kyottides的 喜怒哀楽 -11ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。



地震や台風など、天災が比較的少ないと言われる群馬ですが、それでもさすがに雨交じりの横殴りの風が強くなってきました。地方によってはトラックが横倒しになるほどの風が吹いたり、かなりの被害も報道されています。みなさん、雨戸を立てて戸締りをしっかりして、お気を付け下さい。
4/3 19:17

本日、蒸し器に初挑戦。結婚式の引き出物でもらったギフトブックで選んだ蒸し器です。サトイモを蒸してみたけれど、茹でた時との違いがイマイチ分かりませんでした。蒸し器が本領を発揮するのは、茶碗蒸しとか冷凍肉マンやシューマイを蒸すとか、そんな時なのかなと思いました。
4/3 20:04

 プロで通用するのかなぁ、と、心配していた斉藤佑樹でしたが、今日の開幕戦では、期待とプレッシャーに答えて見事完投勝利だったそうです。去年、沢村賞などの勲章をたくさん獲得した田中が6回降板という屈辱を味わったのとは対照的でした。
 この二人のこれからのプロ生活が楽しみです。
 たぶん、田中は今年もプロ野球の顔と言えるほどの活躍をするだろうと思います。斉藤がどこまで活躍できるか、まだまだ、分かりません。

 さて、ところで、巨人「軍」(軍と名のつくプロ野球チームで取り上げたのち、代表解任とその後の訴訟騒ぎなど、やっぱり、と、思うような事態が続いています。)ですが、開幕戦は敗戦でした。今や最もダーティな球団というイメージが出来上がってしまいました。楽しみにしているのは中畑DeNAがどこまで変身できるか、です。今日の開幕戦は負けはしませんでしたから、期待できそうです。

 いよいよ、春ですねぇ。新しい一年(度)が始まった、という実感です。
※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 仕事で頑張るのは、自らの役割についての自覚から、責任感を感じて頑張るのですが、その自覚の中身は人によっていろいろです。CS(カスタマー・サティスファクション=顧客満足)などのようにミッションの社会的意義を見出して頑張る場合もあれば、自らと家族の生活の安泰のために頑張る場合もあるでしょう。

 さて、野田クンの社会的使命感とは、どのようなものでしょうか。
 彼は、なんとしても、消費税を値上げすることに躍起となっています。自民党などは、自分たちが「増税内閣」という泥をかぶらずに済むので、小沢一郎派をはじめとした反対勢力を処分せよなどと他党に介入する図々しさで、あれこれと難癖をつけてはいるものの、内心ほくそ笑んでいます。経団連会長の米倉に至っては満面の笑顔です。

 野田をはじめとする民主党の主流派や自民党などが強調するのは「(消費税の増税は)社会保障の充実のため」だということですが、実は、絶対に言わないことの中にこそ、ホンネがあります。
 国民に対して堂々とウソを言いふらすのが、自民党よりも悪質な民主党であり、中でも3人目の首相となった野田は、とくに、その鉄面皮ぶりを徹底させています。

 彼らが口にしないホンネとは何でしょうか。
 あの経団連会長の嬉しさいっぱいの表情がすべてを物語っているでしょう。税制をはじめとした大企業優遇策はほとんど手をつけられることなく温存され、国の財政問題はすべて大衆課税に背負わせることにしたのですから。
 野田を奮い立たせている「政治生命をかける」ほどの使命感とは、つまり、財界の言いなり、財務省の言いなりの、その手先になりきることでしかありません。社会保障のため、福祉のためと強調すればするほどシラジラしい限りです。

 福島原発事故の対応を思い起こすまでもなく、権力者のホンネとは、常に、権力者が隠したがることの中にあること、このことを忘れないようにしておきたいと思います。
※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 今日の午前、3人の死刑囚が処刑されたというニュースが流れました。
 検索してみると、死刑に賛成という人のブログが目立っていました。
 なので、死刑反対の立場から一言。

 死刑については、世界全体の流れから言えば、廃止する国々が増える傾向にあります。資本主義大国では死刑制度を維持している国は既に少数派となりつつあります。
 そのわけは、国によっていろいろあるでしょうが、わたし自身の感覚から言えば、あらゆる戦争やテロリズムに反対するのと同じように、国家による殺人という行為は、廃止すべきだと思っています。

