歴史人より転載。

 

【偉人と犬の物語】犬と猟をこよなく愛した軍人・西郷隆盛

日本人と愛犬の歴史 #18

川西玲子

日本史江戸2024.03.04

歴史に名を残す偉人たちの中には、愛犬家も少なくない。今回は、幕末の日本を駆け抜けた西郷隆盛と犬のエピソードをご紹介しよう。

■猟をこよなく愛した愛犬家

 幕末から明治維新初期にかけて、犬を愛した日本人といえば西郷隆盛である。何しろ上野の有名な銅像が犬を連れているのだ。
 
 西郷の犬好きを示すエピソードはたくさんある。もっとも有名なのは鰻めしの話である。京都の料亭で鰻めしを食べる時、犬も座敷に上げて一人前を注文し、一緒に食べていたという話だ。これは祇園の名妓、君尾の証言である。
 
 西郷が犬をここまで可愛がったのは、猟が好きだったからだ。猟犬を大事にするのは、猟をする者の基本である。しかし西郷の犬好きに関して、鰻めし以外のことはあまり知られていない。西南戦争で最後まで犬を連れていたことや、今生の別れ、犬たちのその後などはもっと知られていい話だと思う。
 
 昭和12年(1937年)、日中全面戦争が始まった年、鹿児島に陸軍大将の制服を着た西郷の銅像が建った。この時に県の教育会が、西郷と出会った人々の思い出話を集めて『南洲翁逸話』をまとめた。
 
 同じ頃、鹿児島新聞が『南洲先生新逸話集』を出しているし、その後も『南洲翁遺訓』『西郷臨末記』など、いくつもの証言集や聞き書きが世に出ている。そして必ず犬のエピソードが出てくる。
 
 これらは国会図書館で、デジタル資料として公開されており、自宅から手軽に読める。実物をスキャンしたものなので、原文そのままの味わいがある。『南洲翁遺訓』は、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ日本の思想シリーズ」に入っている。

 

■激動の時代にも狩猟に明け暮れ、獲物を自分で調理した

 

 いい猟師はいい猟犬を欲しがる。いい犬がいるという話を聞くと、矢も盾もたまらなくなる。西郷はその典型だった。そんな西郷が参議を辞任し、政府を離れた。明治6年(1873年)の政変、いわゆる征韓論政変である。
 
 鹿児島に戻った西郷は狩猟に明け暮れた。12月には13頭の猟犬を連れて、今の指宿(いぶすき)市にある鰻温泉に現れた。偶然とはいえ、温泉の名前が鰻だとは! この温泉は現在も区営温泉として営業し、入口に大きく「西郷どん ゆかりの湯」と書かれている。
 
 西郷はそこから毎日、猟に出かけた。獲物はたいてい兎で、それを自分で調理した。西郷と共に下野した元司法卿、江藤新平が訪ねてきたのは、この頃である。
 
 不平士族に担がれて佐賀の乱を起こした江藤は、政府軍に追い詰められ、西郷に協力を求めてきたのだった。それを断った西郷は、その後も県内各地を転々としながら狩を続けた。
 
 その間にも、いい猟犬がいるという話を聞くと、無理を言っても手に入れようとした。有名な愛犬のツンも、今の薩摩川内(せんだい)市にある藤川天神に参拝した際、近くにいい猟犬がいると聞いて譲ってもらったものである。

 

■苦境に陥った時でさえ、犬とともに猟をし続けた

 

 明治9年(1876年)8月、政府は秩禄処分を行う。氏族は一時金をもらって廃業することになった。各地の不平氏族たちは西郷の決起を期待したが、西郷は狩に明け暮れるばかりだった。
 
 翌明治10年1月末、西郷が私費を投じて鹿児島に設立した私学校の生徒たちが、陸軍と海軍の火薬庫を襲って武器弾薬を奪ったのである。のちに京都市長となった息子、菊次郎の回顧談によると、弟からその報を聞いた西郷は「しまった!」と膝を打ったという。
 
 しかし、桐野利秋ら私学校の幹部らとの話し合いで、西郷は「この身体を差し上げる。いいようにしてくだされ」と出兵論に賛成する。「かくなる上は仕方なし」と覚悟を決めたのだろうか。
 
 2月14日、薩摩軍が熊本城下に侵入して西南戦争が始まった。しかし、1ヶ月後には田原坂の戦いに敗れ、早くも形勢が不利になる。作戦総指揮は桐野がとっており、西郷は表に出なかった。

 

