池田草庵の青谿書院にいってきました。


豊岡は幕末から明治にかけて活躍する人材を次々と輩出していきます。

一例をあげると以下のとおり。

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北垣国道

没年:大正5.1.16(1916)
生年:天保7.8.27(1836.10.7)
明治期の官僚。父は鳥取藩郷士北垣三郎左衛門。号は静屋。文久3(1863)年尊攘派の志士平野国臣らが公家沢宣嘉を奉じて但馬国(兵庫県)生野代官所を襲撃した生野の変に参加し,失敗すると長州に逃走,同地で沢を迎えた。その後,鳥取に帰り切腹を図ったが,母に戒められ思いとどまった。戊辰戦争(1868~69)には藩士に列せられ参軍。維新後明治2(1869)年弾正少巡察に,さらに廃藩置県(1871)の際に郷里鳥取県の少参事に任じられた。その後,高知・徳島両県令を経て,14年1月から25年7月まで11年余にわたって京都府知事を務めた。在任中,京都商工会議所設立を認可し,琵琶湖疏水事業を計画,着手するなど同地の殖産興業政策を進めた。選挙干渉で有名な第2回総選挙ののち白根専一の後任として内務次官になったが,3日後に北海道庁長官に転じる。品川弥二郎とは親しい関係にあった。29年男爵に叙せられた。晩年は貴族院議員,枢密顧問官を務めた。<参考文献>井輪屋良二郎編『京都府知事北垣国道略伝』
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原六郎
はらろくろう
(1842―1933)

実業家。豪農進藤丈右衛門の六男として但馬(たじま)国(兵庫県)朝来(あさご)郡に生まれる。池田草庵の青谿(せいけい)学院に学び、志士と交わり尊王倒幕運動に加わる。明治維新後、欧米に留学し経済学や銀行業を学び、1878年(明治11)第百国立銀行を創立し頭取(とうどり)となる。80年東京貯蔵銀行を創立して貯蓄銀行に先鞭(せんべん)をつけ、さらに83年には横浜正金(しょうきん)銀行の第3代頭取に就任し同行の再建を果たした。また日本銀行、台湾銀行などの創立委員を歴任してわが国銀行業の確立に多大の業績を残したほか、各種企業の役員として財界でも有力な地位を占めた。後年いっさいの事業を養嗣子(ようしし)邦造に譲り、隠退してキリスト教に帰依(きえ)し宗教生活に余生を送った。[浅野俊光]
『板沢武雄・米林富男著、原邦造編・刊『原六郎翁伝』全3巻(1937)』
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浜尾新

没年:大正14.9.25(1925)
生年:嘉永2.4.20(1849.5.12)
明治の教育行政官。東大の揺籃期からの育成者。但馬(兵庫県)豊岡藩の下士浜尾嘉平治と妻ゆうの子に生まれた。明治初年,慶応義塾,大学南校などに学ぶ。明治5(1872)年南校舎中監事となり,6年米国オークランドの兵学校に留学,学校運営を実地に学ぶ。7年帰国し,東京開成学校長心得,東大法理文3学部綜理補を歴任。26年帝大総長,30年文部大臣となる。温厚な人柄ゆえ人望があり,東京帝大法科大教授戸水寛人が日露講和時期尚早論を展開し,時の桂内閣によって休職処分になった戸水事件(1905)の折は再び東京帝大総長に就任しこれを鎮めた。大正時代には東宮御学問所副総裁として7年間,後の昭和天皇の文化人としての教育に努め,大正13(1924)年には枢密院議長に就任した。
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河本 重次郎

生年安政6年8月16日(1859年)
没年昭和13(1938)年4月4日
出生地但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)
学歴〔年〕東京大学医学部〔明治16年〕卒