 死刑というのは、同じような犯罪を犯せば国家によって殺されるという「見せしめ」の意味と、被害者や遺族の「報復感情」の意味とがあると思います。このうち、社会的制裁としての「見せしめ」的な意味は、実は、前例のない事件が起きることによってほとんど効果をあげていないことは、誰にもわかりやすい実態でしょう。したがって、死刑の意味は、ほとんど、被害者の「報復感情」の表現以外にないのが実情だろうと思います。

 しかし、そういう報復の連鎖では、たぶん、被害者・遺族にとっても、決して気持ちが晴れることはないでしょう。「(あいつを)殺せ!」という声につき動かされる自分自身の気持ちに葛藤がよぎり、苦しむことは、多くの被害者・遺族が経験していることとして知られています。

 だからこそ、思うわけです。死刑制度は廃止して、終身刑を採るべきだろうと。
 終身刑は、命のある限り牢獄に閉じ込める刑です。その間、刑務労働を課すことで、不当労働行為以下の労働条件のもと、その労働の収益は国家が収奪するわけです。もちろん、セックスも飲酒も出来ない、一切の快楽は禁じられた生活です。20代の人間が80歳くらいまで生きるとして、半世紀以上にわたって牢獄生活を過ごし、刑務所から出ることができるのは、屍(しかばね)となって骨壷に納められた形以外にはない、という刑です。
 獄中の生活態度による刑の軽減も、天皇在位年数などによる恩赦も、一切認めないのが終身刑です。

 社会的制裁、というのであれば、そのようにして、生涯牢獄に幽閉することがふさわしいでしょう。殺しはしないけれど、一生涯、収奪し続けるわけです。

 死刑制度がある日本では、これに次いで重い刑は無期懲役ですが、これは刑期を決めていないだけに、刑務所のサジ加減で仮出所ができてしまう刑です。こういう無期懲役ではなく、死刑に代わるものとして、生涯例外なく出所できないものとして、終身刑という刑罰を導入することが必要でしょう。

 報復として命を奪うよりも、報復として生きている限り収奪し続けることで、社会的制裁は十分成り立つと思うのです。

 ・・・それでも、あなたは、凶悪犯を殺したい?
※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 ハーモニーの美しさとソフトな歌声でファンを魅了したフォーク・グループ、ブラザーズ・フォア。
 山に登りに行きたくなっちゃう、とか、山でも海でもいいけれどキャンプ・ファイヤーを囲んでしんみり歌いたい、とか、そういう気持ちにさせてくれるグループでした。
 ジョーン・バエズやボブ・ディラン、あるいはPPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)がフォークの巨頭として活躍する以前、アメリカのフォーク・ブームの先駆けになったと思います。
 例えば、まだ、この時代の象徴的なシーンだと思いますが、彼らが歌っていたUCLAの会場に、二グロの姿はありません。キング牧師らの黒人公民権運動やベトナム反戦運動が高まる直前、まだ、白人だけが高等教育の恩恵を受けていた1960年ころのシーンです。
 さて、ところで、「500マイル」は、いつ聴いても、しんみりしてしまいます。故郷を捨てて旅立つ若者の歌ですが、自分でも、一人立ちをしようという時、いろいろな思いを断ち切りながら、こういうふうに静かに旅立ったように思います。

七つの水仙 Seven Daffodils Brothers Four


遥かなるアラモ/ブラザースフォア


Brothers Four - Four Strong Winds


Five Hundred Miles -by The Brothers Four

※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 案の定というか、やっぱり、トロ(=トロツキスト)の一部にとってはいまだに吉本教の狂信者が根強いようで、罵詈雑言を浴びせてくる者がいました。