 その後もさすがに毎日ではないだろうが、西郷は狩をしていた。政府からの官位剥奪辞令を渡しにきた県庁の役人も、誘われて一緒に行っている。 

 

 西郷は辞令書を受け取り、嫌な役目を負わされた役人をねぎらったあと、「兎の汁でもこしらえよう」と言って、狩に同行すよう勧めた。連れていったのはカヤとソメの二頭だった。上村は兎汁をご馳走になり、その日は泊まって翌日帰っていった。

 

 薩摩軍は敗走を重ね、5月末には宮崎に入った。そこで西郷が滞在した家の隣に、当時11歳の少年が暮らしていた。西郷はその少年と犬を連れて、しばしば狩に出かけ、兎飯を作って嬉しそうに食べていたのだった。

 

■西南戦争の終結を見届けた犬たち

 

 薩摩軍はいよいよ苦境に陥り、西郷らは8月末に、東に日向灘(ひゅうがなだ)を臨む都農にまで撤退した。当時、都野神社の神主をしていた永友宗義が、のちに『明治十年戦争日記』を書き残している。

 

 これだけは宮崎県立図書館にしかなく、デジタル化されてないので、私は読んでいない。『犬たちの明治維新 ポチの誕生』(仁科邦男)によると、西郷らは枡屋という宿屋にやってきた。その噂を聞いた永友が様子を見にいったのである。

 

 西郷が乗っていると思われる駕籠は、そのまま座敷に担ぎ入れられ、目隠しのため屏風が立てられた。そこに犬が2頭いたのである。そこで永友は西郷だと確信した。「かねて西郷は犬を愛せると聞き及びけるや西郷ならんと推したりなり」

 

 その後、いよいよ追い詰められた薩摩軍は、延岡の北側にある丘陵、和田越(わだごえ)で最後の決戦をする。薩摩軍兵士の数は当初の十分の一に減っていた。

 

 8月15日、68年後に日本人が玉音放送を聴くことになる日、西郷は初めて前線に出て和田越の頂上に立った。西郷の巨体は、どちらの陣営からもよく見えたという。翌16日、西郷は軍の解散を決めて犬を放った。生き残った中尾甚之丞が、のちにその様子を語っている。

 

 「可愛岳(えのだけ)の囲みを破って退却の途についたが、険しい絶壁の下には立ち遅れた先生の愛犬が異様な悲鳴をあげて立吠えをなすので、敗軍の身ひとしお断腸の思いがした」(『南洲翁逸話』)
 
 西郷が連れていたと思われる犬のうち、黒毛犬は38日後、自力で元の飼い主のもとに戻った。やはり薩摩軍にいた東條直太郎は、本営跡に留まっていた犬1頭を保護している。しかし西郷の弟である従道から、譲ってもらいたいという申し出があり、東條は東京まで届けた。従道は兄には味方せず、政府軍側についていた。

 

 10月3日、浪速新聞が他の犬の消息を伝えている。神戸に到着した近衛兵が、西郷の愛犬3頭を連れていたのだ。どれも日本の犬だったという。前述の2頭と合わせて合計5頭になるが、他にもいた可能性がある。

 

 それから1年半後の明治12年(1879年)5月、読売新聞に犬探しの広告が掲載された。「鹿児島産猟犬 毛色黒、身体地犬の小ぶり、立ち耳、名はブチ、何地へか迷い去候に付き」連絡先は永田町の西郷従道だった。この犬は薩摩軍の本営跡で、東條直太郎が捕獲した猟犬ではないだろうか。それが行方不明になった。鹿児島をめざしたのかもしれない……というのは、私の勝手な想像である。

 

以上、転載。

 

昭和12年(1937年)、日中全面戦争が始まった年、鹿児島に陸軍大将の制服を着た西郷の銅像が建った。

 

この記事で、注目した個所。

郷里・鹿児島に帰省したとき、この銅像を見に行った。

ずっと、なぜ軍服なのか、疑問に思っていた。

上野の銅像がなぜ軍服でないのか、その経緯は、NHK大河ドラマでも扱っていた。

十分調べていないが、「日中戦争」の年の建立に、”きも”があるのではないか。

西南戦争は1877(明治10)年だ。1937年は、60年にあたる。

明治維新、それは日本の近代化のスタートだった。

対外主義、植民地主義への道でもあった。

西郷隆盛は、征韓論を唱えたが、帰国した大久保利通らの反対にあった。

しかし朝鮮の支配、中国大陸への侵攻は、1945年まで続いた。