☆ 青い目の犬( 童話集「あやかしまぼろし(2002年)」より) | fitz111のブログ

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日々に ちいさく 生きた道

 青い目の犬 

 

 

  シロというのはおじいさんがその時、そう呼んだんだ。シロは雪の降り落ちるある冬のさかりに、田舎のおじいさんのところにやってきた。おじいさんがある晩、入り口の前に積もった雪をかき出そうと表に出たとき、真っ白な庭のなかで白い犬が雪をかぶってうろうろしていたのを、おじいさんがたまたま見つけたのだ。おじいさんは、

「こんなに雪の降りしきる晩に出会ったのもなにかの縁だ、せめて雪の止むまでは中に入れてやろう」

と、その犬をみて思った。おじいさんは犬のぬれた体をふいてやって、あたたかい飯を与えてみた。犬はときどきおじいさんの顔を見上げては、自分の鼻をぺろりとなめながら、とてもよく食べた。土間に毛布を敷いてやるとそこで丸まってしまった。外は大雪でも家の中はあたたかだ。その晩はシロはおじいさんの家で、毛布から一度も起きだすこともなくぐっすりと眠った。おじいさんの方が、シロのことが気がかりで、ときどき起きだしてはシロの様子をうかがう始末だった。

 翌日、雪は止んだが、シロはおじいさんの家を出ていく気配はなかった。おじいさんも追い出す気もなかった。雪の降るあいだだけ、というおじいさんの思い付きは、元来犬好きなおじいさんにとって、あってないような思い付きだった。シロはおじいさんの家に居つくことになったのである。

 

 シロはおとなしい犬だった。おじいさんの知っている他の犬のように、はしゃぎまわることもなかった。

おじいさんが外で薪割りをしているときだって、向こうの田んぼの畔や小川のほとりで、遠巻きにおじいさんをながめている。おじいさんがシロと呼ぶととことことそばにやって来て、耳をうしろに寝かせてあいさつをするけれども、すぐに庭の軒下に日なたを見つけるとそこでひとり日なたぼっこをはじめてしまう。シロの毛並みは雪野原のように真っ白で、その毛先を光がすいて、シロの背中はきらきらとかがやく。おじいさんの方もそれを見るたび、仕事の手を休めて、遠くから目を細めてながめやるのだ。

 つかずはなれずのシロとおじいさんだったが、おじいさんにはむしろそれが、お互いが距離をおいて相手を認め合っているようにも思えて、安らかな親しみをおぼえたに違いない。おじいさんは、こんな山奥の田舎にすまっていて、さびしいと感じたことはなかったが、それは、おじいさんのまわりの田んぼや森や小川が、今でいうならシロのように、おじいさんの時々の感情をも遠巻きに認めてくれているように思えたからかも知れない。

 

 さて、シロがおじいさんのところにやって来てしばらく過ぎたころだ。おじいさんにしてみれば、いつも目の届く場所にシロはいるはずだったのだが、そのシロがじつは夜中にふっとどこかへいなくなってしまうことがあるのに、おじいさんは気づいた。というのも、ある晩におじいさんが家の戸締りが気になって寝床から起きだしたとき、窓からちょうどシロが垣根を越えてゆくところを偶然見かけたからだ。

「はて、こんな夜更けにシロのやつはどこへ出かけていくんじゃろう」と、おじいさんは不思議に思ったが、もちろんあえて呼び止めることはせずに、ただ、通りに消えていったシロを、まあこういうこともあるだろう、とながめていただけだった。翌日になるとシロは、やっぱりシロのままで、庭におじいさんがこしらえた小さな犬小屋に丸まって寝ていたものだから。それからも二度三度と、おじいさんの知るかぎりで、シロが夜更けにどこかに出かけていくのにおじいさんは気づいていたが、それほど気にならなかったのである。

 ところがある朝、シロの首に、見たこともない鈴を目にしたとき、おじいさんの頭のなかには、いままで夜中に出かけていくシロの姿が、急に目まぐるしく思い起こされてきた。おじいさんは、

「どこかの知らない者がシロの世話をしているのだ」と、思い込んだのだった。

 

 月の明るい晩のことだ。おじいさんは、今しがた出かけたシロのあとを、こっそりつけてもることにしたのである。

 シロは集落を離れ、深い山の沢すじに入っていった。シロはしばらくその沢すじを登ると、今度は一度、沢をそれ、まだ雪の残る林のなかをとことこと歩きつづけた。駆けてるふうでもないのに、シロの進み具合の速いことといったらないのである。足に自信のあったおじいさんも、あやうくシロを見失うほどだった。どれほど歩いたか、やがてまた、さささあーっと水の音がして、べつの沢に出た。空がひらけて、おじいさんの真上に明るく照った月が出た。