 一言で言えば、そうした諸君の言い分は、吉本流のものの考え方を実存主義と一からげにして主観的観念論と規定したことへの反発でした。吉本と同じような口調で「スターリン主義」だと罵倒するあたり、まともな議論が通用しない態度であることを物語る者もいれば、吉本のことを「客観的観念論」だと反駁を試みたアホも含めて、トロって、ついに「左翼小児病」(有名な著作の一つは、レーニンの『共産主義における「左翼小児病」』)から抜け出せないまま一生を過ごすんだなぁと哀れさえ感じました。自らは「ほんものの」共産主義者と思い込んでいたのかもしれませんが、「反・共産党」だけを拠り所に、分裂と日和見を繰り返した惨めな人生に同情さえしてしまいました。
 (そんな諸君の罵詈雑言をわざわざ自分のブログで紹介するなどバカバカしいので、彼らのコメントは公開などしてあげません。勿論、考察に値するというか、人にも読んでもらいたいと思うような議論の試みであれば、トロでも右翼でも積極的に公開して議論を交わしたいと思います。)

 さて、わたしが吉本隆明のことを主観的観念論だと受け止めたのは、「共同幻想」なり「大衆の原像」なり、意識の上での事象を立論の出発点にしていたからです。彼にとっては「存在が意識を規定する」というマルクスの命題に対して「意識がなければ意識的存在とはなりえない」という考えを対峙させることが出発点になっています。この意識する主体に基軸を置く観点こそが主観的観念論に共通の基盤だからです。

 まして、客観的観念論というのは、個人の主体性=意識する主体を超越して普遍的に存在する絶対的なもの=神とか霊的なものなどを見出し、そういうものの「意志」を感じて、そこへの帰依、服従を結論付ける世界観です。簡単に言えば、宗教的世界観とも言えます。まあ、吉本の考え方をそんなふうに思い込む者もいたからこそ、カリスマとして奉じる吉本教信者になってしまうのも、不勉強の見本のようなトロ諸君には無理からぬことだったかもしれません。ある意味、イスラム原理主義と同じような世界観が客観的観念論です。別名、教条主義(ドグマ主義)とも言います。
 吉本のことを客観的観念論だなどとノタマワった本人も「反吉本的と言われている」と自覚していたようですが、まあ、当然でしょう。バカの一言に尽きます。

 ところで「存在が意識を規定する」という唯物論の命題は、意識の働きを軽視するとか、単に受け身な消極的な働きだと規定するわけではないのですが、唯物論哲学に対して攻撃的な立場からは、これをもって、人間をモノ扱いしているとか、精神的存在である人間性を否定しているなど、難癖をつける材料にされています。
 しかし、人間的精神が言語を通じて獲得され、これによって文化・文明の基礎が築きあげられてきたことだけでも、この命題の真理性は揺るがないでしょう。その言語が日本語であるか中国語であるか英語であるかなどによって、さまざまに多様な形態を生んできたように、それぞれの人の意識は、まず、その生まれた時代、地域、環境などが出発点になっていることに異議を唱える人はいないでしょう。
 もちろん、言語では表現しきれない人間精神としてのさまざまなアートが存在します。絵画や彫刻などの造形や音楽など、食べて・眠って・生殖する(子孫を残す)、だけではない人間の精神的豊かさを結実させたものです。しかし、それ自体が、何をどうすればどういう形・表現になるか、ということは、言語の基礎の上に成り立っています。材料を選ぶ、造形的にも音楽的にもバランスを考えたり生みだしたりする、そういう活動の一つ一つはそれぞれに論理的な構成を持っているのですから。(アートでも工芸でも達人と呼ばれる人々は、修練を経たのちにカラダで覚えている境地にまで達すると思いますが、それもまた、意識を媒介するものは言語であることに変わりはないでしょう。)

 「うっせー」「ぶっころす」などの乱暴な言葉しか習得しなかった人は、自分の考えを組み立てるにも乱暴な言葉の上でしかものを考えることができません。誰だって、自分の持っている言葉でしかものを考えることはできないのです。その言葉を増やせば増やすほど、自分の意識は豊かな広がりを持つでしょう。
 自分自身の意識の組み立てばかりでなく、コミュニケーションの場でも“(It’s) Nice to meet you”しか知らないと、相手によっては「なんだ、馴れ馴れしいな」と受け止めるかもしれません。“(I’m) Glad to see you”と使い分けるくらいは覚えておく方がいいだろうと思うわけです。

