以前からずっと大樹が『ちづが遭った事故の現場に行きたい』と言っていて、

ずっと足が重たかったけど、今日ふと思い立って、私から行こうと言った。


午後、汰緯くんと3人で車に乗って、JR福知山線の事故現場へ向かった。

これまで慰霊式は毎年行くように決めていたけど
(それでも行けない年もあった)

事故現場はまだ数度しか足を運んでいない。



私にとってあの場所は、あの日のあの時間に
起きたこと全てがあり続ける場所で

あの時感じた全て、感覚の全てが、自分の中にまた蘇る場所。

そこに立つ時は、今そこに立っていることの方が、奇妙に感じることもあった。



今日は、事故のあった日ではないから、ほとんど人もいなくて

大樹と一緒に、私はどこにいてどんな景色を見ていたか

どんな風だったか、記憶と場所と見えた景色を一致させながら

かなり長い時間そこにいた。

汰緯くんは、無邪気に石を集めたり
警備の方に手を振ったりして、走り回っていた。



私はね、
あのとき何とも言えない異臭と
ギュルルルルーって機械が唸るような音を
感じながら

電車の一部と人に強く挟まっていて、全く身動きが取れなかったの。


頭がぶらんと宙にぶら下がっていて
そこから青い空を見ていた。

空はこんなに青いのに、
私はまだしっかりと生きているのに

このまま誰にも見つけてもらえなかったら
確実に死んでしまう。

今、私はこんなにも生きているのに。

その時、強く思った。

『生きたい』って。

自分でもびっくりするくらい、強く思った。


私、何となく毎日を生きていた
だけだったけど、

実はこんなにも強く生きたかったんだ。

こんなことになって初めてそんな
大事なことに気付かされた。



その4年後、リハビリの効果もあって
身体はメキメキとよくなっていて、
もう、スタスタ歩けるようにもなっていたのに

突如、うつ病とPTSDが覆いかぶさるように
やってきて
生きる意味を完全に見失っていた。


こんなに死にたい、今すぐ消えたいって
思っているくせに

ゼーゼー言いながらも両手を床につけて、
必死で息をしている自分が恨めしかった。

家族にだけは、声に出して言ったらダメ!

そう思いながらも、苦しくて苦しくて
気づいたら反吐を吐き出すように
蚊の鳴くような声で母に言っていた。


私、本当は死にたい。


母が涙するのを見て、自分だけ少し
楽になった。


家族はみんな、

『ちづこちゃんは今、病気だからね。
病気がそう思わせてるんだよ。
病気なんだから必ず治る。
そしたらまたエネルギーが湧いてきて、
きっとまた笑える日がくるから。』

