布団に足を入れようとしたのか、布団から体を出そうとしたのか、どちらの動作の途中かは忘れたが、毛布にホチキスの芯が落ちているのを視認した。それをつまんでゴミ箱へ捨てた。布団に目を移すと芯はまだある。捨てても捨てても芯がみつかる。毛布を持ち上げてはたいた。チリンチリンと音を立てて床にホチキスの芯が落ちた。こんな布団では良い眠りにつけやしないと、そう思ったがそれは夢だった。
詩人が自作の詩と谷川俊太郎の詩を咀嚼して読むというイベントへ。本人も登場ということで楽しみにしていた。幼少の頃、彼の講演会へブンレツさんに連れられて行ったことがあり、何を喋っていたかは全く覚えていないが、僕にとって20余年ぶりの生・谷川俊太郎である。老けたと思う反面、昔からこんなだったような気もした。大きい頭の中で今、どんな言葉を紡いでいるのだろうとか、この状況をどう解釈しているのだろうとか、そういうことを考えながら彼を見ていた。詩集をいくつか持っていたが、どれも思い出せない。
ジャンベを始めた当初、夢の中では体が思うように動かせずうまく叩けなかった。もどかしさを感じて寝覚めが悪かった。最近では逆に普段よりなめらかに演奏する夢を見る。

現実ではありえないほど流暢に、的確な言葉を連ねる自分という夢を何度も見た。喋るという動作に近づいてきたか。

歩いても歩いても(是枝裕和)
トウキョウソナタ(黒沢清)
イントゥ・ザ・ワイルド(ショーン・ペン)
たそがれ(いまおかしんじ)
悪夢探偵2(塚本晋也)
接吻(万田邦敏)
ノーカントリー(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
闇の子供たち(阪本順治)
ぐるりのこと(橋口亮輔)
休暇(門井肇)
不知火検校(森一生)テレビにて
この窓は君のもの(古厩智之)テレビにて

毎年、監督の顔ぶれが代わり映えしない。偏見もあるのだろう。黒沢清やいまおかしんじは、新作があれば僕の中で常にランクインするのであろう。「接吻」「休暇」は掘り出し物だった。設定の妙である。人間と死刑に対する角度が興味深い。「悪夢探偵2」は前作をしのぐ。「トウキョウソナタ」にもいえることだが、日常に潜む恐怖というより日常そのものが恐怖のような、ある種の性悪説に僕は共感したのかもしらん。全くもって過不足がない「イントゥ・ザ・ワイルド」、いつものごとく完成度の高い「ノーカントリー」以外の洋画が今年は響かなかった。そして1番は「歩いても歩いても」。1泊2日、実家、家族というミニマリズムに、皆が善人ではなくそれでいて皆が優しいという人間像が丹念に描かれていた。映画を見続けようと思ったのだった。

炊き出しがおこなわれている公園で路上ライブをやると、ジャンベ繋がりの友人から聞いてそれに参加。1度も音合わせをせず、ぶっつけ本番でやるのは不安だった。そして的中する。

厳しい状況下に置かれている人たちの野次は辛らつで、それでも良いパフォーマンスを見せられたなら前を向いて披露できたが、あまりに荒削りな演奏では顔を見られない。音源に合わせてダンサーが踊り、ジャンベやドゥンドゥンはその既成の曲にリズムをつける。しかしスピーカーからの音が小さすぎて聞き取れず、寄せ集めの我々は如何ともしがたいアンサンブルを見せることになった。もし次回、機会があればもっと良い音を出したい。

寒空の中、列をなす人々は僕にとってひとごとではなく、自分を重ね合わした。将来は、それは明るいといえない。最後に僕も炊き出しをごちそうになった。箸を持つ手に冷たい風が刺さる。暖かい飯はそれでも即効性があった。

屋形船に乗ったのは5年ぶりだった。新木場を出発し、レインボーブリッジをくぐり、お台場でユーターンする。その間、友人たちとお好み焼きをつついた。隣の団体客が大声で騒いでいるのをうるさく感じたが、仲間の一人がその中に加わってしまったため文句をいえず、輪に取り込まれた。結局どんちゃん騒ぎに。