 また、親が初めから親だったのではなく、子どもが生まれて初めて親となり、子どもの成長によって初めて親として学ぶことを味わうように、我が子を通じて人間的に成長させてもらったと感謝する人たちも少なくありません。
 親としての自我の意識を押しつけることで家族を作ろうとして(つまり、親の価値観の押しつけによって)家庭不和になるよりも、独立した人格としての子どもを受け入れることで自らの在り方を考えたり発見したりしながら自らが成長しつつ、子どもの伸び伸びとした成長を促し、認めて行く家庭になることの方が嬉しいだろうと思います。

 「存在が意識を規定する」とは、そういうことなのです。意識が存在を左右するのか、存在が意識を左右するのか、人間としての存在の本源がどちらにあるのか、明白でしょう。

 吉本の話に戻りますが、彼が、ハチャメチャなエセ左翼だったことは、本人は生涯「左翼」だとか「新・新左翼」だのと自分を飾りたてて見せたものの、わけのわからない迷走に面食らった信者も多かったようです。なにしろ、学問的な論証に耐える文章である必要もなく、ただ思いのままに書きなぐったものを垂れ流すだけで信者になってくれる者がいる「詩人」だったのですから。いくつも例がある中で、一つだけ挙げておくとすれば、オウム真理教についての吉本の「幻想」でしょう。
 批判的な相手に対しては罵詈雑言を浴びせるのも、トロ諸君が真似た彼の手法でした。だいたいの場合「ファシスト」だの「スターリン主義者」だのと罵倒することで独りよがりで悦に入るような人物でした。罵倒を浴びせることで相手がうんざりすれば、それで勝ちだと思っていたようなチンピラだと、私などは思っています。これは、トロがよくやる手で、おかげで彼らは内紛を繰り返し、殺人事件まで起こすような内ゲバ(=内輪同士のゲバルト=内輪の暴力)にまで堕落しました。あの日本トロツキスト連盟などは、生まれてすぐに消滅しました。なにしろ、みんな「オレが、オレが」で分裂したのですから。
 それほどに「主体性」意識というのは、きれいな言葉に見えますが、実は「利己主義」にほかなりません。
 60安保、68・9年大学紛争について「敗北」としか総括できなかったトロ諸君は、見事なほどの変節を遂げています。笑ってしまったのは、国会質疑での元ブントの仙谷由人の「暴力装置」発言でした。自民党の中でも狂信的な右翼の丸川珠代に突っ込まれて早々に発言を謝罪しちゃった日和見の典型でした。国家とは死刑をはじめとした暴力に担保された強制であると、堂々と論戦すればいいものを、あんなバカな東大出身の女に尻尾を巻いたのですから、お笑い草です。

 東大といえば日本の最高峰の大学だと思っている人が少なくないと思いますが、東大紛争の頃の京都府学連や大阪府学連は「全国動員」の呼びかけに対して冷めていました。申し訳程度の人数しか動員しませんでした。
 全共闘の安田講堂占拠事件の一方で、民青(日本民主青年同盟)・共産党の学生たちが主導した大学側との交渉は大学民主化の13項目の確認書を勝ち取っていました。全共闘が騒いだのは、この民青・共産党の学生運動に対する妨害行動にすぎませんでした。
 この学生自治会による大学交渉を成功させるために、と、トロの妨害をはねのけるための全国動員の呼びかけがあったわけです。
 あの東大闘争でのトロによる安田講堂占拠事件は、学生自治会に団結した圧倒的な学生たちの支持を失った跳ねっ返りの暴挙にすぎませんでした。安田講堂に立てこもった学生たちの多くが「外人部隊」(よその大学の学生たち)だったことも知られています。東大紛争でマスコミが報道するのはこの事件だけだということが、日本の商業マスコミの端的な体質を表わしています。

 京大や立命館など、京都府学連の中心メンバーだった学生たちは、
 「だって、東大だろ? 官僚養成の牙城じゃねーか。官僚になりたがってるヤツらなんて、勝手にやってろ、だよ」
 あ~なるほど、「さすが、(在野の哲学者たちの)京都」と、思いました。
 学生の頃、ある出版社でアルバイトをしていて、その編集長とか編集部員と飲みに行く機会があった時に、こういう「思い出」を聞いたのでした。

