Yahooニュースより転載。

 

『オッペンハイマー』原作を読む【後編】 核融合:「歴史ミステリー」としての側面と世界の在り方への照射

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リアルサウンド

『オッペンハイマー』上・中・下巻(早川書房)

「つまりエドワード・テラー博士、君が提唱する“スーパー爆弾”は原爆より高い破壊力を誇る。そういうことだね?」 

「その通りです」 

「我々には原爆がある。それにソ連も向こう4年はこの技術に追い付けまい。そのスーパーとやらは無用の長物だよ」 

「笑わせる。その威力は原爆の何倍だ?」

 「10倍……などと言うのではあるまいな?」

 「1000倍です」 

「なんだって?」 

「キロトンではなく、メガトンなのです」 (映画『黙示録1945』より)

  映画『オッペンハイマー』は「核分裂」と「核融合」の2部より構成される。「核分裂」パートは1954年に聴聞会(グレイ委員会)にかけられたオッペンハイマーの回想形式で進む。

【前編】(核分裂:クリストファー・ノーランが挑んだ「究極のフィクション」)で述べたように、このパートの脚本はオッペンハイマーの一人称で書かれ、いかにして彼が量子力学に魅了され、そして原子爆弾を作り上げたのかが描かれる。対して後半はオッペンハイマーの視点を排して、AEC(原子力委員会)委員長ルイス・ストローズがアイゼンハワー内閣の商務長官に相応しいかを問う公聴会へとシフトする。この「核融合」パートは映画においていかなる役割を担っていたのか。そして、オッペンハイマーを語る映画でありながら、なぜこのストローズという人物に焦点があてられたのか。本稿【後編】ではそこにレンズを絞り、映画原作「オッペンハイマー」を道標として『オッペンハイマー』を解読してゆく。

 ■水爆開発へ向けて動くルイス・ストローズ 

 映画では事象のみが駆け抜けてゆくので全体像が掴みづらい向きがあるだろう。そこで、原作を片手にトリニティ実験から聴聞会に至るまでの背景を概説したい。第二次世界大戦が終焉を迎えたのち、オッペンハイマーの核に対するスタンスは世論と外れたものとなってゆく。第二次世界大戦では同盟国であったソ連はアメリカにとって恐るべき敵と化した。大戦中よりアメリカは核爆弾の存在をちらつかせてソ連をけん制していたのだが、ロスアラモス(原爆を開発した研究所)にソ連のスパイが潜り込んでいたことが発覚。核爆弾の製造に関するノウハウが全てソ連へと流れていたことを知った政府高官と科学者の立場は二分された。「核技術を国際的管理の下に置き、これ以上の使用と爆弾の開発を進めるべきではない」というもの、そして「より強力な爆弾を開発し、世界の覇権を握るべし」なるものにだ。オッペンハイマーは前者に立ち、国へと働きかけた。

  ここで一人の科学者に目を向けよう。オッペンハイマーが「原爆の父」ならば、この男は「水爆の父」と称される。エドワード・テラーだ。映画『オッペンハイマー』でもロスアラモスで一人独自路線を走っていた姿が印象的であったテラーは、戦後「スーパー爆弾」=「水素爆弾」を積極的に売り込み続ける。だが「“スーパー”は大量虐殺の兵器となりうる。米国がこのような兵器を備蓄しているという事実は、最終的に安全保障を損なう」と考えるオッペンハイマーらの反対に遭い、水爆は陽の目を見なかった。ちなみに、映画でジョシュ・ハートネットが精悍に演じたアーネスト・ローレンスも水爆への賛意を表した科学者の代表格である。 

