kyottides的 喜怒哀楽 -10ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 日本の女子サッカーが教えてくれたことは「(欧米のように)体が強く大きくなくてもいいんだ、ということ」とアジアやアフリカ各地の女子チームにとって、大きな励ましとなっているようです。「あの弾丸のようなスピードで闘えば、欧米チームにも勝てると思うと、すごく勇気づけられました」とアフリカのあるコーチが語っていました。
 なでしこジャパンが、日本中に大きな反響を巻き起こして女子サッカーが一つのブームを巻き起こしていると思いますが、それだけではなくて、世界各地にも「私たちだって闘える」という影響を及ぼしていることが素晴らしいと思います。
 あの凄まじい闘いの中で、ウチマタ走りの子がいるなんて、普通、ありえませんが、彼女は なでしこジャパン のメインメンバーなのです。「ええっ、こういう選手もありなんだ」というのは、世界的に衝撃だっただろうと思います。常識を覆すほどのインパクト。それが なでしこジャパン でしょう。
 そんな なでしこジャパン に、オリンピックの金メダルを獲得させてあげたい。それは、非ヨーロッパ民族の人々の悲願でもあると思います。
※ こちらもよろしく!! ⇒ 


徹夜で遊んだ挙句、無免許運転で登校中の小学生の列に後ろから突っ込んだ事故。付添っていた妊婦さんも亡くなったそうです。警察は過失運転で逮捕したらしいけれど、危険運転致死傷として扱うべきだと思いました。事故というよりも事件として扱うべきだと。それにしても、あまりに痛ましい。
4/23 16:08

 京都の早朝の交通事故についてつぶやいたところ、一つの対話となりました。
 事故を起こしたのがまだ18歳という若さだったこともあって、教育論のような対話になりました。

 最初の投稿
徹夜で遊んだ挙句、無免許運転で登校中の小学生の列に後ろから突っ込んだ事故。付添っていた妊婦さんも亡くなったそうです。警察は過失運転で逮捕したらしいけれど、危険運転致死傷として扱うべきだと思いました。事故というよりも事件として扱うべきだと。それにしても、あまりに痛ましい。

 彼のレスポンス
本当に辛いものがありますね。しかし、似たようなケースが後を絶たない。もちろん、誰もやろうと思ってやってることじゃないんでしょうけど、それにしても…。

 わたし 八王子のバスの事件でもそう感じましたが、知育・体育・徳育とかいう日本の教育政策の結果がこれだと思っています。原体験としての「痛み」や「恐怖」を感じることがあまりに少なすぎると思います。それが、命に対する鈍感さにつながっているのだろうと思うのです。林間学校とかオリエンテーリングとか、自然の中に放り出されて命の重みを味わうことが必要なのではないでしょうか。

 彼 問題があるとすれば、知>体>徳という実態ではありませんか。というか、徳についてはほとんどなされていないでしょう。そこのところを考え直すべきだろうと、私は思っているのですが(ネコの写真のままで、キリッと言い切る)。

 わたし だって、徳育なんて、散々の批判を受けた中教審が言いわけに持ち出した程度の位置づけに過ぎませんから。だから「とかいう」と、言ったわけです。言いたいことは、日本の教育のせいでバカになってしまっても仕方ないけれど、命に対する感覚だけは共通感覚(=コモン・センス)にしてほしい、ということです。

 彼 なるほど。しかしコモンセンスを持ったバカ、という言い様もまた成り立つものかどうか。どうしたもんでしょうか。本当に。

 わたし 例えば、どの民族でも、昔の人々には、大人になる通過儀礼として恐怖とか困難をわざと味あわせる儀式があったと思います。「アホでもいいから人様に迷惑をかけないように」「乗り越えてこそ社会の一員」という強烈な体験を味あわせることでお互い生き物としての共通の感覚を身につけるキッカケがあったのではないか、せめて、そういう原点を思い起こすような体験が必要ではないかと思うわけです。

最後の私の返信が夜遅くになってからだったこともあって、対話はひとまずここまでです。この後、彼が何か語りかけてくれるかどうかは、まだ、分かりません。

 自民党の義家なんとか、という日教組敵視の国会議員など、日本の教育をダメにしたのが日教組であるかのような言い方をする諸君が保守政界には多くいますが、わたし自身は、日本の教育をダメにしたというのであれば、それは、文部省(現在の文部科学省)とそのバックボーンになった中教審(中央教育審議会)という権力側の政策そのものだったと思っています。
 ここで議論になった「徳育」にしても、文科省や保守勢力などは、本源的な命の大切さよりも「愛国心」教育にすり替えてしまうような下心をいつも潜ませてきました。「愛国心」などというものは、裏を返せば「非国民」を作りだす差別心の煽動にほかなりませんから、容認できません。
 いずれにしても、命について考えを深めたり感覚を研ぎ澄ます感受性こそが、人間疎外を深める資本主義体制に対するアンチテーゼとして大切なカギだと思っています。でないと「オマエの代わりなんか、ほかにいくらでもいるんだぞ」と脅され、使い捨てられる世の中が続くのではないでしょうか。
※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 すっかりご無沙汰のブログになってしまいました。

