先日、
惨めな国政と書き、今の内閣総理大臣の奇人変人ぶりは、歴史的偉人どころか歴史的ペテン師として評されることになるだろうという話をしました。
昨日の「総会」は、ある意味、今の日本を象徴したイベントだったと思います。
株式会社の株主総会というのは、それを主催する役員会の総意を反映するものであって、株主のための民主主義の場ではありません。出資者の金額に応じてその利益のために行動するのが役員会であり、少額の株主が経営上の問題について何をわめこうが騒ごうが、過半数の株主の意向と利益に沿ってさえいればいいのです。
ですから、株主総会というのは、役員会にとっては、また、大株主にとっては、総会の前にあらかじめ結論が用意されていなければなりません。というのも、経営の安定性とか継続性という会社の存亡に関わる問題がいちいち揺らぐようでは大金を出資している大株主にとって元も子もなくなってしまうからです。
30年ほど前、資本の自由化が進んで以降、M&A(合併および買収)が活発になり、大株主とその意向を反映する経営陣にとっては会社の奪い合いという闘いがクローズアップされることとなりました。それだけに、株主総会は、事前のシナリオ作りが大切になり、役員会が提案する議題を通すためにあらかじめ株主の多数派を確保しておくことに特に神経を使うこととなりました。
株主総会に何千人出席しようとも、あらかじめ用意されている結論が揺らぐことがあってはならないわけです。それこそが、役員会にとっては、大株主のために死守すべき使命なのです。
その意味で、きのうの東京電力の株主総会は、次の役員人事も経営方針も無事に通したことで、役員会が使命を全うしたことになります。彼らは、第一生命をはじめとした大株主のために、きちんと働いたわけです。
以前は、公害企業との闘いの戦術として「一株株主運動」という方法を取る人々がいましたが、それによって公害企業の経営に影響を与えることができたわけではなく、せいぜいニュースに取り上げられて、話題を提供することで世論に働きかける効果しか得られませんでした。今回の東電の株主総会でも、確かにニュースになるという効果はあったと思いますが、これによって東電の姿勢が変わるわけでもなんでもないこともまた、明らかになったと思います。
「一株株主運動」は、無駄だとまでは言いませんが、勝ち取ることができる効果は、せいぜい一過性の世論喚起くらいだろうと思っています。あまり大きな期待はしない方がいいように思っています。
株主総会に広範な株主の意向を反映させるためには、つまり、株主総会を民主化するためには、所有できる株式の上限を大幅に引き下げることでしょう。例えば、株式会社として成立するためには、株式所有は発行済み株式の5%までしか認めない、というくらいに支配権を制限するような制度にしなければならないでしょう。しかし、そうなれば、経営の継続性は失われ、看板や暖簾(のれん)は、全く意味を持たなくなって、ブランド・ロイヤリティは失われることになります。しかし、また、逆に、株式を持ち合うグループ企業を細分化することになって、例えば三菱系列とか三井系列、住友系列など、株式持ち合いによる系列化が深まることになるかもしれません。(三菱重工の株を三菱グループの11社で持ち合えば、5%ずつで55%という過半数の株式所有になるという具合に、です。)そういう株式の持ち合いは連結決算の厳格化などを通じて歯止めがかかるようになってはいますが、カムフラージュのアイデアはいくらでも生まれてきます。
つまり、株式会社にとっては、その運営に民主主義を持ち込もうとするのは企業破壊につながる誤りであり、配当という利益を得るために出資した大株主の意向に沿うことこそが目的であり、最大の任務なのです。制度をどのように改変しようとも株式会社という仕組みは、表向きの「不特定多数の出資による不特定多数のための社会的利益を実現する組織」では、ありえなくなっているわけです。
というわけで、東京電力は、小口の株主の言い分などはねじ伏せてでも、大株主の意向に沿った役員人事・経営方針を通したのですから、なにはともあれ、役員会は任務を全うしました。
これに対して民主党の両院議員「総会」とは、何だったのでしょうか。
組織のトップが途中退席する総会などというものは、見たことも聞いたこともありません。
普通、総会という場合、その組織の全方針について審議する最高決定機関であるはずで、役員会(株式会社の経営陣、政党、労働組合その他の諸団体の執行委員会)が総会に議題を提案し決定する場であるはずです。それにもかかわらず、トップが「公務」を理由に途中退席するというのは、総会という形式を理解していないか軽視しているかのどちらかでしょう。つまり、民主党の衆参両院の議員たちは、管直人によってコケにされた、ということです。
自らごり押ししようとしているエネルギー政策は「次の国政選挙の争点」と言ってのけるあたり、(今やったら負けるに決まっている)解散・総選挙をチラつかせるなどとは、管直人にとって自らの民主党の議員、代議士たちは、脅して黙らせる相手のようです。で、言いたいことだけ言って、途中退席した「総会」でした。これでは総会の体をなさないのは誰が見ても明白でしょう。議員の総意としての「総会」決定など、彼にとっては、はじめから仰ぐ必要もない、そういうわけです。
自民党議員を一本釣りで内閣に入閣させて、与野党間の信義もへったくれもない暴走を始めるなど、やっていることは身内からも見放されるような自分で自分の首を絞めるようなことをしておいて「歴史の審判は、いずれ、評価が下る」などと、自らの正当性をうそぶく神経には、普通の人間関係はもはや考えられない事態だと言えます。ラスプーチンにすがったニコライ二世のような狂気としか言いようがない挙に出ていると思います。
というか、やっぱり、民主党という政党は、政党の体をなさない「理念なき野合集団」であったことが明白になったと思います。
組織運営のイロハも、民主主義のイロハも知らず、その暴走に歯止めをかける方策も持たない民主党。これが、今の日本の民主主義の辿り着いた一つの形です。日本国民の民主感覚とは、つまり、こういうバカどもを泳がせる民主感覚なのでした。思い起こせば、ポピュリスト・河村隆、ファシスト・橋下徹、大ファシスト・石原慎太郎を選ぶほどに、とっても民主的な人々の感覚なのでした。 ああ、ニッポン人よ、誉れあれ!! あのNHKの朝ドラ「おひさま」の戦時下の光景の再現をこそ、望んでいるのが、いまの日本国民の「総意」なのです。
あのファシズムの時代も、今の惨めな政治の時代も、指導部は皆、
「我が亡き後に洪水は来たれ」(ポンパドール夫人)という自分さえ良ければいい態度に終始している、そんな共通点が思い起こされます。ポンパドール夫人の次の世代にはフランス革命が勃発してマリー・アントワネットが断頭台の露と消えました。
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