 しかしソ連が予想より早く原爆を完成させたことで、テラーの水爆に注目が集まるようになった。そこで積極的に水爆開発へ向けて動く協力者も登場する。それがAEC委員ルイス・ストローズだ。オッペンハイマーが諮問機関の委員長を務めるAECにおいて、ストローズは唯一の水爆賛成者であった。だが、この男はFBI初代長官J・エドガー・フーヴァーをも擁する人脈を駆使して、アメリカ全土を水爆賛成へと傾けてゆく。ストローズはテラーとローレンスを連れ立って上院議員マクマホンへ水爆の必要性を訴えかけた。マクマホンは国会の両院合同原子力委員会の委員長であり、国政への影響力を誇る。さらに、委員会の書記長を務めるはマクマホンの腹心、ウィリアム・ボーデン。映画ではクリストファー・ノーラン作品の常連俳優デヴィッド・ダストマルチャンが演じた人物だ。ボーデンは2つのものを持っていた。空軍との強いコネクション、そしてオッペンハイマーに対する不信感。ストローズの働きかけは功を奏し、対ソ連を掲げる政治家たちは水爆の開発を声高に叫ぶことになる。 

 この過程はアトミック・エイジそのものを主役としたカナダ・フランス合作のテレビ映画『黙示録1945』(1987)に明るい。映画『オッペンハイマー』とは異なり、ひとりの人物に着目することなく核開発を取り巻く出来事をハイペースに取り上げつつ、マイケル・アイアンサイドを筆頭に、いぶし銀の俳優たちが実在の科学者たちを演じ上げる秀作である。『オッペンハイマー』ではトリニティ実験にてアトミック・エイジの開幕を表現したが、『黙示録1945』ではエンリコ・フェルミが原子炉を開発した瞬間に演出の力点が置かれているのも興味深い。『オッペンハイマー』を補完する作品として強くお勧めするのだが、日本ではVHS止まりなので鑑賞には多少の手間を要するかもしれない。

 ■「核融合」パートが担う役割 

 さて、対ソ連の冷戦へと突入したアメリカは二分された……と先に述べたが、これは分かりやすく言い換えると「水爆賛成」と「水爆反対」となる。さらに、共産党へのヘイトを露わにするジョセフ・マッカーシー議員が煽り立てた反共ムーブメント(いわゆるマッカーシズム)も手伝い、世論は「水爆賛成」へと流れてゆく。つまるところ、市民も無自覚なうちにアメリカという国は激しく右傾化していたわけだ。テラー、ストローズ、ローレンスらが推し進めた水爆は、右傾化の表象にして象徴だった。

  この渦中においてオッペンハイマーは私人としては水爆反対の立場を貫く。一方で、公職においては水爆開発に対して建設的な意見を述べており、水爆推進者にとってはなんともやりづらい相手であったと想像できる。事実、ストローズはオッペンハイマーを目の敵にしていた。戦後、オッペンハイマーはプリンストン高等研究所の所長に就任。ストローズは同研究所の理事を務めていた。当初は友好関係を築いていた二人だったが、研究所における権力争いを契機に関係は悪化の一途を辿る。映画ではアイソトープ(放射性同位元素)のノルウェー輸出におけるやり取りに収斂していたが、原作を読むと恐ろしいまでのすれ違い、方向性の違いが乗算され続けていることが分かるだろう。水爆推進がマスを占めつつある中、ストローズやテラーらにとって、これはオッペンハイマーを公の場から追い出す最大の好機であった。ストローズらとオッペンハイマーの対立は、もはや私怨などという域を超え、アメリカ合衆国における右派とリベラル派の代理戦争と化していたのだ。

  かくしてストローズは一計を案じる。自分と同じくオッペンハイマーを嫌っていたボーデンと陸軍のケネス・ニコルズ将軍、さらにはFBIをも抱き込み、壮大な茶番劇を仕掛けた。FBI初代長官フーヴァーはその職権を濫用し、盗聴などの違法な情報収集を行うことで大統領の弱みを握った人物として有名である。クリント・イーストウッド監督作品『J・エドガー』(2011)でその名を知った方も多いのではないだろうか。フーヴァーの盗聴スキルはオッペンハイマーに対しても発揮され、彼の過去、そして現在の一挙手一投足は違法に記録され続けた。それはもちろんストローズにも筒抜けであったことは言うまでもない。そこでストローズはボーデンをイタコとし、フーヴァーに宛てた告発の手紙を書かせた。そこにはオッペンハイマーが国家に仇なす共産党シンパであり、ゆえにアメリカの国力を削ぐべく水爆の開発に反対していると記されていたのだ。フーヴァーはFBIが収集したデータを添え、アイゼンハワー大統領へとボーデンの告発文を届けた。こうしてオッペンハイマー追放の準備が整えられてゆく。