 正直なところ、一種の虚無感のようなものを感じ続けて、ブログに投稿したいという気持ちになれずに過ごしてきました。今の政治・経済の動向には、そういう気持ちにさせる、とても危うい空気が流れていると思います。(軍国主義台頭の直前、芥川龍之介が自殺してしまった時に感じていた澱んだ空気も、こういうことだったのかな、とさえ感じるほどです。)
 ただ、そうはいっても、川が流れるように、立ち止まることなく、日々刻々と世の中は変わり続けています。右往左往ばかりしているのもつまらない。と、ブルーな気分を払いのけて、人生を楽しく作っていきたいと思い直すことにしました。たぶん、誰にとってもそうだと思うのですが、自分自身の夢とか目標とか、「成し遂げたいこと」への思いを高く掲げることが、いま、大切なのだろうと思います。
 むかし、驚いたことがあったのは、70を過ぎたおばあちゃんがパイロットの免許を取ってセスナ機を操縦した、というニュースでした。歳をとってから飛行機を操縦したいと思ったそうで、人の何倍もの年月をかけて成し遂げた夢だったそうです。
 空を飛びたいなぁ、というのも、いいですよね。
 (また、米屋の婿さんだった伊能忠敬は、家業の勤めを終えて歳をとって隠居してから初めて、全国くまなく測量行脚に出かけて大業を成し遂げましたね。)

 そんなわけで、ブログ再開の今日は、パスポートを持って空港に行った時の、旅立ちのイメージが浮かぶこの曲から始めることにしました。(と言っても、歌詞では「私はあなたの愛の奴隷」と繰り返し歌いあげていて旅のイメージとは程遠い歌い方をされたものですが。)
 レイモン・ルフェーブルとかポール・モーリアなど、イージー・リスニングと呼ばれた楽団の曲は、何となくロマンチックな空想を膨らませてくれる雰囲気が漂っていました。和むというよりドラマチックな物語の主人公になったようなテンションも感じていました。世代の端境期を象徴するように、クラシック・オーケストラとポップス・バンドを混ぜ合わせたような楽器編成も独特のバランスを生んでいたと思います。
 ストリングス主体のこういう大人数の楽団は、たぶん、もう商業ベースでは成立しにくいのだろうと思います。それだけに、こういう生楽器の音を懐かしく感じたりします。
シバの女王La Reine De Saba
Raymond Lefèvre et son Grand Orchestre


Graciela Susana - La reine de Saba
グラシエラ・スサーナ


※ こちらもよろしく!! ⇒ 
 久しぶりに食事を作ってあげることになりました。メニューは簡単なものです。

「今夜、クリームシチュー作るから、食べに来る?」
「あ~、いいねぇ。でも、今夜はまだ人が来る予定だから・・・。」
「じゃあ、あしたにしようか」
「うん!」

ということで、夕飯をごちそうするのは明日になりました。

 だいたいの場合、ごちそうになる側なのですが、忙しそうな日が続いたときなど、たまに、作ってあげることがあります。最近はそんな様子だったので、作ってあげようかな、と思った次第。

「タマネギ、ある?」「うん」「ニンジンとかジャガイモは?」「あるよ。っていうか、材料はそろってるよ」
「牛乳入れる?」
「うん。シチューのルーの箱に、最後に牛乳入れなさいって書いてあるじゃん」
「あっそうなの? じゃ、おいしくできそうね」
「簡単なんだから、大丈夫だよ。あと、ブロッコリーの代わりにインゲンがあるし」
「いいね。色どり良さそう」

「じゃあ、あしたね」
「ありがとう」

 明日に延期になって、良かったかもしれません。
トイレ掃除も含めて念入りに掃除をする気になったし、
デザートも用意する気になったし、
コーヒー、エスプレッソ、紅茶のどれでも選べるように準備する気になったし、
ピアノももう少し練習しておこうって思ったし、
何だか、楽しみになりました。

