富山という街はちょっと変わっている。
たぶん地元の人は、氣づいていないと思うけど、
かなり独特な文化や気質を持っている街だ。
お父さんも仕事の関係で、各地を回って
いろいろな人と文化に触れてきたが、
富山という場所に住みはじめて、
他の場所とは全く違う価値観があることに
驚いた。
まず、この頃(今から12~13年前になるが)
なぜか街でロカビリーが流行っていた。
そして「ハッスルバー!?」という看板があちらこちらで
見られた。
地元の人にきくと「えっ? ハッスルバー知らないが?」
と驚かれた記憶がある。
いわゆる「お姉ちゃんが、ハッスルするバー」である。
今もあるのだろうか?
また、お隣の石川県、特に金沢の人間に
かなり露骨な対抗意識を持っている人がいた。
これは、石川県人の方にも、同じような
対抗意識があったようで、
金沢に車で遊びに行くと、富山ナンバーの車は
合流の際に隣の車線に入れてもらえなかった
ことが、よくあった。
あと、持ち家率が日本一。
パチンコ屋の大きさが日本一。
そして、地元をこよなく愛する人の数も
たぶん日本一なのでは?
と思うほど地元びいきの人が多かった。
かなり頭の良い人が多い地域でもあり、
「大学を出て就職したら、車を買って
結婚して、家を建てる。」
という同じような夢を持つ若者が多かった。
あまり、東京などの大都市へ行って、
「一旗揚げてやる!」っていう感じの人には
お目にかかれなかった。
お父さんは、村田製作所というケータイ電話の部品を
作る工場で1年半働いていた。
ずっと夜勤だったので、あまり昼間に
出歩くことはなかったけど、地元の人の話を
夜な夜な聞くことができたので、
このミステリアスな土地の
魅力をいっぱい知ることができた。
お父さんは、東京を出る時に
「もうパチンコはしない!」
という宣言をしており、
なんとかその意志を守ることが
できたため、富山でパチンコを
することはなかった。
周りの仕事仲間が
富山の大きなパチンコ屋に
中毒のようにハマっていた。
これが理由で、富山に何年もの間
住み着き、地元に帰れない人も
山のようにいたようだ。
お父さんが、この富山に行った理由は
2つある。
1つ目は、「パチンコ中毒」になっていた自分を
見知らぬ土地でリセットすること。
20代最後の歳を迎えていたので、
これが最高のタイミングだった。
もう1つの理由は、お金を貯めること。
30歳までに「飛行機のパイロットになる」
という夢を実現するため、留学資金が
必要だったからだ。
20歳の時に見つけたアメリカ航空留学という
選択肢をどうしても忘れられなかった。
この航空留学というハードルを越える為には、
どうしても住み慣れた東京を離れる必要があった。
というよりも、直感が「今しかない!」
「パイロットにならないと一生後悔する!」
と言っていた。
富山に着いた当時は、借金が60万円ほどあった。
コレをまず半年で完済した。
それから1年間、毎日夜勤で12時間労働を続けた。
休みも出勤できる日は、欠かさず出勤した。
月に4日程しか休みは取っていなかったと思う。
3食の食事全てを自炊し、毎日弁当も作った。
食事の他にも生活費を切り詰め、毎月5万円で生活した。
残りの収入を全て貯金にまわし、1年半が過ぎる頃
300万円残すことができていた。
月5万円生活だったが、毎週休みの前の夜勤明けには
プールに通い、毎週5~7本の映画をレンタルビデオで借り、
月に一回は、美味しい物を食べ、金沢のシネコンで映画を観た。
あと、この短期間で貯金を残すことに成功した要因の1つに
持続的な楽しみを作ったことがある。
パチンコを止めて、退屈しないようにお父さんは、
生まれて始めてゲーム機を購入した。
プレイステーションを買ったことで、楽しみができた。
仕事から帰宅してから、毎日寝る前に少しだけゲームを
して寝る習慣ができた。
また、航空留学の筆記試験用の問題集を
1年前から取り寄せて毎日少しずつ
やり続けた。
これで、少しずつ夢に近づいているという実感を
持続的に保つことができたと思う。
村田製作所に出向していた
派遣会社を退職し、
富山から実家に向かう電車の中、
何とも言えない充実感に包まれたのを
今でも忘れることができない。
そこには、今まで味わったことが
ないほど爽快な「やった感」があった。
1)「目の前にある魅力的なことを自分が一番やりたいことをやるために
我慢すること。」
2)「一番やりたいことに近づいているという
実感を日々味わうこと。」
しょうえい、
この2つを同時にやり続けることこそ、
夢を自分に引きつけるコツなんだよ。