  映画ではデイン・デハーンがふてぶてしさの権化の如く演じていたニコルズ将軍は、戦後AECのゼネラルマネージャーに就任。陰謀に満ちた告発文を手に、ニコルズはオッペンハイマーに対しAECの顧問を辞任することを勧告する。だが、オッペンハイマーは拒否。これにより茶番中の茶番、「わが国旗についた汚点」と評されるオッペンハイマー聴聞会が開かれた。右派の法廷弁護士ロジャー・ロブなどストローズの息のかかった面々が揃えられ、オッペンハイマーをひたすら糾弾する、追放という結論ありきのもの。それがグレイ委員会の正体だった。

  聴聞会の争点は「オッペンハイマーはソ連のスパイであるか否か」。この裏付けとして、戦時中の共産党員ジーン・タトロックとの交流、さらに「シュヴァリエ事件」と称される出来事が挙げられた。シュヴァリエ事件とは、ハーコン・シュヴァリエが「もしソ連と情報を共有したいなら僕に一声かけてほしい」とオッペンハイマーに話した、友人間の会話を指す(オッペンハイマーはこれを拒否した)。この件について、オッペンハイマーは大戦中に情報将校ボリス・パッシュによるヒアリングを受けている。パッシュは後にCIAにおいて殺人や誘拐といった「ウェットな仕事」の部門を編成したとされる人物だ。オッペンハイマーはヒアリングの際に嘘をついた。友人であるシュヴァリエをかばい情報源をごまかしたのだ。聴聞会ではここを徹底的に突かれ、彼は窮地に陥る。

  聴聞会に召喚されたテラーは、オッペンハイマーが公職に相応しいか、との問いに対してこう答えた。「わたしは保安許可を出さない方が賢明だと申し上げたい」。テラーはオッペンハイマーを公職から追放すべし、と取れる意見を述べたのちに彼へ握手を申し出る。それはテラーとストローズ……ひいては右派の勝利宣言であり、水爆時代の幕開けを意味するものであった。  映画『オッペンハイマー』における「核分裂」のパートでは、オッペンハイマーの視点により物語が語られる。そのため、聴聞会に至るまでの背景が見えづらくなっている。いや、あえてそうしている、と言った方が正確だ。映画は「なぜ」を量産しながら進む。なぜオッペンハイマーは聴聞会にかけられているのか、なぜスパイと疑われているのか、なぜ糾弾されているのか……。

  原作を読むと事実が時系列に沿って語られているため、これらの「なぜ」は生じない。しかし映画では時系列を分解し、一人称視点(核分裂)と三人称視点(核融合)を入れ子構造にすることによって、観客に「なぜ」=「謎」を提示し続けることを可能とした。積もる謎に対して観客は答えを求める。これにより映画への興味は持続し、3時間という長尺を感じさせない求心力を獲得し得た。この構造はすなわちミステリーのそれだ。【前編】にて『オッペンハイマー』は“メタ”ノンフィクションであると述べたが、史実を解体し、ミステリーへと変換していることもまた本作の「メタ」な部分である。

  謎があれば答えもある。犯人にして謎解き役……その大役を任されたのが、ストローズその人だ。映画の「核融合」パートではストローズの公聴会にスポットライトが当てられる。そして公聴会およびバックステージでのストローズの告白により、「核分裂」パートで積み重ねられてきた「なぜ」の理由が明かされてゆく。一見して「原爆の父」のナラティブと思われたこの映画が、実はストローズという狂言回しによって語られたストーリーであったことを観客に示す。それこそが「核融合」パートが担う役割である。

 ■オッペンハイマーと真逆の存在、ストローズ 

 ノーランは『オッペンハイマー』において「実在の人物を統合して架空のキャラクターにすることは避けたかった」と語っている。だが、映画において名もなき人物がスクリーンを占有し続ける瞬間があることに気付いただろうか。それは公聴会のバックステージでストローズと会話を続ける上院補佐官だ。ストローズは補佐官に対してがむしゃらに真実を話し続ける。自分がオッペンハイマーに対し抱いていた悪意、そしていかにして彼を陥れたか。ノーランは観客の代理として補佐官を置き、ストローズによる「謎解き」を会話劇としてシームレスに映画へと収めてみせたのだ。

