東遊郭(広島市下柳町)は、いつ誰が作ったのか?~黒柴こたろうブログ 2024.4.14

 

 

前回、「東遊郭(広島市下柳町)が寄進した「紀元二千六百年記念碑」~広島東照宮-1-」という記事を、2024年3月8日(金)に投稿しました。

今回は「東遊郭(広島市下柳町)は、いつ誰が作ったのか?」というテーマです。

 

私が調べた範囲で。元原稿は2月にまとめました。

 

「東遊郭」「長沼鷺藏君紀功碑」について                                   

1.「東遊郭」はいつできたのか?(「広島県史年表(明治)より

・1894(明治27)年3月29日、朝鮮全羅道で東学党蜂起(庚午、きのえうま)

・1894(明治27)年6月5日、第5師団に動員令下る

・1894(明治27)年6月9日、第5師団の先発隊が宇品出港―12日仁川着

・1894(明治27)年6月10日、山陽鉄道糸崎~広島間開通

・1894(明治27)年7月23日、日本軍、朝鮮王宮を占領

・1894(明治27)年8月1日、清国に宣戦布告(日清戦争)

・1894(明治27)年8月4日、山陽鉄道、陸軍省の委託をうけ宇品線(軍用線)仮設工事に着手、20日完成

・1894(明治27)年9月15日、天皇、広島に到着し、第5師団司令部庁舎に大本営を開設

・1894(明治27)年9月17日、黄海海戦(私の祖父は、海軍一等水曹として従軍)

・1894(明治27)年9月27日、西練兵場内に臨時帝国議会仮議場建築起工、10-14竣工

・1894(明治27)年10月15日、臨時帝国第7議会を広島に召集、-18開院式、-21閉会式

・1894(明治27)年12月28日、安芸郡仁保島村宇品島の一角および広島市下柳町の一角(のちの東遊郭)を貸座敷・娼妓免許地とする(県令乙64・65)→「東遊郭」ができる

・1895(明治28)年1月31日、清国全権一行、宇品に上陸

・1895(明治28)年3月18日、伊藤首相、宇品を発し馬関に向かう

・1895(明治28)年4月17日、日清講和条約調印

 

「遊郭」は免許制でした。日清戦争で終結する兵士・軍属や軍夫、様々な職種・人間のために「宇品」「下柳町」に「遊郭」が作られました。「西遊郭」は1892(明治25)年にはできたそうです。

 

2.「東遊郭」は誰が作ったのか?

「広島を元気にした男たちー明治・大正期の財界人群像―」(田辺良平、渓水社、平成19年)より

・「神機隊参謀から実業界に転身 長沼鷺蔵(鷺藏)」(同書、P.185~P.199)によると 

 「…明治27年12月…「東栄」という会社を設立している。これは、日清戦争で全国の軍隊が広島に集結したことにより、男社会の不穏な動向によって、広島市内の一般市民への影響が懸念されることや、市内の子女に不安を和らげるために、江戸時代から設けていた小網町の「遊郭」だけでは賄いきれないことから、現在の地域でいうと薬研堀・平塚・下柳町一帯に新しく「東遊郭」を設置し、これを運営するための会社なのであった。東遊郭の新設で、従来の遊郭は「西遊郭」と改称されたが、これは昭和32年まで続いたのである」

3.長沼鷺蔵(ながぬまさぎぞう)とは、どういう人物か?

・1844(弘化元)年4月生まれ、1934(昭和9)年10月没、90歳

・東広島市の西条町の「氏神八幡神社」の宮司の次男として出生、武芸に励む

・尊皇討幕の「神機連」(賀茂郡志和村)に所属し、戊辰戦争、西南戦争に従軍

・商人となり、廻船問屋(宇品)、長沼旅館を開業(大手町筋元安川沿い)、政府高官の宿泊場所に

・「米綿取引所」設立に関与(明治27年)、「広島証券取引所」の理事長(11年間、大正15年で)

・明治45年「長沼電工部」設立、「長沼電業社」に改称(昭和5年)、「芸備鉄道株式会社」設立に参加、監査役(大正元年) ※1915(大正4)年時点で、「廣島株式取引所理事長、宮島ホテル社長など(「人事興信録第4版、1915年」より

・明治22年~25年、広島市会議員、明治31年~34年、市会議員、明治37年~43年市会議員

・昭和9年10月死去、葬儀に広島藩最後の藩主浅野長勲が参拝、中国新聞社社長の山本実一が弔辞

 

4.「東遊郭」一帯の人々は、長沼鷺蔵をどう見ていたか。~「長沼鷺藏君紀功碑」から読み取ると・・・

・「旌忠碑」(広島東照宮)を調べていると、田辺良平氏(前掲の著者、郷土史研究家)に碑文は「芸備碑文集(藝備碑文集)上巻」(大正時代)にあると言われ、調べていると「長沼鷺藏君紀功碑」碑文を発見!

