上赤坂城(楠木城)にいってきました。

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赤坂城
あかさかじょう
鎌倉末期から南北朝期に楠木(くすのき)氏が拠(よ)った城。上赤坂城と下赤坂城の二つからなり、ともに大阪府南河内(かわち)郡千早(ちはや)赤阪村にある。千早城を詰めの城、上赤坂城を本城、下赤坂城を前衛の城とするもので、1331年(元弘1)笠置(かさぎ)山城が落ちた直後、楠木正成(くすのきまさしげ)が護良親王を奉じて、本丸、二の丸、三の丸、出丸からなる下赤坂城を築いたのが始まりである。正成は奇計をもって鎌倉幕府の大軍を悩ませたが、同年10月に攻め落とされた。上赤坂城は、翌1332年、正成が千早城に再挙したときに築かれた山城(やまじろ)で、楠木氏の本城とされ、部将の平野将監(ひらのしょうげん)が守っていた。本丸、二の丸の二つの曲輪(くるわ)からなり、周囲には帯曲輪がみられる。1360年(正平15・延文5)北朝方の細川清氏(ほそかわきようじ)に攻められて陥落した。
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こちらは一の木戸跡。木戸とは城門のことです。



道は全く舗装されておらず、このような状態。
折から雪が降ってきたため、地面が滑りやすい状態になっていました。
タクシーの運転手曰く、大阪とここでは気温が4度くらい低いとのこと。
大阪市内の気温は4度でしたが、ここでは0度になっていました。
赤坂城とは上赤坂城と下赤坂城の2つより構成されており、上赤坂城は楠木本城と呼ばれ、標高350メートル(麓からは150メートル)地点にある山城です。
楠木正成が築城したと言われています。
上赤坂城の戦いは、元弘3年(1333年)2月に始まります。
この山城を攻めるべく、幕府は8万の軍勢で襲いかかります。
上赤坂城の大将は正成の部下である平野将監。副将は正成の弟正季で、兵力はわずか300。
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楠木正季
没年:建武3/延元1.5.25(1336.7.4)
生年:生年不詳
南北朝期の武将。楠木正成の弟正氏とする系図もある。七郎左衛門,帯刀と称す。後醍醐天皇の建武新政下で窪所,武者所などに属して政権の担い手となったが,建武3/延元1(1336)年の足利尊氏・直義軍と播磨湊川(神戸市)での戦に敗れ,兄正成と刺し違えて自害した。『太平記』の伝えるところによれば,正季は死に臨み「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ,朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候ヘ」と述べ,兄はこれを喜んだという逸話を残しており,兄と共に壮絶な最期をとげた。<参考文献>植村清二『楠木正成』
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平野らは300の兵で幕府軍をよく防ぎ、敵軍に糞尿をかけた奇策は「糞谷」という地名になって残っていると言います。周囲の味方も盛んに側面攻撃をおこない、幕府軍は攻城7日間で2000名近い死傷者を出しました。
その状況をみた、播磨の吉川八郎という歴戦の武士が、
「城の三方は谷が深く僅かに南だけが山に続いている。城中の用水はここから引いているに違いないから水の手を断つ作戦を取れば良い」
と進言。
上赤坂城の裏手から夜襲をかけ、上赤坂城の水脈を断ちます。
平野は本領安堵の約束で降参しますが、六波羅探題へ送られ、六条河原で斬首されました。これをみた楠木方は幕府に降伏しても殺されるだけだと、ますます戦意を高め、幕府方に投降しようという者はいなくなったと言います。
正季は逃走に成功し、金剛山へと逃げのび、戦いの舞台は千早城へと移っていきます。

道の途中で案内板があります。
これは二の木戸の案内板。首切り場があることが記されています。

こちらが首切り場の跡。

ここからではわかりづらいですが、土を盛った橋になっており、そろばん橋と言います。

上赤坂城本丸跡です。
小さい標識は昭和11年に南河内郡東部教育委員会が建立したものであり、大きい方は昭和10年に大楠公600年祭記念事業として山下まで運ばれていたものの、戦争に突入したため放置されていました。
昭和58年になって楠公史跡保存会がこの地へと移動させ、建立することができました。