 あの頃、京都府学連がトロが信じ込んでいたようなスターリニストだったら、何が何でも大量動員したでしょう。日共・民青の「あかつき部隊」という圧倒的な人数でトロを蹴散らしたでしょう。(トロが一番怖がったのは民青が動いたらヤバい、ということでした。「だって、あいつら、本気で来るから」と。)
 でも、京都府学連がノラリクラリで東大紛争の動員の呼びかけに非協力だったのは、今の京都の共産党の強さをうかがわせる伝統の一つのように思います。

 そんな頃、トロのボク達は、東大、早稲田、日大、それに駿河台、新宿駅が決戦場だと思い込んでいたのですから、まあ、カワイイというか、おめでたいバカどもでした。

 あ、ついでに、もう一言申し添えておきましょう。
 大学紛争に「敗北」して、ヤマギシ会になだれ込んだトロ諸君のことです。
 有機栽培の無農薬野菜の農業法人として野菜類を販売しているヤマギシ会ですが、彼らの生活というのは、私有財産を禁止して独自の共同社会をつくる、というものです。会に入りたい人は、自分の預貯金とか資産を全部、ヤマギシ会に供出して、私有財産のない「ユートピア」に受け入れてもらわなければなりません。
 インテリゲンチャ(知識人)を全部否定して、大衆の原像に依拠した結果、まるで原始共産主義のような私有財産否定に至ったヤマギシ会などは、あの、ポルポト時代のカンボジアのような姿です。
 吉本のようにインテリゲンチャという存在そのものを敵視するという立場であれば、ヤマギシ会とかポルポト体制にならざるを得ないでしょう。
 トロってホントに頭が悪いと思う事例の一つです。単純明快に、ユートピア主義に走った結果、加藤登紀子のダンナだった反帝学評(はんていがっぴょう、反帝国主義学生評議会)のトップだった藤本(故人)のように、革命などとは無縁な「余生」を送ることとなりました。有機農業の藤本さん、などという姿が、私にしてみれば、欺瞞もいいところだと、軽蔑の対象でしかなかったし、加藤登紀子も、だから、大嫌いでした。

 また、あたかもトロツキーのように永世革命の闘いを信じ込んだ連中の一部は、(日本の独占資本の総本山としての)丸の内=三菱村の爆破事件を起こした反日武装戦線・狼とか、毛沢東の長征をまねた連合赤軍事件とか、暴力的極左は、結局はセンセーショナルな反社会的集団となり、「アカ」はこわい、という印象を振りまいただけのテロリストに終わりました。(連合赤軍の逃亡中の「粛清」という名の仲間のリンチ殺人は、毛沢東の「長征」がモデルになっていると言われています。中国の内戦当時、毛沢東は延安までの「長征」というわざわざ遠回りな行程をたどるなかで、彼に批判的だとされた人物を次々に殺害したとされています。)パレスチナに逃げ込んだ重信房子の日本赤軍からはイスラエルのテルアビブ空港で無差別殺人を行なったテロリストも出ました。
 チュチェ(主体)思想の北朝鮮がユートピアだと思い込んだテロリストによるハイジャック事件(よど号事件)もありました。

 主体性を強調すればするほど利己的な分裂主義に陥らざるを得ない皮肉に気付くこともなく、階級闘争の本気の集団が組織的に拡大すればするほど官僚主義=スターリン主義だと罵ることしかできないトロツキストの末路は、アメリカでも、極反動だったブッシュ政権のネオ・コン(ネオ・コンサバティブ=新・保守)のブレーンにまで変節したように、ご都合主義のデタラメな迷走に突き進む惨めな無節操にはまり込むだけの話です。