「おや、何だろう」と、おじいさんは思った。沢に沿って、向こうに小さな家がある。おじいさんは、こんな場所に人の家などあったかしらんと、変に思った。そのとき、

「だれね?・・・・アオか。こっちへおいで」と、澄んでひびく少女の声がしたのだ。おじいさんは思わず、手にしていた明かりを消した。ちりりんと鈴の音がして、ソロがその少女のそばに寄ったようである。

「この家ではシロはアオと呼ばれてるんじゃな。なるほど、月明かりじゃ白い毛並みも青く見えようて・・・」と、おじいさんは思った。

「アオね、アオね・・・」と、少女はシロをなでるのだった。少女の手がシロの背中を流れるたび、シロは透き通るほど真っ青に美しくなっていった。それはおじいさんのかつて知らないシロの姿だった。少女に飛びついたり甘えたりするようなことは、おじいさんのときもそうだったように無かったが、おじいさんの目には、おじいさんと孫ほど離れた世代である少女のもとで、何だかひとまわりもふたまわりもちがってシロが映っていた。

「シロもうちへ来てしばらくと経たないうちに、ずいぶん大きくなったものだ・・・」

 今アオと呼ばれているシロを目の前にして、おじいさんはふと思った。犬の一生はみじかい。そのみじかい時間のなかでは、シロはおじいさんより人生の先を行っているのかもしれない。暗がりのなかで、おじいさんは、少女とシロのまえで、自分ひとりが取り残されているような感じがした。そして急にかなしくなってしまった。シロを呼びもどしたい。少女はしゃがんでシロを抱き寄せた。シロはその場に座って、月夜の空をあおいでいる。おじいさんは、今まで伏せていた明かりをつけ、シロのほうを照らして、「シロ!」と叫んだのだった。おじいさんの呼び声は暗い林のなかに冴えて響いた。シロはとつぜんあらぬ方向に駆け出し、少女は家の中に引っ込んでしまった。駆け出したシロを追って、おじいさんがどこをどう歩いたか、たどり着いたのはおじいさんの家だった。シロは庭の犬小屋で、何事もなかったように丸まって、息せききったおじいさんを、ただただ眺めていた・・・。

 

 それからずいぶんと日が経った。やがておじいさんの田舎にも、いたるところで、町と同じように雪はとけ、あたたかな春がやってきた。春になり、孫の太郎がおじいさんの田舎にやってきたので、おじいさんは太郎に、その不思議な話をしてやった。

「・・・近ごろ物忘れがひどいせいか、あれから昼の明るい時分に通ってみたんだが、かいもく道を思い出せんでの・・・」

おじいさんはつぶやくようにそう言った。そばでじっと聞いていた孫の太郎は、おじいさんの話が終わっても、少女のいたその家が本当にあったのかまだ信じられない様子らしかった。

「あのとき、わしがシロの名前を呼んだ時こそ、本当にシロがいなくなってしまう時なんじゃと、そんな気もしてたけども・・・」

 おじいさんはそういうと口をなかば開いて、ぽーっとしてしまった。おじいさんの節くれだった指にはさんであるタバコは、根元までとうに灰になってなくなっている。太郎は春のぽかぽかする縁側で、今こうしておじいさんといることも夢のなかにあるような気持ちになった。

「シロは今はいないの?」と、太郎がたずねると

「いるよ。あっちの庭におる」

おじいさんはそう言うとあくびをした。そして立ち上がると、のろのろと奥に引っ込んでしまった。おじいさんが引っ込んだのと入れ違いに、太郎のお母さんが、そろそろ帰りますよ、と太郎を呼びに来た。太郎は庭におりた。横に庭にまわると、そこの日なたでシロは春の陽気につつまれて丸まっていた。太郎が頭をなでてやると、シロは目をぱちぱちさせながらそのままでいた。シロの首には例の鈴がついていた。その鈴が、風のせいか鳴っているように太郎には思えた。やがてシロの目をのぞきこんだ太郎は、シロのぺたんと垂れた耳にそっと言ったのだ。

「シロ、おまえの目は真っ青だ・・・」

 

 太郎は帰りの車の中でお母さんにたずねた。

「おじいさんは物忘れがひどいの?」

「ひどいもんですか。何でもよく覚えておいでですよ。こっちの物忘れがひどいくらい」

お母さんはそう言って笑った。

 こうして太郎の不思議を乗せた車は、大きな音をたて、おじいさんの田舎の春を一気に走り抜けたのである。

 

                                                     (了)