・広島県立文書館のN氏より、碑文の解読をご助言してもらいました。

・「長沼鷺藏君紀功碑」

  長沼鷺藏君紀功碑 在下柳町路傍

廣島市東遊郭者、長沼鷺藏君之所創開也、明治廿七年十二月、得官准、拮据殆忘寝食、慬四閲月、蓬蕎寂漠之境、頓化花柳繁華之郷、吾曹得安業治生者、君之鴻澤也、於是同志相謀、建碑永紀其功徳也、

明治丙申十二月  一六居士修書

※IMEパッドに旧字体がない字については、現在の字体にしています。

・おおよその意味

 「広島市東遊郭は、長沼鷺藏君が創開(作り開いた)した所である。明治27年12月、官准を得て、忙しく働き、経営した」

 ※「官准」について、N氏は「正式ではない公務員」と解釈されていたが、田邊良平氏によれば、「官准とは、役所から許可を得たことで、長沼が官吏ではないのです」

※根拠、「1894(明治27)年12月28日、安芸郡仁保島村宇品島の一角および広島市下柳町の一角(のちの東遊郭)を貸座敷・娼妓免許地とする(県令乙64・65)、田邊氏の見解に同意。

 「ほとんど寝食を忘れ、僅か4か月ほどで、蓬蕎寂漠(ほうこうじゃくばく)の状態だった(下柳町の一角)は」

※「蓬蕎(ほうこう)」とは、ヨモギの別称。「寂漠(じゃくばく)」・・ひっそりとしてものさびしいさま。

 「花柳繁華の郷に頓化し、吾曹、安業を得て、生を治むは(あるいは治生は、=暮らしの道をたてる)」

  「花柳繁華街に整え(?)、吾曹(ごそう、吾われ、曹=ともがら、仲間)は、安業(安定した仕事・定職)を得て、暮らしの道をたてたのは、君(長沼鷺藏)の鴻澤(ウルオイ=潤い=恩恵)である」

 「ここに同志が相談し、碑を建て、永久にその功徳(業績)を紀す(しるす、書く)」

 「明治丙申12月」とは、「ひのえさる」、(明治29年)=1896年

 「一六居士修書」、一六居士は、明治時代の書家で、巌谷一六(いわやいちろく)1883年~1905年『日本近現代人名辞典』より、西村氏による。修書とは、書く、編集するの意味。

 

真書千字文 / 巌谷修 書
shinsho senjimon

巌谷 一六, 1834-1905
iwaya, ichiroku 

東京府 : 辻貞中, 明治14[1881]
tōkyōfu : tsujiteichū※

古典籍 / 芸術-書

 

 

 

 

 

【参考資料】

「街道・水運の整備、産業の発展」(『浅野氏広島城入城400年記念リーフレット第4巻、2019年、広島城』

「広島興業場施設変遷略図」

「ひろしま郷土資料館だより No.101 」(2021年、広島市郷土資料館)

「広島と呉のあいだー「船越町」近現代史を探索する」(高雄きくえ、『比較日本文化学研究』第12号(2019年))

「軍都広島の『娼妓』たちー明治期の新聞記事からー」(水越紀子)

軍都広島の「娼妓」たち--明治期の新聞記事から

国立国会図書館請求記号

Z71-S481

国立国会図書館書誌ID

10999813

 ほかに軍都・広島において「娼妓」はいかに貶められ収奪されたか--新聞に事件として書かれた記事を通して

(特集 戦争と人間)

国立国会図書館請求記号

Z71-X94

「広島を元気にした男たちー明治・大正期の財界人群像―」(田辺良平、渓水社、平成19年)

「広島県史年表(明治)」

「広島県史 近代Ⅰ、近代Ⅱ」(広島県、昭和55年、部会長は今堀誠二氏)

「全国遊郭案内」(『遊郭と売春』コレクション・モダン都市文化(吉田昌志編、ゆまの書房、※復刻版)

「芸備碑文集」

「庶民の見た日清・日露戦争-帝国への歩みー」(大濱徹也、刀水書店、2003年

【最後に】

・長沼鷲蔵の石碑は、原爆で倒壊し、そのまま埋め尽くされたままで、区画整理とか道路の新設などでなくなったようです。場所は稲荷橋(稲荷大橋)を渡った左手で、現在は公衆トイレにある付近だったようです。

・「紀元二千六百記念碑」(広島東照宮)は「東栄株式会社」が寄進した。

※現在「東遊郭」の字は読めるが、他は判別不明。寄進の経緯とかの資料はない!と東照宮から言われました。「広島ぶらり散歩」(HP)によれば、2006年の写真では「東遊郭」「奉納」「紀元二千六百年記念」の文字が読めた。

 

「紀元二千六百記念碑」(広島東照宮)2024年2月10日撮影。

広島東照宮。広島駅北側(昔は北口とか新幹線口と言っていましたが、最近は「エキキタ」などと言っています)のJR病院(昔は鉄道病院と言っていました)北の二葉山にあります。

向かって右側。「紀元二千六百年記念」碑。

かすかに読める。

「東遊郭」の刻字が読める。

こちらは参道左側の碑。

田邉良平氏によれば長沼鷺蔵(鷺藏)氏は、当時、広島東照宮の氏子総代だったようです。

過日、「紀元二千六百年記念碑」について広島東照宮に問い合わせたところ、電話口でけんもほろろに断られました。

「紀元二千六百年記念」とは、1940(昭和15)年、全国的に開催されたもので、この石碑には幟旗が掲げられたようです。