 誰よりも頭の悪い「中核」、第二民青と揶揄されたマヌーバー集団の「革マル」、へっぴり腰の「第四インター」、ヤクザもどきの「青解(あおかい)」(社会党の社会主義青年同盟から分裂した社青同・解放派)、日和見ノンセクトのたまり場「ブント」などなど、トロツキストにはさまざまなセクトがありましたが、今では、どのセクトもその名を掲げて表舞台に立てる者はいなくなっています。みんな、恥ずべき過去として隠し続けなければならない惨状にあります。
 それでも「反・共産党」ということだけは一致していて、タダタダ、この一点でのみ意地を貫いている諸君です。「左翼小児病」と呼ばれた、思春期のような「オレが、オレが」の主体性論者たちです。どうやら『バカにつける薬』はなさそうだと、改めて思った次第です。
※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 吉本隆明氏。「よしもとたかあき」でしたが、学生だった頃から私たちは「よしもとりゅうめい」と言っていました。
 トロ(=トロツキスト)の思想的な拠り所の一人となった人で、そういう諸君に対しては批判的というか敵対的だった私などは、克服すべき対象の一人でした。
 “共同幻想”に象徴される吉本の思想は、実存主義的な主観的観念論の立場だったと思います。
 古くはルネ・デカルトの“コギト・エルゴ・スム”(我思う、ゆえに、我あり)のように、また、ニーチェ以降のドイツやフランスの哲学の潮流の一つとなった実存主義の“アンガージュマン”(投企=サルトルが使った用語)のように、この現実世界と自分自身との関わりは、自分の考えとか感覚に依拠しているのであって、生きていくには、自分自身の解釈だけが間違いない判断なのだ、という考え方です。

 無茶苦茶に個人主義というか、孤立主義の極みのような思想だと思っています。

 「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」という共感とか連帯感などというものは幻想にすぎない。個々人は、あくまでも孤立的なのだ、というのですから。
 だからこそ、強烈な自我の確立こそが必要なのであって、社会的な共同もまた、そういう強烈な自我を持った者同士の妥協や駆け引きによる見せかけの調和でしかありえない、ということになるわけです。

 共産主義者が拠り所としている考え方の一つは「ひとりの自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件となる社会」(『共産党宣言』、1848年)です。それを象徴する表現が「一人はみんなのために、みんなは一人のために」なのでもあります。
 お互いが支えあって生きるコンミューン(=共同)のもとで、個々人は、何の差別も抑圧もなく、伸び伸びと成長でき、それ自体が社会に利益をもたらす存在になり、お互いの成長を喜びあえる。そんな社会を実現したいと考えるのが共産主義者(=コミュニスト)です。

 なので、吉本の思想とか実存主義とかには、陰湿で絶望的な個人観念しかイメージすることはできませんでした。

 ところで、ではなぜ、トロの諸君がこういう主観的観念論に陥ったのかと言えば、彼らにとっては日本の共産党自体がスターリニズム(=スターリン主義)の集団であってトップ・ダウンの支配構造にある官僚主義、つまり、共産党が非民主的組織に見えたからでした。
 共産主義革命をめざすには共産党ではなく“主体的な”“強烈な自我”をもった集団でなければならない、と。

 ところが、圧倒的多数の共産党員は、このトロツキストの諸潮流に対して同調することはなく、青二才の跳ねっ返りであり、結果的に権力の側がほくそ笑む挑発集団になり下がった反革命勢力だと反発したのでした。
(たとえば、60年安保の時の「国会突入事件」が、安保反対を唱えるのが無法者であるかのような印象を振りまいたように。その後何十年たった今も、60年安保と言えば、マスコミは、全国各地の商店街に広がった安保反対ゼネスト=ゼネラル・ストライキの光景には触れようともせず、機動隊ともみ合う騒乱状態のセンセーショナルな映像しか紹介しません。)

 結果、吉本流の強烈な孤立主義=利己主義だったトロ諸君は、資本の競争の戦力に埋没していくこととなりました。なぜなら、彼らにとっては、もはや、プラグマティズム(=功利主義、実利主義)という“現実主義”にしか拠り所はなくなったのですから。
 そういえば、あのレナウンが日本一のアパレルだった頃、経営幹部の多くが「革マル」出身だったのは、一部では有名な話でもあります。

 ところで、日本の共産党がスターリン主義の影響を受けていたことがあるのは、事実として総括しています。それも、日本トロツキスト連盟が生まれる以前、六全協のころです。戦後の日本で、共産党の大きな危機だった頃で、ゲリラ戦による暴力革命をめざした勢力もいれば、民主革命をめざした勢力もいて、大きく揺れ動いた時期でした。朝鮮戦争をきっかけに、GHQによって非合法化された当時のことで、右往左往していろいろな分派が生まれた時期でした。それを総括したのが六全協(第6回全国協議会)で、これ以降、第7回党大会、第8回党大会に至る過程で党綱領・規約を全党討議にかけて練り上げて行ったのでした。
 存亡の危機を味わった結果、スターリン主義とも毛沢東主義とも決別する道を選ぶことになった。それが、日本の共産党です。

