Yahooニュースより転載。

 

南日本新聞より。

 

 

 

 2024/09/02 10:00

忘れもしない1945年8月11日。親友は暴発した不発弾に吹き飛ばされた。加治木空襲の4日後…天皇陛下の声に耳を澄ませた。クマゼミの声が騒がしかった

実家周辺が爆撃された当時の写真など見ながら体験を語る木原武晴さん=姶良市加治木町諏訪町

実家周辺が爆撃された当時の写真など見ながら体験を語る木原武晴さん=姶良市加治木町諏訪町

■木原武晴さん(77)姶良市加治木町諏訪町

 加治木で生まれ、すぐに父ときょうだいの待つ東京の家へ母と戻った。杉並区高井戸国民学校4年生のとき、戦火が激しくなり学童疎開が決まった。同じ田舎に行くのならば、と一人で祖母らの住む加治木に戻った。

 5年生の夏を過ぎたあたりから戦時色が強まった。課外授業のレコード鑑賞は、音楽ではなく飛行機の爆音を聞き分ける訓練。味方か敵か、エンジン音の違いを必死で学んだ。校舎外壁には、2階まで届くモウソウ竹が2本ずつ並べて立てかけられた。授業中の敵襲に備えた緊急脱出用だった。校舎の間には対空用の高射砲も5、6門据え付けられていた。

 十三塚原の飛行場(現鹿児島空港)に近かったため、実家周辺には多くの飛行兵が分宿し、毎朝のように軍用トラックが迎えに来ていた。

 1945年、6年生になると空襲警報はかなり増え、登校途中に引き返すこともたびたびだった。中でも、4月初めの空襲はよく覚えている。

 民間人は攻撃されないという先入観があった。編隊を組んだり交差したりして上空を飛び交う戦闘機を屋根の上でのんびり見ていると、数機が翼をひるがえし急降下。機体には米軍のマークがはっきり見えた。次の瞬間、隼人方面からトンネルを抜け出た汽車が、駅に着く直前に狙い打ちされ、機銃掃射が一斉に浴びせられた。その音のすさまじさといったら―。あまりの怖さに、どうやって防空ごうに逃げ込んだか分からなかった。

 動員され、飛行場での作業にもかり出された。零戦を松林に隠すために使う土のう作りや、飛行機燃料の足しにする松やに採りなどが主だった。そのとき見た1機の零戦は印象に残っている。胴体や主翼には敵弾に撃たれた穴が多数あり、にかわでテントの切れ端を張り付け、緑のペンキが塗ってあるだけ。ばんそうこうで張ったような痛々しい姿に「こんな飛行機で突っ込んでいくのか」。衝撃を覚えた。

 死ぬことは常に覚悟していた。というより、あまりに日常的すぎて、怖いという感情すら持てなかった。ただ、友人とは冗談ばかり言い合っていた。死と隣り合わせの恐怖を、ユーモアで吹き飛ばそうとしていたのかもしれない。

 忘れもしない8月11日。数日前には飛行機からビラがばらまかれ、「11日にあなたの町を空襲するから婦女子は避難するように」という内容が日本語で書かれていた。当日は作業のため飛行場へと向かったが、立ち上るきのこ雲に驚き引き返した。町全体が大きな煙の柱に包まれ、あちこちで火の手が上がっていた。川伝いになんとか町へ戻ると、幸運にもわが家は焼け残っていた。

 軍事を含む物流の拠点だった加治木駅は標的となり、多数の爆弾が投下された。しかし鉄道施設にはほとんど当たらず、不発弾となって町のあちこちに転がっていた。駅前の同級生宅では屋根を突き破った大きな弾が土間に転がり、近所の親友は暴発した弾に吹き飛ばされた。

 町の約8割が焼土と化した加治木空襲の4日後、日本の敗戦を伝える玉音放送が流れた。ピーピーと激しい雑音の中、かすかに聞こえる天皇陛下の声に耳を澄ませた。

 放送のあった日が夏の暑い日で、とても静かで、ただクマゼミの声だけが騒がしく聞こえていたことを、子ども心にはっきりと覚えている。

(2010年6月20日付紙面掲載)