石丸新党、都議選で全滅 | ライネライト ~ 光の道を追いかけて

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こんにちは、松村です。
 
 
前回都知事選で高い評価を得た彼、石丸伸二のおごりの上から挑んでみた選挙スタイル。



はじめに前書きです。
私は少々怠惰であるため、ある程度で満足してしまう。
それもあって、究極的な満足を求めず、そこそこであることを満足してきた。
これまであまり本音を話さなかった。
これがこれまでの私の事実。

さて、本文になります。
石丸伸二という男──勝者に見える敗者、その背中に託されたもの
元・安芸高田市長の石丸伸二は、圧倒的な弁舌と論理力を持つ人物である。
公然と理不尽を斬り、強烈な言葉で相手を圧倒するその姿勢に、多くの人々が惹きつけられてきた。
確かに彼の施策には優れたものもあり、いくつかは実際に成果を上げた。
だが彼は、あらゆる相手を倒せたわけではなく、市長職を辞するに至った。

彼は論破の天才であり、批判の構築には長けているが、対案を示す力や、共感を生む“物語”を描く力には限界があった。
都知事選では予想を覆し、得票率2位となるが、石丸新党として出馬させた約40名の候補者たちは全員落選。
しかも今回、政党として明確な公約すら掲げなかった。

石丸氏は、理不尽なメディア操作にも深く辟易していた。
ローカルな広島、安芸高田市という閉鎖的な情報環境のなかで、
既得権と癒着した地方メディアの操作構造に挑んだが、そこでの“全体構造”には勝利できなかった。
彼は、局地戦では勝てても、「構造そのもの」や「空気」といった見えないものに対しては、孤軍奮闘のまま敗北した。

石丸氏は自分を中心とした強力な“個別部隊”では勝った。
しかし、四方八方から襲いかかる集団の論理、多勢に無勢の構造の中では、
味方を育てられず、駒を増やせず、森を見ないまま“木”と戦い続けた。

つまり、彼は「木と戦っただけの勝者」であり、「森と戦わなかった敗者」でもある。
だが、大衆は彼を“勝者”として見る。
筋を通した姿、理不尽に屈しない態度、まっすぐな弁舌に、自分の姿を重ねる。
勝てなかったことさえ、「理想を貫いた証」として美化されてしまう。

石丸氏自身に、自分を壊す、爆発させる覚悟はまだないのかもしれない。
本音をさらけ出すことを恐れている。
強すぎるがゆえに、自分を抑え、差し控え、孤独のまま理を語り続けているようにも見える。
彼の演説には確かに夢や希望がある。
だが、人々が本当に渇望している「共感できる未来」や「温度を持ったゴール」が欠けている。
そこに彼の限界がある。

それでも、石丸伸二の中には、自分でもはっきりと理解している痛みがある。
圧倒的な個の力を持ちながら、なぜ社会が変わらないのかという苛立ち、不甲斐なさ、
そのやるせなさが、彼の中に重く積み重なっている。
あまりにも構造は大きく、抗いようのない壁を前に、彼は今、自分の力では届かない地点に来てしまったと感じているのかもしれない。

そのようななかで、彼は自身のYouTubeチャンネルを癒しの場としている。
それは政治家としての武器ではなく、“人間・石丸信治”が地上に少しずつ降りてくるための、小さな休憩の座席。
もし彼がそこから本音を語り、自身の痛みや未熟さまでも開示できたとき、彼の言葉は、かつての鋭利な刃から、人を照らし癒す灯火へと変化するだろう。

そして、私は気づいた。
なぜ自分が彼を好きになったのか。
なぜここまで彼にこだわり、厳しくも真剣に見つめてきたのか。

それは、私自身もまた、彼と同じだからだ。

私は戦わず、高いところから社会や構造を眺め、絶望し、諦め、地上に降りてこなかった。
私もまた、自覚のない“浮いた存在”だったのだ。
だからこそ彼に共鳴し、彼のやるせなさが他人事とは思えなかったのだ。

この気づきも、私が、そこから歩き出す準備となった。
私は意思と言葉をもって、私の在り方として、光を灯す。

石丸伸二という存在は、私にとって、痛みを抱えながら生きる、もう一人の私の存在だ。
 
 
 
 
 
 
 
芦屋の癒し人