  また、映画『オッペンハイマー』をミステリーとして捉えなおしてみると、劇中で「殺人事件」が発生していたことをも感じ取ることができるだろう。それはジーン・タトロックの死だ。ジーンは薬を飲み、そのまま浴槽に頭を浸し溺死した。精神的に不安定だった彼女の死は自殺として処理される。だが、彼女の死を知ったオッペンハイマーの脳裏にあるビジョンがよぎる。黒い皮手袋を着けた手が、ジーンの頭を浴槽へと押し込む瞬間……殺しの現場が。黒い皮手袋の持ち主はいったい誰なのだろうか。その答えは原作にある。

  ジーンの電話はある人物によって盗聴されていた。情報将校ボリス・パッシュである。1975年、CIAの公聴会によりパッシュが複数の共産主義者への盗聴を命じ、さらに殺害を計画していたことが明らかになった。結果的にジーンの死とパッシュの直接的関連は立証されなかったが、彼女の兄ヒュー・タトロックは終生それを疑い続けた。もちろん、現実のオッペンハイマーはこの懸念を抱いておらず、ジーンは自殺だと思い続けていたことだろう。しかし映画においては、彼の眼と脳はジーン殺しの犯人を幻視する。映画でパッシュを演じたのはケイシー・アフレック。ジム・トンプスンが著した犯罪小説「おれの中の殺し屋」の映画化『キラー・インサイド・ミー』(2010)で、サイコな殺人犯を熱演した俳優だ。このキャスティングにもまたノーランの作為が感じられる。

  話をストローズに戻そう。ではなぜストローズが「核融合」の主人公として選任されたのだろうか。「核融合」とは水爆と直結する言葉である。「核分裂」が原爆、すなわちオッペンハイマーの物語であるならば、「核融合」はテラーを中心に語っても良かったのではないだろうか。テラーはストローズの陰謀に常に引っ付いていた人物であるがゆえ、彼を軸に据えても問題は無かったと考えられるのだが。

  ここには、ノーラン特有の作劇法が影を落とす。ノーランは常に正反対の存在の対立を描き続けてきた。『プレステージ』(2006)におけるロバート・アンジャーとアルフレッド・ボーデン、『ダークナイト』(2008)におけるバットマンとジョーカー。もちろんこれはノーラン本人が述べているように『アマデウス』(1984)を援用したものだ。圧倒的な才能を持つモーツァルトを、下から睨め付けるサリエリ。この構図をノーランは『オッペンハイマー』にも持ち込もうと試みた。

  オッペンハイマーとテラーは水爆を巡り対立したが、二人とも本質的には人間離れした才能を有する、極端な言葉を使えば「超越者」である。対してストローズはどこまでも人間的だ。それゆえに、時にオッペンハイマーを称賛し、一転して私怨を抱く。ストローズとオッペンハイマーは共にユダヤ系である。オッペンハイマーの青年期における屈折は、出自に起因する部分があったことは否めない。一方でストローズは「ストラウスという読み方はユダヤっぽいだろ。アメリカ風にストローズと呼んでくれ」と言ってみせる。この二人はアイデンティティへの向き合い方からして真逆であった。

  何より、オッペンハイマーは自らが産みし核爆弾に畏れを抱いていた。テラーの水爆への衝動もまた、トリニティ実験で目にした核爆弾への畏怖に基づいている。対して、ストローズは何も見ていない。敵国に対する圧倒的な武力としてのみ核爆弾はストローズの眼に写る。なんの畏れも知らぬままに。オッペンハイマーが「慧眼にして盲目」ならば、ストローズは常に盲目であった。ゆえに、ジョーカーの言葉を引用すれば「コインの表と裏」と言える存在……オッペンハイマーに対するそれは、ストローズなのだ。