明治~昭和期の眼科学者 東京帝国大学教授。 日本初の眼科学者。

経歴明治18年文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学で眼科を専攻、日本初の眼科学者となる。23年に帰国後は帝国大学教授となり、同医学部に新設された眼科学講座を担当した。30年には日本眼科学会を設立し、その初代会長に就任。ドイツの医学雑誌に多数の論文を発表したほか、「眼科学」「検眼鏡用法」「全身眼病論」などの著書を刊行するなど、我が国における眼科学の発展に大きく寄与している。
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久保田譲 くぼた-ゆずる

1847-1936 明治-大正時代の官僚,政治家。
弘化(こうか)4年5月10日生まれ。明治5年文部省にはいり,学制の整備・改革をはかる。文部次官をへて,第1次桂内閣の文相。38年日露戦争の講和交渉を批判した東京帝大教授戸水寛人(とみず-ひろんど)を休職処分にした事件で引責辞職(戸水事件)。貴族院議員。昭和11年4月14日死去。90歳。但馬(たじま)(兵庫県)出身。
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井上光

没年:明治41.12.17(1908)
生年:嘉永4.11.8(1851.11.30)
明治期の陸軍軍人。岩国藩(山口県)藩士森脇兵介の子。同藩精義隊員として戊辰戦争に従軍。戦後御親兵小隊長となった。日露戦争(1904~05)では第12師団を率い,鴨緑江,細河の攻略に成功して男爵を授けられ,明治41(1908)年大将に進んだ。緻密な性格で陽明学にも明るく,書道を得意とした。
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その他、第二高等学校(現、東北大学)初代校長となった吉村寅太郎などがいます。

これだけの人材を輩出した偉大な教育者が、池田草庵、その人であったわけです。

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池田草庵

没年:明治11.9.24(1878)
生年:文化10.7.23(1813.8.18)
幕末維新期の漢学者。但馬養父郡宿南村(兵庫県八鹿町)の人。名は緝,字は子敬,通称は禎蔵。草庵と号す。農家の3男に生まれ,寺にあずけられたが,19歳で還俗して京都に上り,相馬九方 に師事。その学ははじめ徂徠学であったが,のちに春日潜庵と交友,京都松尾山中に隠栖して思索にふけり,朱子学や陽明学を修めた。31歳で故郷に帰り開塾,35歳のとき,青谿書院を建てて亡くなるまで,ここで後進の指導に当たった。詩文を好み,何よりもその篤実な思想,行動から,但馬聖人と呼ばれた。<著作>『池田草庵先生著作集』
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池田草庵については、大体上記のとおりとなりますが、39歳のとき宇都宮藩から招聘を受けていますが、これを断っています。

その辞退の弁は、

「人間は名声や金銭、安楽な生活に心を奪われては真の学問はできぬ。清貧に甘んじ自由で誰からも拘束されない境地で生き方をさぐり併せて郷里の人材を教育することこそわが道」

というものでした。

池田草庵の思想とは、名利にとらわれず学問一筋に励み、聖賢の教えは研究するだけでなく実践して始めて見を伴うという考え方であり、子弟たちに誠心誠意、仁義廉恥、良知磨練を教えています。


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志は高遠(こうえん)を期し、功は切近(せっきん)を貴ぶ。
「肄業餘稿(いぎょうよこう)19条」
<理想は高く持ち、学問は身近に役立つことを重んじる>

学を為すは、例(たと)うれば猶山(なおやま)に登るがごとし。辛さを喫(きっ)し、苦しきを喫して、歩歩力(ほほりょく)を著(つ)け、而(しか)る後、能(よ)く千仭(せんじん)の高きに至る。高きに至れば則(すなわ)ち眼界自(がんかいおのずか)ら闊(ひろ)く、況味超然(きょうみちょうぜん)たり。
「肄業餘稿36条」
<学問をすることは、例えれば、山に登るようなものだ。つらさを味わい、苦しさを味わい、一歩一歩力強く進んでいき、ようやく高いところに達する。高いところに到達すると、視界が自然と広く開け、今までの自分から抜け出し、高く超えたような気持ちになるものである>

