「故陸軍輜重兵二等卒池田一郎君之碑」碑文について

 

1. 石碑名

故陸軍輜重兵二等卒池田一郎君之碑

〈こりくぐんしちょうへいにとうそついけだいちろうくんのひ」

2. 場所

 広島市安佐北区狩留家3232 グーグルマップより。

3. 碑文

2021年8月23日撮影。

【正面】

故陸軍輜重兵二等卒池田一郎君之碑

2024年4月18日撮影。

高圧洗浄機で藻や苔を除去されたようです。

個人的には、そのまま(時間の経過)を残し、できれば案内板を設置して、後世に残す、継承したほうがいい。

 

【側面(右側)】

明治参拾参年北清事変出征中同年九月拾七日於清国北京朝陽門外舎營病院□死亡有志者惣代黒河康□

マクロ撮影。

高圧洗浄機による藻や苔の掃除は正面だけのようです。

2024年4月6日。

乾拓で拓本を取ってみました。

実は写真の方が判別しやすかったです。

 

4. 読み下し文、訓読文、大意

1900(明治33)年、北清事変(義和団事件)に出征中、同年9月17日、清国朝陽門外の舎営地の病院で死亡(戦病死?)、有志の惣代(代表)は黒河康□。□は判読不能文字。

陸軍病院は、日本単独なのか連合軍なのかは不明(私調べ)。

戦争による戦病死は、負傷によるものと、コレラやマラリアなどの病死がある。

遺骨が戻ってきたかは不明。

日清戦争、日露戦争あたりまでは、遺骨が戻ってきたこともあったようだが、戦病死の増大などで戻ってくるのは困難となる。

アジア・太平洋戦争での外地での戦死者、戦病死者の遺骨はほぼ戻ってきていない。

私の叔父(母親の次兄)は、1941年12月17日、南洋で友軍の潜水艦と衝突し沈んだまま。戦死広報が実家に届く。

 

5. 建立年(月日)

不明。おそらく1900年末か1901年か。裏面に刻字があるように見えるが、判読できない。

6. 建立者

黒河康□。□は判読不能。中国新聞販売所からもらった地図には、この碑の近くには「黒河」さんの家は一軒ある。家主を尋ね、この碑に「黒河康□」の名前があることを伝えたが、そういう先祖(親類)がいるとの記憶がなかった。

ただ、「康」と読んだが、「庫」と読む方が正しいかも。

 

【側面(左側)】石材寄附本黒川。

最初、「右」と読んでいたが、石碑・従軍碑には、石工・石材屋の刻字があることが多い。

石工ではなく「寄附」の刻字が読めたので、「石材の寄付は本黒川」だろう。

では、「本黒川」は名前か石材屋か?

狩留家に「黒川」という名前の家はあるが、「本黒川」という家は近辺(狩留家)にはない。

 

「余談」

この従軍碑は「故陸軍輜重兵二等卒池田一郎君之碑」だが、狩留家に「池田」という家はない(私調べ)。

子孫は村外(当時は狩留家村)に出たか、あるいは絶えたか。

「狩留家村史」はなく、合併して「高陽町」になるが、「高陽町史」には、戦前の歴史(明治維新以後の戦争関係)はごっぽり抜け落ちている。

手掛かりは、狩留家古文書、狩小川古文書だろう。