  オッペンハイマーと真逆の存在、ストローズが狂言回しとして『オッペンハイマー』をまとめ上げる「核融合」のパートがあってこそ、映画はその仕掛けの全貌を現す。原作「オッペンハイマー」をミステリーに組み直したノーランの技前には脱帽だ。しかし、その副作用として、映画が盛り上がりを欠いたことは否めない。本作と同じくマンハッタン計画を描いた『シャドー・メーカーズ』(1989)や『ツイン・ピークス』(2017・シーズン3 第8話)では、トリニティ実験が物語に大きな起伏をもたらしていた。ところが『オッペンハイマー』では時系列がシャッフルされているため、トリニティ実験が映画の大きなヤマとして機能していない。時系列シャッフルは映画にスピード感を与えた代償として、メリハリを奪い取ってしまったきらいがある。  時系列シャッフルの功罪はあるにせよ、終幕にオッペンハイマーの顛末を持ってくる構成の鮮やかさはお見事だ。右派とリベラル派の代理戦争に敗北し、公職を追われたオッペンハイマーは政治の表舞台から姿を消す。憎き敵を蹴落としたストローズの春も束の間、それまでの陰謀体質が問題視され、1959年の公聴会でアイゼンハワー内閣入りを見送られてしまう。そして1963年、ケネディ大統領はオッペンハイマーにフェルミ賞を授与することを決定する。ちなみにケネディ大統領はストローズの内閣入りに反対票を投じた張本人であった。グレイ委員会より約10年、ようやっとオッペンハイマーに再評価の陽が差し込むことになる。だがそれは、アメリカという国が個人に対して行った行為への罪滅ぼしでもあったのだ。

  「私はどうしようもなく、この国を愛している」。そう語ったオッペンハイマーを、右傾化していたアメリカは袋叩きにして、そのキャリアを絶った。原作「オッペンハイマー」の原題は「アメリカン・プロメテウス」である。プロメテウスは人類に火を与えた神だ。火は人類の生活を豊かにしたが、同時に戦争へと突き動かすことになる。ゼウスは怒り、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じ、プロメテウスを3万年の磔刑に処した。オッペンハイマーがプロメテウスならば、クラトスはストローズであり、ビアーはテラーと見立てることができる。そしてアメリカこそがゼウスであった。

  原作「オッペンハイマー」は文庫化にあたり3分冊され、それぞれに副題が冠されている。最終巻の副題は「贖罪」だ。これは一見して核爆弾を開発してしまったことへの、オッペンハイマーを主語にしたものと思われるだろう。だが、この主語はまたアメリカでもあるのだ。多重の意味を孕んだ実に見事な副題と言える。

  映画『オッペンハイマー』は、もちろんそれ単品で十分に評価できるものだ。だが原作「オッペンハイマー」を併せて読むことで、その真価を発揮する。「プロメテウスの火」が、いかにして生み出されたのか。そして、いま我々が生きる現代をどう変えたのか。映画『オッペンハイマー』がノンフィクションでありながらミステリーという多面的な構造を持っていたように、原作「オッペンハイマー」も、ある人間の人生を詳らかにすることで、時に読者の知的好奇心を満たし、時にエキサイティングさせ、さらに国家や世界の在り方の問いをも照射する、深遠な輝きを放つものとなっている。映画を観る前でも後でも構わない。必読である。本書を読まずしては、映画も現代も語れない。

ヒロシニコフ

 

以上、転載。

オッペンハイマーが「贖罪」?アメリカが「贖罪」?

私はそう思えない。

原爆投下後に知った広島・長崎の惨状が彼を悩ませたことだろうが、決して謝罪しなかった。

訪日しても、広島・長崎を訪れることはなかった。

映倫は「+15R」指定にしている。

おそらくセックスシーンがあるからだろう。あれがなければ、R指定はなかったかもしれない。

小中学生の鑑賞に耐えうる内容か。

それなりの知識がないと理解できないような気がする。

一方で、「原爆使用は正しかった」「日米の犠牲を少なくした」「原爆が戦争終結を早めた」などのいわゆる”原爆神話”を刷り込むことになるのではないか?