動かすことで、民主党のもたつきを補い、あるいは、乗り越えることができるだろうと考えています。
 その意味で、最善策だと思うのが、内閣そのものを選挙管理内閣に移行させることでした。これは本来、過半数を握る政党が存在せず、連立内閣も成立しない情勢のもとで国会議員選挙をやり直すまでの暫定内閣という方法ですが、全会派によって構成される分、特定の課題に任務を絞れば、強力な結束・実行力を発揮できる体制でもある点で、民主党が効果的な実行力を持たないことが露呈した今回のような事態のもとでは、必要な体制だろうと考えます。
 民主党にとっては、いわば大政奉還のようなことになりますから、自らは言いだすことはできないことは明らかですが、それだけに、野党が国民の命と暮らしに責任ある態度を取ろうとするならば、不信任案を出すよりも、その前に、そうした超党派体制(保守勢力好みの表現を使えば、挙国一致体制)を構築する努力を果たすべきだったと思います。

 ともあれ、今回は、現実には、内閣不信任案の提出ということになりました。自民・公明・たちあがれニッポンの三党の共同提案ですが、つまり、この三党は、民主党内閣を潰すことを最優先課題とした点で、党利党略を優先したことになります。受けて立つ民主党の内紛も含めて、この四党はすべて、党利党略の政争に汲々としていると言わざるをえません。
 不信任案が成立した場合には、管内閣は、自らの正当性を主張するには国会決議に対抗して国会解散=総選挙に打って出ることになります。その自信がなければ、決議に従って内閣総辞職となり、改めて民主党内閣の組閣を模索することになります。未曾有の災害から三カ月のこの時期に総選挙となれば、国民不在の政争という誹り(そしり)は免れません。
 成立しなければ、まず、民主党内の報復・粛清から始まって、党利党略の政争がしばらく続くことになるでしょう。その間、国民生活は、ほったらかしになると思います。

 見方を変えれば、世界の多くの国々の実例にもあるように、政治の危機の深化が革命情勢を熟してきたわけでもありますから、今の日本の国政は、そういう危機の深化を招いている点で、革命的な機運を醸成することになるかもしれません。ただ、これまでの全般的な保守化のもとで、ファシスト石原や「大阪維新の会」=橋下ファシズム的な全体主義に陥りやすい情勢でもあります。わたし自身は、あんな全体主義だけはご免です。

 いずれにせよ、今日午後一時からの国会で採決される不信任決議案によって、どちらに転んでも、政治の大きな混乱が始まることは確実です。思ってもみなかった事態が次々に生じる歴史的な一日になるかもしれません。
 それだけに、一人ひとりが政治に対してどのようなスタンスを取るのかが問われることにならざるを得ないと思います。

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 季節はもうとっくに過ぎているのですが、春には載せておきたいと思っていた曲です。
 うたごえ運動でよく歌われている曲の一つで「たんぽぽ」というと、門倉訣作詞・堀越浄作曲の「♪雪の下の ふるさとの夜~」という歌が有名になっていますが、もうひとつ、70年代にデモ行進でよく歌われた沖縄の「タンポポ」(小森香子作詞・大西ススム作曲)という歌があります。わたしなどは、その沖縄バージョンの方がなじみが深く、この歌がもっと広まってほしいという気持ちがあります。この原詩は、中学三年生が「ふまれてもふまれても」というタイトルで作ったものでした。その中学生は今、琉球大学の教授になっています。

たんぽぽ (2) 【うたごえ喫茶】


「タンポポ」(沖縄) (青森グループ)

うたごえサークル「おけら」(音量が大きすぎるのですが・・・。)⇒ タンポポ(解説付き)

うたは、いい出来だとはいえませんが、映像が歌にマッチしていると思います。
タンポポ. by vocaloid Megurine Luka: Armée américaine et le pissenlit.


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昭和ブルース (実写映像付き)


 大学紛争当時の全共闘のテーマソングのように歌われた「昭和ブルース」ですが、最高裁による「日の丸・君が代への起立・斉唱の命令は合憲」という判決が出た5月30日、なぜかこの歌を思い出しました。

 卒業式などの学校行事で「日の丸」の掲揚、「君が代」の斉唱に際して教職員への起立・斉唱の命令は憲法違反ではない、というのです。 ⇒ 時事通信の記事
 こうして、国家の手によって「非国民」づくりが進められていくのです。まさに、柔らかいファシズムの典型と言うべきでしょう。
 とくに、大阪府議会の「大阪維新の会」などは、懲罰規定まで定めようと、あの橋下徹の煽動に乗って調子づいているだけに、最高裁は絶好のタイミングを選んで、この日、合憲判決を出しました。三権分立などという白々しいキレイゴトなど知ったことではない政治的意図が見え透いています。

 わたしは、帝国主義時代をそのまま引きずっている「日の丸」「君が代」になど、敬意を払うことはできません。国旗・国歌として法律が制定された経緯を見ても、戦後、これが制定されるまでにかかった年月に示されているように、反対する声も多かったことを物語っています。法律として制定してしまったことで、こういう処分問題が合法とされる事態が蔓延することとなりました。それによって、「日の丸」「君が代」に無批判な人間だけが公職につけることとなり、思想、良心の自由はジワリジワリと奪われていくこととなっているわけです。
 嗚呼、これが、「自由」と「民主主義」を標榜するニッポンなのです。

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 PiDEA(ビデア)という雑誌のことは知りませんでした。
 この雑誌が今、大きな反響を呼んでいるそうです。実際、同誌の公式サイトにアクセスしようとしても、全然繋がりません。
 何が騒ぎになっているかと言うと、この雑誌、パチンコの業界誌なのですが、あの石原慎太郎に激しく噛みついたからなのです。石原の作品をもじって「狂った果実」(果実の部分に「いしはら」とふりがなを振っています)、「お前は金正日か」などの見出し、「『老害』都知事にパチンコ業界猛反発!」というサブタイトルもつけた企画記事を打ち出しています。
 例の節電問題をめぐって石原が自動販売機とパチンコをヤリ玉に挙げたことに対して猛反発した記事だということで、「はったり、虚言、私物化、独裁によってつくられた石原の愚劣な政策」と激しい論調となっているようです。
 わたし以外にも、というか、わたし以上に、この、右翼ファシストを論断する記事が出たことに喝采を送りたいと思いました。

 今回の騒ぎに限らず、石原がパチンコ業界を敵視する発言を繰り返すのは、この業界の経営者たちの多くが朝鮮総連系だと言われ続けてきたからです。北朝鮮への送金の多くが朝鮮総連からのもので、その有力な資金源がパチンコ業界だとされています。そのパチンコ業界の業界誌が石原のことを「金正日」とまで揶揄(やゆ)したのですから、皮肉な巡り合わせだと思いました。
 それはさておき、やはり、石原慎太郎のような傲慢右翼に投票した人々に対しては、これが、今の日本の「民主感覚」なのだろうと、ヘーゲルではないけれど、いずれの国民もその国民にふさわしい政治体制を選択するのは必然だと、ある種の諦念を抱かざるを得ないと思っています。
 ただ、それでも、君主制を守るイデオローグ(思想家)として御用学者の頂点に立ったヘーゲルのもとで、青年ヘーゲル学派と呼ばれた若者たちの中からカール・マルクスが生まれ、フリードリッヒ・エンゲルスが育ったのでした。

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