ワニは無償の愛を捧げたタコを食べてしまった。昼はタコが餌を与えてくれ、夜はそのタコの足を1本ずつ食べる。自分の足は12本あると自慢していたタコは12日後、最後に残った体をも飲み込まれた。
良心の呵責に苛まれながら、しかし欲望には勝てなかったワニ。何ておいしいのだと涙する。気づかぬうちに足がなくなり動けなくなったタコは、初めてワニに餌をとってきてもらい、幸せな気持ちだった。そしてまた気づかぬうちに、消えることになる。勧善懲悪の逆をいくようでその実、2匹の感情はそのまた逆だったように思う。レオポルド・ショヴォーの原作をアニメーション化し、シンプルなモノクロームと無垢な眼差しが皮肉を際出させた。
山村浩二が選んだショート・アニメ7本はどれも秀逸で、その作品はもとより、アニメーターの出身地もイスラエル、インド、エストニアなどバリエーションに富んでいる。地球の生物進化をビーズで描いた「ビーズ・ゲーム」は、殺すことや食すことに焦点を当て、さながら小宇宙だった。「アリの冒険」は露出を絞ったような映像を見せる。風に吹き飛ばされたアリが家に帰るまで、途中で挿入される陽の落ち加減が抑揚をつけた。猫のようなキャラクターが主人公の「おとぎ話」。そのキャラの頭が悪い様子は万国共通の笑いを提供し、後半からは一転してリズミカルでシュールなストーリーが展開される。
アニメを劇場で見るなんていつ以来だろうか。想像力を揺さぶるのにこれほど有益なものはないと、素晴らしい足がかりだった。
縁故があってチケットを手に入れた。急きょ今季初めての中日戦観戦になり、そういえば僕が見に行って勝った試合はしばらくなかったなと、悪い予感がする。一塁側のため、おとなしくしようと思っていた。
一進一退の攻防で、昔YoYo
はヤクルトファンだったらしく、喜ぶポイントが間逆。斜め前に座っていた中年男性は人の良さそうな顔をしていたが熱狂的のようで、拍手の音が高らかだった。徐々にビートアップして僕も前面に出す。8回の集中打にはボルテージが最高潮に達し、それとは対照的にその男性とYoYoは静かになっていった。球場で歌う“燃えよドラゴンズ”はやはり格別だ。
試合後も余韻に浸って神宮に残っていると、外苑前の駅はメガホンやら傘やらを持った人でごった返していた。時間つぶしがてらカフェに入ろうと思い、246号を渋谷方面に歩いた。しかし時間的にどこも開いていない。そうこうしているうちに表参道に着いて、渋谷まで1駅なら歩いてしまえということになった。前を行くカップルはこの遅い時刻に乳母車を引いて、男性のほうは背中に“WOODS”と記された背番号44のTシャツを着ていて親近感が湧く。「タイロン」と叫ぶと彼は振り向いて、互いに手を振った。嬉しくなってこの喜びをYoYoに伝えようと彼女のほうを向いた。距離を置いて他人の振りをしている。
予想をしたがるのは当たった時に「ほら見ろ、どうだ」としたり顔をしたいから。当たらなければなかったことにする。今年も夏の高校野球予想。
青森山田・東洋大姫路・帝京・香川西
大阪桐蔭・関西・智弁和歌山・愛工大名電
ベスト8に昨夏優勝の駒大苫小牧、昨春優勝の横浜を外して勝負師気取り。どんなスポーツでも連覇は困難極まりないと思っている。ウラム、中田、ダース、堂上を見る機会が欲しい。
大阪桐蔭・関西・智弁和歌山
絞った3校のうち、大阪桐蔭と関西は昨夏の予想
とかぶった。僕のしつこい性格が垣間見える。大阪桐蔭は初戦で横浜と戦い、同じブロックには世間の風が吹いている早稲田実や、大物食いで益荒雄現象の清峰が控え、好ゲームが期待できる。
フランス人のアンリはイギリスの水道局で働いていたが突然解雇された。異国の地で家族はいない。人付き合いが苦手で友人もいない。彼は自殺をはかった。
アキ・カウリスマキが母国を離れ、ジャン・ピエール・レオを主演に迎えて撮った作品。トリュフォーの「大人は判ってくれない」以来ということはそれから30年後のレオで、言われなければ気づくわけもなく、男前だが不器用なアンリをおそらく弟リスマキの注文通りに演じて、乾いたおかしみが冴え渡った。
セリフと間が真骨頂といえるだろうか。死にきれないアンリが自分を殺してもらうため殺し屋の巣窟であるバーに行き、そこにいた殺し屋との会話。どうでもいいが、アンリと友人の契りを交わした殺し屋2人がそれぞれ嶋田久作と手塚とおるに似ていた。飲めない彼が最後の晩餐とばかりに酒をあおり、その勢いで不器用に口説いたバラ売りのマーガレットとのやり取り。デリカシーがないことと誠実であることは似ている。
望んだ最期を間近に迎えてアンリはそこで初めて生きる喜びを知り、殺し屋を雇ったことを翻意した。しかし律儀なコントラクト・キラーが彼に忍びよる。このキラーの人物像もアンリやマーガレット同様に作り手の愛を感じる描写で、慈悲に溢れていた。死を否定せず、人間を肯定する。
固定されていると思ったらカメラはゆっくりと動き、冒頭の1カットは悠然と海に面した大地を舐めて、老人と子供、その老人に手紙を届ける郵便配達人を捉えた。老人アレクサンデルは1本の枯れ木を植えて、ある寓話を子供に唱える。口が聞けないその子供に水を毎日やれと促した。郵便夫のオットーは神を信じ、無神論者のアレクサンデルと議論を交わした。崇高のようでしかし無邪気な子供のほうが達観しているかの如く、長いカットは続く。
家族と友人が集まり、アレクサンデルの誕生日は穏やかだった。しかし、空に轟音が鳴り響いて、テレビから核戦争のニュースが流れると、画面は単色に変わり不穏になる。彼の妻アデライデは尋常でなく取り乱した。さながら白痴。アレクサンデルは全てを犠牲にするからと神に助けを請う。オットーもまた狂気に満ちた言葉を吐いた。
アレクサンデルの懺悔は自らのみが助かるためのエゴのように聞こえたが、そうではなかった。眠りから覚めて彼がとった行動は常軌を逸し、今まで見させられたものは夢か幻か、はたまた忠実なる奉公か。締めくくりに記されたアンドレイ・タルコフスキー監督の「この映画を親愛なる息子に捧ぐ」という言葉がなおさら怖い。
異文化を知ることは楽しい。人はもちろん、歴史と風俗と衣食住。大きさからいえば建造物など特に顕著で心躍る。各地の家々はその地域ごとではなく土、石、草木、水にコテゴライズされて紹介される。想像を超えた創造があった。
カラー写真は美しいのだが、やはりカメラが主のせいなのか、文が拙い。自分や家族の自慢話に近い逸話は興味をそそらない。それは僕自身も肝に銘じなければと、胸が痛むところでもある。
- 小松 義夫
- 世界の不思議な家を訪ねて