そんな風に言ってくれたけど、
そうじゃないって、首を振っていた。


私はもう出口のない真っ暗闇に
入り込んでしまった。

もう、絶対に出られない。

一生、暗闇の中で息だけをして
時が過ぎるのをじっと待つしかない。

だったら、次の瞬間私がすっと
消えてなくなったら

どれだけいいだろう。


皆の記憶からもすっとなくなるだけだから

誰のことも悲しませずに済む。

そんな事を、本気で考えていた。



3年前にも事故現場に足を運んだ。

その頃は酷いうつ病の時期からは
抜け出していて

ある程度は元気に暮らしていたけど、
まだ何か抜け切らない、

生きる意味は見当たらない。
でもこんなものなのかな。

そんな風に思いながら、
胸は苦しくないけれど
何の意志もなくただ毎日を生きていた。


数年前の自分よりは随分よくなった。
うつ病が再発していないだけまし。
これくらいがちょうどよいって
精神科の先生も言っていた。


事故現場の前で目を瞑った。

私のそばで苦しみながら死んでいった
青年を思って、声をかけた。


『ごめんね。私、まだこんなだけど、
ちゃんと生きるから、見ててね。』

うつ病も治っていたのに、胸を張って生きていると言えない後ろめたさから、

彼につい謝ってしまった。



そして、今日。

事故の日と同じような晴天で

またあの日のあの場所に自分がいた。

『生きたい』

あの時、強く願った想いが
自分の中に蘇った。


そう、あれほどにも強く生きたいと
私の魂が叫んでいた。

生き残る事に必死だった。


どうしてあれほどにも強くそう願ったのか
あの時の私には分からなかったけど

今なら、わかる。


あの時の私は、すでに13年後の今

私が大樹と汰緯くんと共に
またここへ帰ってくる事を
知っていたんだ。


だから、どうしてもあの時死んではいけなかった。

その後、とれだけ苦しい日々があっても

どれだけ生きる事を諦めたと思っていたとしても

生き続けなければいけなかった。


帰り道、同じ2両目で負傷された小椋さんの
詳細な事故の記録を小椋さんのブログから
見つけ出し、

大樹が読み上げてくれた。


怖さから、知りたいと思う一方で半分知りたくなくて、

事故に関する記事や写真は横目で見るのみだったけど、

大樹の読み上げる小椋さんの文章から
事故の様子を初めてきちんと受け止めることができた。


あの日、私と同じように生き残った中には、4歳の子供とその母親がいたこと。

子供は血も被っておらず、無傷のようだったこと。

電車の中から、誰かわからない両手が、
その子を電車の外へ出したこと。

小椋さんは負傷しながらも必死に救出活動を
されていたこと。

私が、小椋さんに必死に助けを求めていたこと。

小椋さんは私を助けることができず、
ずっと安否を気にされていたこと。

あの時、機械の唸る音以外には、
静か過ぎるくらい静かだったのは

多くの方がすでに息を引き取っていたこと


13年間、目を背けてきた事実が

そこにありありと書かれていた。


これまでも読んでいたはずなのに、知らなかった事実が、大樹の言葉によって、私の中に入ってきた。


私は、あの瞬間にまた生かされた。

いや、そうではなくて、その次の瞬間も、またその次の瞬間も、今この瞬間も、生かされ続けている。


家に着いたとき、さすがに疲れを感じていて
夕飯は大樹が作ってくれることになった。

私はソファに寝転びながら、いつものように
汰緯くんを服の中に入れて、

おっぱいをあげていた。

時折服の首元から手がニョキッと出てきて
その手が、私のほっぺをつまむ。

私が首元から中を覗くと
汰緯くんが、おっぱいを吸いながら
こっちを見てにやっと笑っている。

こんな時はちゃちゃっと
簡単な夕飯を作ると思いきや、

大樹は、決めていたからと言って、
汗だくになりながら
肉まんを皮から作っている。


1時間が経っても夕飯が出来る気配はない。


汰緯くんはしびれを切らし、
もうとっくに夕飯を済ませ、

ねんねーと言って床に寝転がっている。

仕方がないので、先にお風呂に入り、
汰緯くんを寝かしつけた。


リビングに戻ると、
ホカホカの肉まんが
出来ていた。

今日の夕飯、まさか肉まんのみ?

美味しそうだから、まあいっか。


お、お、美味し過ぎる!

もう一つ、もう一つ。

この肉まん、上海や大連で食べた
どの肉まんより断然美味しいよ。
皮が厚いのにくどくないから、何個でもいける!


気がつけば、2人とも巨大な肉まんを4個ずつ
平らげていた。


お腹いっぱいで苦しくて、
ソファに横になりながら
大樹に言った。


大樹、ありがとう。
私を見つけてくれてありがとう。

もっと普通の子もたくさんいたはずなのにね。
なんでこんなめんどくさい私を選んじゃったんだろね。


大樹が言った。

ちづが、生きていたのは本当に奇跡だったんだね。

でも、事故に遭っていたとか、遭っていなかったとか関係なく、ちづは普通じゃないよ。

どっちにしてもめんどくさい。


そう言って笑い飛ばすと、寝息を立てて口を開けて寝てしまった。

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