 長く付き合っていると、お互いに高揚感というのも少なくなってきますが、たまに珍しいことを企画してみると、なんだかウキウキします。他愛もないことなんですけどね。

 なので、今夜は、総菜コーナーで買ってきたかき揚げで、かき揚げそば。
※ こちらもよろしく!! ⇒ 


>>ファンキーママちゃん
コメントありがとう。そうですね、「なう」のあとで、温野菜が頭に浮かびました。いろいろと試してみようかと思います。
4/4 6:37

この時間、まだ、上空ではゴーゴーと鳴り響く風が吹き荒れ、地上でも太い電線がユラユラと揺れています。
4/4 6:44

AIJ投資顧問の浅川社長。「だますつもりはなかった」と開き直っていますが、事実は「だました」ことに変わりはないでしょう。「つもり」の問題ではなく事実の問題として詐欺行為を追及すべきだと思うのですが、国会の質問ぶりは不甲斐ない。こんな詐欺師を黙らせるくらいの迫力が欲しいところです。
4/4 6:52

本日の投稿 ⇒ 多数決という名の全体主義(=ファシズム) http://ameblo.jp/florule/entry-11213626091.html
4/4 21:32

 「たとえ51対49であっても、多数決で決まったのだから」と、消費税増税の執行部方針をごり押ししようとしているのが民主党です。
 「(首長選挙で)圧勝したのだから」と、憲法違反の思想調査まで正当化しようとしているのが大阪維新の会です。

 子どもの頃、学級会の討論で、「決をとりたいと思います」の動議に押されて、少数意見が踏みにじられることに憤りを抑えきれなかったことがありました。担任の教師が割って入って「いま採決するっていうのは、どうだろう。もっと意見を言いたい人もいるんじゃないの?」と仕切り直しをして再び喧々諤々(けんけんがくがく)の意見のぶつけ合いの後、採決を採り直したら、さっきまでの多数派が少数派になってしまいました。でも、だからと言って遺恨を残すこともなく、少数派に転落した元の多数派の子たちも納得の表情でもありました。なんだかみんながスッキリした気分だったように思います。
 学芸会の演劇の主役を決める話だったか、クラスで飼っていたウサギの世話係の決め方だったか、何の話だったか覚えていませんが、クラス中の子が学級会に熱中して白熱したことだけを覚えています。

 あの頃に味わった「民主主義って、こういうことなんだろうな」という感覚とはかけ離れた事態が今の民主党、維新の会の風潮にはびこっていることを感じます。

 決まったことは決まったことだ、と多数決を錦の御旗に見立てて批判的意見を圧殺することが、果たして、民主的と言えるのだろうか。議論を尽くすことで多くの人が気付かなかった問題を浮き彫りにするなど、よりよい結論を導き出すことが民主主義の本義ではないのか、そんなふうに思うわけです。

 いつの選挙だったか忘れましたが、自民党の幹部だった人物が(小選挙区制導入後に負け続けている共産党について)「民主主義にとっては必要な批判勢力だと思っているだけに残念だ」とコメントしたことがありました。自民党にはハト派もタカ派もいますが、この人の場合は、ハト派の典型的な発言だと印象的でした。共産党を封じ込める国会では大政翼賛会になりかねない、という危惧を表わしていたと思います。

 ファシズムというのは、はじめから恐怖政治をもたらした集団ではありません。最初は「国民世論」に答えるものとして登場することで支持を広げています。
 ユダヤ人によって富を蝕(むしば)まれたドイツを改革してゲルマン民族の誇りを取り戻そう、というキャンペーンで支持を集めたのがナチスでした。
 「満蒙は日本の生命線。大和民族の力で満蒙を“解放”しよう」と煽動したのが大日本帝国の軍隊でした。

 そうした「分厚い中間層」に受けそうな“夢”を振りまく一方で、弱者は徹底的に抑圧してスラム化させていったのもまた、ナチスであり大日本帝国軍隊でした。そうした悲惨な犠牲は覆い隠したことで、「中間層」の人々は権力への支持、依存を強めて行ったのでもありました。(売り上げトップだった『毎日新聞』をはじめ、その時代のマスコミもまた、権力に同調して、真実を覆い隠した点で同罪です。)
 戦争末期には、防空訓練の茶番ぶりをあざけった論説を書いた『信濃毎日新聞』の桐生悠々が在郷軍人会(兵隊のOBとなった高齢者たち)の“世論”の圧力で同社を追放された事件などのように、“世論”そのものが軍国主義に染まっていました。

 多数決で決まったのだから、と、一切合財(いっさいがっさい)、権力の側がごり押しすることが重なれば、一つはファシズムへの道を、もうひとつはフラストレーションがたまった人々の反乱という動乱の道をたどることになるでしょう。いずれにしても、権力が荒っぽくなれば、人民の反応もまた、それに応じて荒っぽくなることは避けられないだろうと思います。

 さて、わたしは、といえば、あの子どもの頃に味わったような民主的な空気を懐かしむ思いの日々です。
※ こちらもよろしく!! ⇒