言った人。困った人。見ていた人。
同じ会議室にいた三人。同じ数字を、それぞれの席から見ています。
数字が、合わなかった。
同じ事業が、二回入っていた。
同じ名前、同じ金額。
何度見ても同じだった。
ミナは手を挙げて、それを読み上げた。
誰も、違うとは言わなかった。
そのかわり、部屋の空気が、すこし止まった。
そのときミナが思ったのは、「やった」でも「まずい」でもなかった。
ひとりだけ、違う部屋にいるみたいだ、ということだった。
正しいことを言ったのに、なぜか、自分のほうが浮いていた。
次の週から、数字の話をする人はいなくなった。
かわりに、こういう声が耳に入った。
「細かいよね」
「もう少し言い方があるでしょう」
ミナは、傷ついたというより、恥ずかしかった。
自分が正しいと思っていたのに、周りが見ていたのは、自分の言い方のほうだったからだ。
家で何度も思い返した。
もっと柔らかく言えばよかった。
最初に「すみませんが」と付ければよかった。
数字は、一度も間違っていなかったのに。
そのころから、仕事が増えた。断る理由のないものばかりだった。
夜中に資料に向かいながら、ミナはよく、自分の手が遅いのだと思った。
前はもっとできた。
歳かな、と思った。
追いつかないのが自分のせいではないとは、思いつきもしなかった。
四か月目の夜、三行だけ書いて出した。語尾がきつかった。
出した瞬間は、気持ちがよかった。ずっと言えなかったことを、やっと言った気がした。
朝、目が覚めた瞬間に胃が重かった。見に行く前から分かっていた。
その三行だけが、回っていた。
ミナは言い返さなかった。
実際、きつかったからだ。
書いたのは自分だ。
だから、悪いのは自分だ。
そう思ったとき、ふっと楽になった。
自分が悪いと決めてしまうと、考えなくてよくなる。
相手を疑わなくてよくなる。疑うのは疲れるからだ。
楽になったぶん、ミナは少し譲った。
譲ったことには、気づかなかった。
三年たって、ミナは静かになった。
辞めた日、誰も止めなかった。
止められなかったのではない。
辞めたことに、あまり気づかれなかった。
タカハシは、あの日のことを覚えている。
ミナが数字を読み上げたとき、最初に思ったのは「本当かな」ではなかった。
「面倒なことになった」
だった。
その資料は三つの課をまたいでいた。
直すなら全部に確認を取り直す。
今週は無理だ。来週も埋まっている。
数字が合っているかどうかは、そのとき頭に入ってこなかった。
無視したのではない。
別のことでいっぱいだった。
会議のあと、同期に言われた。
「言い方きつかったよね」
タカハシは、うん、と言った。
言った瞬間、少し楽になった。
数字の話をすると、資料を直す話になる。
言い方の話をすれば、そこで終わる。
嘘はついていない。
実際、きつく聞こえた。
本当のことだけを言って、話題を変えた。
そのとき、自分が何をしたのかは分かっていなかった。
仕事を回すようになった。
嫌がらせのつもりはなかった。
あの人は速い。
細かいところも見る。
だから頼んだ。
急ぐものをできる人に回すのは、普通のことだ。
ミナの顔色が悪くなっていくのは見ていた。
見ていたが、自分のせいだとは思わなかった。
自分は一件ずつ頼んでいる。全部でどれくらいになっているかは、頼んだ側からは見えない。
見えないというより、数えていなかった。
その上に、ヤマグチがいた。
ヤマグチは、一度も指示を出していない。
言ったのはこういうことだ。
「丁寧に対応しておいて」
「急ぎは優先度を上げて」
「説明はしっかりね」
全部まともな指示だ。
文字にして残っても困らない。
困らないように言っている自覚は、ある。
ただ、それも仕事のうちだと思っている。
一度だけ、タカハシがヤマグチに言ったことがある。
「あの人、だいぶ参ってるみたいです」
ヤマグチは、そうか、と言った。
それだけだった。
止めることはできた。
止めなかった。
悪意ではない。
止めると、こちらの負けになるからだ。
ここで折れれば、次も同じことが起きる。
次に来る人は、もっと強く来る。
そう考えたのは、事実だ。
そのとき、ミナのことは頭になかった。
頭にあったのは、次に来る人のことだった。
ヤマグチには、守るものがあった。
事業がある。業者がいる。
そこで食べている人がいる。
一つの数字の話で止まれば、何人か仕事を失う。
だからヤマグチは、自分が守る側だと思っている。
言い訳ではない。
実際に人はいる。
本当だから、強い。
ミナが静かになった年、ヤマグチは何も感じなかった。
勝ったとも思わなかった。
終わったとすら思わなかった。
案件が一つ落ち着いただけだ。
次の年、別の人が同じ数字を見つけた。
ヤマグチはまた同じことを言った。
「丁寧に対応しておいて」
アイは、あの会議室にいた。
ミナが数字を読み上げたとき、アイは資料を見た。
合っていた。
同じ事業が二回入っている。すぐ分かった。
アイは、口を開かなかった。
なぜ開かなかったのか、あとで考えたことがある。
反対だったからではない。
次に浮くのが自分になるからだ。
あのとき部屋の空気が止まったのを、アイも感じていた。
感じたからこそ、動けなかった。
いま自分が「合ってると思います」と言えば、二人目になる。
二人目は、一人目の次に細かい人になる。
一秒だった。
一秒黙ったら、もう言えなくなった。
その次の週、誰かが言った。
「細かいよね」
アイは、笑った。
否定はしなかった。
同意もしなかった。
ただ、笑った。
それがいちばん安全だった。
そのあと、アイは自分に理由を作った。
言い方はたしかにきつかった。
あれでは伝わらない。伝え方も実力のうちだ。
どっちもどっちだ、とも思った。
理由は、あとから作った。
作ったものだとは思っていなかった。
先に黙って、あとで理屈がついた。
ミナの顔色が悪くなっていくのは、アイも見ていた。
一度、声をかけようとした。
給湯室で二人になったときだ。
「あの、大丈夫ですか」
まで、頭の中で作った。
言わなかった。
言えば、味方だと思われる。
味方だと思われたら、こちらにも来る。
そのころには、来ることが分かっていた。
ミナが夜中の三行を出した朝、アイは、少しほっとした。
ほっとした自分に驚いた。
なぜほっとしたのか、しばらく分からなかった。
あとで分かった。
あれで、自分が黙っていた理由ができたからだ。
やっぱりあの人は感情的だった。
だから自分は間違っていなかった。
そう思えた瞬間の楽さは、はっきり覚えている。
三年後、ミナが辞めた。
アイは何もしなかった。
何もしていないので、何も起きなかった。
いまも同じ職場にいる。
ときどき、あの資料のことを思い出す。
あの数字、直ったんだろうか。
調べれば分かる。
調べたことはない。
この話には、四人目がいます。
読んでいる人です。

