「旌忠碑」(広島東照宮)の碑文と読み下し文(大意)~西南戦争と第5師団歩兵第11聯隊

 

「旌忠碑」(広島東照宮)。

正面に「旌忠碑」の碑文がある。

復元された際、メンテナンスされたようです。

刻字はほぼ判別できる状態。

漢文に弱いのだが、所々の刻字から理解が可能。

この碑文について、郷土史家から「藝備碑文集上巻」にあると教えてもらい確認した。

その大意について、広島県立文書館の方にPDFファイルを提供してもらった。

 

「大意」は・・

「明治新政府の政策に不満を持って、江藤新平・前原一誠らが叛乱を起こしたが、難なく鎮圧された。しかし明治10(1877)年鹿児島で叛乱を起こした西郷隆盛は人望高く、賛同する一派も多く、一時は九州をも占領する勢いであったが、翌年2月官軍は賊を攻撃した。熊本城、田原・山鹿、また宇土・八代から賊を敗走せしめた。官軍は終に九月に二十四日鹿児島の敵陣を攻め、戦勝した。官軍の中でも我が広島鎮台の兵はよく奮戦し、死者も数百人であった。この古今未曾有の激烈な戦争で、多くの死者の犠牲があったので、国家泰平の基礎を開くことが出来た。吾が広島の兵士の偉大で特に優れた功績を碑に彫り、後世の者に天皇聖化開始の由来を知らしめたい。」

 

 

 

「訓読文」。

こちらは難解だ。

「統を継ぐ」とは皇統の継承。

「6百余年の弊の革」とは、明治維新をさすものと思われる。鎌倉幕府の武家政権から権力を奪還した。「革」を「革め」と読むと今回知りました。「革新」「革命」・・・なるほど。

「王化を阻む」とは、明治維新という天皇を頂点する天皇制国家づくりを阻むということか。

佐賀の乱や神風連の乱が、天皇に反旗を翻す”内乱”ではなかったような気がするが・・・。

西郷隆盛は、尊皇討幕の首謀者の一人、明治維新の立役者、功労者だ。「逆賊」になったが、その後名誉は復されている。

「資望も厚く」と、当時の西郷隆盛をどうみていたか伺われる。

西郷隆盛軍は熊本城を陥落できず、田原坂で敗れ、中九州~南九州を敗走する。

 

左側「藝備碑文集上巻」。

右側「旌忠碑」碑文。

「陸軍中将従四位勲三等 三浦梧樓撰并篆額」。

三浦梧樓は、第五師団の師団長(司令官)だった。萩の乱(1867年、明治9年)のときは少将。最後は「従一位勲一等子爵」となっている。

「撰并篆額(せんならびにてんがく)」とは碑文を選び、題字を書いた。

「山口縣周防巖國盬谷處書」

碑文の文章は、山口県周防(すおう)岩国藩の塩谷処(しおのやおさむ)による。

藩校「養老館」教授。藩士で書家だったようだが、ネット検索してもほぼ出てこない。

 

 

今回はここまで。

 

ウキペディアより転載。

 

三浦 梧楼(みうら ごろう、旧字体三浦 梧樓弘化3年11月15日1847年1月1日〉 - 大正15年〈1926年1月28日)は、日本陸軍軍人政治家[1]。 最終階級は陸軍中将。栄典は従一位勲一等子爵観樹

経歴[編集]

陸軍中将時代

現在の山口県萩市藩士陪臣五十部吉平の五男として生まれる。明倫館[2]で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐戊辰戦争に従軍する。維新後は兵部省に出仕、明治7年(1874年)には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年(1876年)、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山鹿児島県)を陥落させた。明治11年(1878年中将となり、西部監軍部長。

長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城鳥尾小弥太曾我祐準らとともに反主流派を形成し、山縣有朋大山巌らと対立した。明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、上記3人と連名で議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出し、翌年陸軍士官学校長に左遷される。明治18年(1885年)に陸軍卿大山巌と共に欧州の兵制を視察した。

明治19年(1886年)に帰国、月曜会の中心人物として陸軍改革の意見書を提出したが、翌年に熊本鎮台司令長官に左遷される。明治21年(1888年)、予備役に編入。同年から明治25年(1892年)まで学習院院長。明治23年(1890年)7月10月に子爵による互選で貴族院議員に選出されたが[3]、翌年9月30日に辞職した[4]

明治28年(1895年)9月1日、在朝鮮国特命全権公使に就任し[5]、公使館付武官で朝鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐や、邦字新聞「漢城新報英語版)」社長の安達謙蔵らの協力を得て、[要出典]同年10月7日、安達謙蔵国友重章閔妃殺害を教唆し、安達・国友の両名は三浦の教唆に応じ殺害を決意して同志者を招集した。翌8日早朝、国友を含む同志者たちは凶器を携えて王城内に突入し、直ちに後宮へ至った[5]。閔妃は後庭で殺害され、遺体はその場で焼却された[6]乙未事変)。事変後、関わったとされる三浦以下48名は召還され広島で投獄され、12月12日 に広島地方裁判所にて予審開始[要出典][5]。翌1896年1月20日広島地方裁判所における予審や同地で開かれた軍法会議[要出典]の結果、広島地裁は、被告人らの一部が閔妃殺害を決意して後宮に侵入した事実を認定したものの、被告人の中に殺害を実行した者がいると認めるための証拠が十分でないとして、三浦以下48人の被告人全員を免訴とし、そのうち三浦を含む12人を放免した[5]

明治41年(1908年)4月1日、後備役に就任[7]。明治43年(1910年)には枢密顧問官に就任、また宮中顧問官などの要職を歴任する。大正期には「藩閥打倒」を唱え、政界の黒幕としても活動、政党政治期(及びその直前期)の大正5年(1916年)と同13年(1924年)の2度に亘り、対立する政党間の党首会談の仲介などを行った。特に後者の会談は後に「護憲三派」結成の合意がなされた会談として歴史に名を残している。最晩年に口述筆記で、著作を2冊出版している。大正15年(1926年)、尿毒症のため死去[8]

 

三浦梧樓は「閔妃暗殺」で知っていたので、広島東照宮の旌忠碑を見たとき、その名があることに驚いた。