「歴史人」HPより転載。

 

戦場に駆り出された軍用犬の悲劇 人と犬の絆を切り裂いた戦争

日本人と愛犬の歴史 #09

川西玲子

日本史近現代2023.10.16

古来、様々な国と地域で、犬は軍用犬として戦場へと駆り出されてきた。現代においても、軍事行動において使役される軍用犬は決して少なくない。日本にもかつて旧日本軍が率いた軍用犬たちがおり、その系譜は今の警察犬に繋がっている。戦争によって本来育まれるべき人と犬の絆が無残に切り裂かれた歴史をひもとく。

 

※画像は転載できません。元記事をご覧ください。

 

旧日本軍と軍用犬。昭和13年(1938)に撮影されたもの。
アジア歴史資料センター (原本所蔵:国立公文書館)

■軍国主義へと向かう時代の犬事情

 

 日本で今、警察犬を統括しているのは公益社団法人・日本警察犬協会である。その前身が帝国軍用犬協会だと知ると、驚くかもしれない。かつての軍用犬が警察犬につながっているとは、一体どういうことだろうか。

 

 話は昭和7年(1932)、今から91年前にさかのぼる。この年に日本史上初めて、犬に関する国策団体が結成された。それが「帝国軍用犬協会」略して「帝犬」である。昭和7年と言えば満州事変の翌年、満洲国建国の年だ。今から見ると、戦争に向かって坂を転げ落ちていたのだが、一方で日本ダービー(東京優駿)が始まった年でもある。昭和初期は複雑な時代だった。

 

 前年の満州事変で、「金剛号」と「那智号」とい2頭の軍犬が命を落とした。それが英雄化され、シェパードの大ブームが巻き起こったのである。とはいえ当時、犬はその辺で拾ってくるか、生まれた子犬をもらうのが普通だった。高額なシェパードの飼育は富裕層の趣味でしかなかったのだ。

 

 それが俄然注目されるようになり、一般庶民にまでシェパード人気が広まったのである。陸軍の軍犬推進派にとって、これは絶好の追い風だった。もともと軍用犬の研究自体は、大正8年(1919)から歩兵学校で始まっていたが、シェパードは輸入しなければならなかったため、母体となる犬の数自体が少ない。その上、陸軍中央が冷淡でなかなかうまくいかなかった。だが軍用犬2頭の殉職は美化され、子ども向け雑誌で盛んに取り上げられて話題になり、慰霊祭を行う学校も出てきた。それを見て陸軍中央も、軍用犬が戦意高揚に役立つと気づいたのである。

 

 そしてついに、帝国議会で予算がついた。担当は馬政課に決まった。そこで早急に、軍用犬輩出のために団体を結成することになったのである。そのためにはまず、母数を増やすため多くの人に飼ってもらわなくてはならない。また、今まで細々と研究していただけの陸軍にとって、軍用犬を扱う組織を作るのは簡単ではなかった。

 

 そこで目をつけたのが、昭和3年(1929)に民間人が結成していた日本シェパード倶楽部である。一から組織を作るより、この倶楽部を吸収する方が手っ取り早い。日本シェパード倶楽部は、アジア初のシェパード犬団体だった。同好会でも作るような軽い気持ちだったのが、予想外に多くの共鳴者が集まり、本格的な犬種団体として発展しつつあった。

 

 発起人の中島基熊は石油会社の支店長である。他には、電通の前身に当たる日本電信通信社勤務で、盲導犬という名称の名付け親になる中根栄、新宿中村屋二代目社長である相馬安雄、江戸時代から続く裕福な竹問屋に生まれた動物研究家の平岩米吉など、シェパードの飼育層を反映して知識人や富裕層が多かった。

 

 戦争をはさんで、ずっと日本のシェパード界を支え続ける人材が集まったのである。何より、日本シェパード倶楽部は人間の戸籍にあたる犬籍簿を作り、血統の確立を目指していた。これはとても難しい作業なのである。

 

 陸軍は倶楽部の吸収を企図して接触を図る。しかし、倶楽部側から見たら陸軍の馬政課など、「馬のことしか知らないわからず屋」だった。だが時流は陸軍を後押しする。それでも倶楽部の理事たちは、会いたいという要求をのらりくらりとかわし続けた。

 

 しかし、その後も軍からの圧力は続く。当時『犬の研究』という愛犬総合誌があって人気を博していた。そこから「座談会を開くので参加してほしい」の誘いがあって出かけてみると、ずらりと軍人が並んでいて対等な条件による統合話が出たこともあった。

 

 やがて倶楽部の内部にも、時流に乗った親軍派が台頭してくる。一部の理事は帝国軍用犬協会が設立されれば、幹部に登用されることを見込んでいた。軍に近づくことが出世への道になる時代だったのだ。理事たちの間で激論が交わされ、倶楽部内は揺れに揺れた。それ以後、倶楽部が吸収合併されるまでの経緯は、まるで小説か映画のようだった。結局、最後は陸軍大臣から直々の呼び出しがあって、もはや抵抗は不可能になり、倶楽部は犬籍簿を引き渡して解散したのである。一方、帝犬に合流しなかった理事たちは、日本シェパード犬協会という別組織を作って活動した。

 

 こうして発足した帝国軍用犬協会は「軍犬報国」を掲げた。そしてシェパードの飼育を呼びかけ、広く会員を募り、訓練と購買会への参加をうながしたのである。軍用犬適合種は帝犬を通じて購買会に出し、陸軍に買い上げられて初めて軍犬になる。

 

 しかし訓練はしても、実際に購買会に出す飼い主は少なかった。会員も、軍国主義に燃えている飼い主ばかりではなかったのである。そもそも、試験に合格しなければ軍用犬にはなれないから、訓練をしない飼い主もいた。飼っていれば愛着も湧く。帝犬は最後まで犬の調達に苦労した。

 

 とはいえ、シェパードを飼っていながら購買会に出さない飼い主への、周囲からの圧力は強まっていく。2006年8月15日付の東京新聞が、ヤマザキ動物看護短期大学教授(当時)福山英也氏の体験を掲載している。福山氏の家は神田で代々続く呉服店だった。犬好きだった福山氏は、近くの老舗蕎麦店が飼っていたシェパードが、襷をかけ歓呼の声に送られて、振り向きもせずに出征して角を曲がっていった後ろ姿が忘れられないと述べている。

 

 しかし太平洋戦争末期になると、訓練や購買会の開催自体が難しくなった。かくして帝犬も、昭和18年(1943)末には活動を停止し、やがて日本は敗戦の時を迎えた。しかし、誰もが茫然自失の状態にあるなか、帝犬に合流しなかった理事たちが作った日本シェパード犬協会が、いち早く活動を再開した。なんと敗戦の3ヶ月後には世田谷で鑑賞会を開いている。

 

 また、旧帝犬関係者も次第に集まり、昭和22年(1947)3月、上野で日本警察犬協会を発足させた。帝犬と同じく、会員が犬を育てて訓練し、試験に合格すると警察犬になるという仕組みである。これが今日まで続いているのである。物言わぬ最良の友である犬は、かくして人間のために働き続けている。