 つまり、トロ諸君が拠り所の一つにした吉本隆明の思想は、それが登場した頃には、スターリニズムとも毛沢東主義とも袂を分かっていた頃であり、『日本革命の展望』、『先進国革命の理論』など、独自の理論的成果も積み上げていた頃でもあって、共産主義者にとっては、魅力を感じない孤立主義にしか見えないものでもありました。
 そういえば、ちなみに「主体」思想というのもありました。読み方は「チュチェ」思想。あの北朝鮮の国定哲学です。吉本流の主体性論議は、こういう亜流も生みだした、そういうふうに思っています。

 近代以降の資本主義社会とは、個々人にとっては疎外社会であって、孤立化を深める過程にあるといえます。その孤独化の過程で、自我を強烈に主張することで生きて行こうとする孤立主義が善なのか、そういう社会にとって代わる革命を勝ち取って共同主義を実現していくのが善なのか、一人ひとりにとって善とはどういうことか、これからますます問われることと思います。
 うっかりしていると、起立、規律で支配したがるファシストにつけ込まれることとなります。

 ドイツのハイデガーが亡くなった時と同様、日本の吉本隆明が亡くなったことにも、だから、実は、感慨はありませんでした。一つの時代の終わりを象徴している、とは思いますが、わたし自身にとっては、冷めた事象でしかないのです。
※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 久しぶりに「今日の一曲」です。
 空気はまだ冬だけれど、日差しは春という日が増えてきました。今日もそんな朝です。
 「もうすぐだね」と、お互い、新たな春に思いをはせる日々だと思います。
 もうすぐ、桜の季節ですね。

早春賦




※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 我ながら駄作だとは思うのですが、これをきっかけに数多の替え歌が生まれてほしいと思っています。無理強いされる教員諸君が口パクの代わりに歌えるような歌が登場することを願っています。

「君が代」替え歌

君が代は、
千代に八千代に(=押し付けて何になる)
いわおと(=ひたすらに)
なりて(=卑屈を、)
さざれ(=求める)
石の(=ファシストの)
コケの(=暗黒を)
生すまで(=うむだけ)

※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 言いたいことは、山ほどありますが、取り急ぎ、今は、これだけ。

 今の日本のマスコミの異様な態度は、橋下ファシズムのもてはやしぶりにあると思っています。
 NHKをはじめとする電波媒体、読売、朝日をはじめとする新聞界など、しょせんは、日本の言論界、思想界の良心を反映するものなどではなく、「客観報道」の名のもとに橋下に追随・迎合するような態度に足並みをそろえています。こういう報道姿勢は、率直に言って、言論界、報道界の自殺行為だと言わざるをえません。

 さて、以下の記事について、いかに目立たない報道にとどまったか、よく覚えておきたいと思います。電波媒体に至っては、この声明について完全無視でした。

 ・大阪教育条例案で有識者反対声明 「意見押し付け」
 ・杉良太郎さん、高村薫さんらが反対声明 大阪の教育基本条例案
 ・竹下景子らが大阪の教育基本条例案に反対
 ・大阪の教育基本条例案、尾木ママら反対声明


 さて、ところで、ペテン師・橋下の実態とは、以下のようなものです。
 こんなヤカラに期待感などを表明するようなエセ言論人の名前もよく覚えておきたいと思います。

 ・連続黒字なのに、何故借金が増え続けるのか?大阪府財政のカラクリを考える
橋下知事が連続黒字を強調すれば強調するほど、自治体の財政を知るものからは、失笑がもれる。借金減らして黒字なら、万々歳だが、借金は増え続けているからだ。

 ・橋下氏はどんな実績を残したのか検証してみよう~(1)府の財政は黒字に?いいえ、赤字は過去最高に悪化
橋下氏が福祉や教育や社会保障を削減して市民にしわ寄せしながらもなお赤字を増大させてしまったのは無為無策、かつ大阪経済の地盤沈下に拍車をかける有害な政策しかとらなかったからです。


※ こちらもよろしく!! ⇒