本丸跡から眺める景色。
金剛山などもよく見える絶景の眺望です。

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赤坂城
あかさかじょう
鎌倉末期から南北朝期に楠木(くすのき)氏が拠(よ)った城。上赤坂城と下赤坂城の二つからなり、ともに大阪府南河内(かわち)郡千早(ちはや)赤阪村にある。千早城を詰めの城、上赤坂城を本城、下赤坂城を前衛の城とするもので、1331年(元弘1)笠置(かさぎ)山城が落ちた直後、楠木正成(くすのきまさしげ)が護良親王を奉じて、本丸、二の丸、三の丸、出丸からなる下赤坂城を築いたのが始まりである。正成は奇計をもって鎌倉幕府の大軍を悩ませたが、同年10月に攻め落とされた。上赤坂城は、翌1332年、正成が千早城に再挙したときに築かれた山城(やまじろ)で、楠木氏の本城とされ、部将の平野将監(ひらのしょうげん)が守っていた。本丸、二の丸の二つの曲輪(くるわ)からなり、周囲には帯曲輪がみられる。1360年(正平15・延文5)北朝方の細川清氏(ほそかわきようじ)に攻められて陥落した。
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こちらは一の木戸跡。木戸とは城門のことです。



道は全く舗装されておらず、このような状態。
折から雪が降ってきたため、地面が滑りやすい状態になっていました。
タクシーの運転手曰く、大阪とここでは気温が4度くらい低いとのこと。
大阪市内の気温は4度でしたが、ここでは0度になっていました。
赤坂城とは上赤坂城と下赤坂城の2つより構成されており、上赤坂城は楠木本城と呼ばれ、標高350メートル(麓からは150メートル)地点にある山城です。
楠木正成が築城したと言われています。
上赤坂城の戦いは、元弘3年(1333年)2月に始まります。
この山城を攻めるべく、幕府は8万の軍勢で襲いかかります。
上赤坂城の大将は正成の部下である平野将監。副将は正成の弟正季で、兵力はわずか300。
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楠木正季
没年:建武3/延元1.5.25(1336.7.4)
生年:生年不詳
南北朝期の武将。楠木正成の弟正氏とする系図もある。七郎左衛門,帯刀と称す。後醍醐天皇の建武新政下で窪所,武者所などに属して政権の担い手となったが,建武3/延元1(1336)年の足利尊氏・直義軍と播磨湊川(神戸市)での戦に敗れ,兄正成と刺し違えて自害した。『太平記』の伝えるところによれば,正季は死に臨み「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ,朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候ヘ」と述べ,兄はこれを喜んだという逸話を残しており,兄と共に壮絶な最期をとげた。<参考文献>植村清二『楠木正成』
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平野らは300の兵で幕府軍をよく防ぎ、敵軍に糞尿をかけた奇策は「糞谷」という地名になって残っていると言います。周囲の味方も盛んに側面攻撃をおこない、幕府軍は攻城7日間で2000名近い死傷者を出しました。
その状況をみた、播磨の吉川八郎という歴戦の武士が、
「城の三方は谷が深く僅かに南だけが山に続いている。城中の用水はここから引いているに違いないから水の手を断つ作戦を取れば良い」
と進言。
上赤坂城の裏手から夜襲をかけ、上赤坂城の水脈を断ちます。
平野は本領安堵の約束で降参しますが、六波羅探題へ送られ、六条河原で斬首されました。これをみた楠木方は幕府に降伏しても殺されるだけだと、ますます戦意を高め、幕府方に投降しようという者はいなくなったと言います。
正季は逃走に成功し、金剛山へと逃げのび、戦いの舞台は千早城へと移っていきます。

道の途中で案内板があります。
これは二の木戸の案内板。首切り場があることが記されています。

こちらが首切り場の跡。

ここからではわかりづらいですが、土を盛った橋になっており、そろばん橋と言います。

上赤坂城本丸跡です。
小さい標識は昭和11年に南河内郡東部教育委員会が建立したものであり、大きい方は昭和10年に大楠公600年祭記念事業として山下まで運ばれていたものの、戦争に突入したため放置されていました。
昭和58年になって楠公史跡保存会がこの地へと移動させ、建立することができました。

本丸跡から眺める景色。
金剛山などもよく見える絶景の眺望です。