学ぶものは、事(こと)を厭(いと)い、労を辞すべからず。
「肄業餘稿93条」
<学問をする者は、日常の営みや働くことをいやがってはいけない>

人を欺(あざむ)くべきも、自らは欺くべからず。
「肄業餘稿143条」
<人は欺くことができても、自分は欺くことはできない>

凡(およ)そ学ぶものは、以(もっ)て、自己の心身を成就(じょうじゅ)するのみ。
「肄業餘稿252条」
<学問をする者は、学ぶことによって自分の身と心をりっぱに完成させることが大切である>
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http://research.php.co.jp/oumei/municipality/senjin_ikedasouan.php


草庵は18歳のとき、相馬九方の私塾「立誠塾」(相馬塾)で学びます。そこで生涯の友となる春日潜庵と知り合います。

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春日潜庵 かすが-せんあん

1811-1878 幕末-明治時代の儒者。
文化8年8月3日生まれ。五十君南山らに朱子学をまなび,のち陽明学に転じた。公卿(くぎょう)久我(こが)家の諸大夫となり,久我建通らにつかえる。尊攘(そんじょう)派の梁川星巌(やながわ-せいがん)らとまじわり,安政の大獄で永押込(ながおしこめ)に処せられる。慶応4年大和鎮撫総督久我通久(みちつね)の参謀,ついで奈良県知事となった。明治11年3月23日死去。68歳。京都出身。名は仲襄。字(あざな)は子賛。著作に「陽明学真髄」「読易抄」。
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草庵と春日潜庵はともに陽明学を学び、24歳のときから6年間「終日坐して読む、古人の書」というほど読書に専念。自ら「草庵」と名乗るようになります。

そして28歳のとき春日潜庵の邸近く、京都一条烏丸西に私塾を開き、陽明学者として確立することとなります。

草庵30歳のとき、吉村秋陽と知り合います。

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吉村秋陽 よしむら-しゅうよう

1797-1866 江戸時代後期の儒者。
寛政9年2月4日生まれ。京都で伊藤東里(とうり)に古義学をまなび,郷里安芸(あき)広島藩の家老三原浅野家につかえる。天保(てんぽう)元年江戸の佐藤一斎に入門,朱子学から陽明学に転じた。7年長門(ながと)(山口県)長府藩にまねかれた。慶応2年11月15日死去。70歳。本姓は小田。名は晋。字(あざな)は麗明。通称は隆介,重介。
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吉村は佐藤一齋の高弟で、彼の紹介で林良齋と知り合います。

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林良斎 はやし-りょうさい

1807-1849 江戸時代後期の儒者。
文化4年生まれ。讃岐(さぬき)(香川県)多度津(たどつ)藩の家老。病弱のため辞職し多度津に私塾弘浜書院をひらく。大塩平八郎に陽明学をまなび,池田草庵,吉村秋陽,春日潜庵らとまじわった。嘉永(かえい)2年5月4日死去。43歳。名は久中。字(あざな)は子虚。通称は求馬,直記。別号に自明軒。著作に「類聚要語」「自明軒文鈔」など。
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その後、備中松山にて山田方谷

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山田方谷

没年:明治10.6.26(1877)
生年:文化2.2.21(1805.3.21)

幕末維新期の儒学者。名は球,字は琳卿,通称安五郎,方谷は号。備中国阿賀郡西方村(岡山県高梁市中井町)に絞油業を営む父五郎吉(重美)と母梶の長男に生まれる。丸川松隠に就き,のち文政8(1825)年上洛して寺島白鹿に学び,10年松山藩(岡山県)藩校有終館会頭となり,士籍に列した。天保2(1831)年再上洛,春日潜庵ら陽明学者と往来,翌年江戸に出て佐藤一斎に師事する。7年帰藩後藩校学頭。嘉永2(1849)年藩主板倉勝静の抜擢により元締役兼吟味役,またのち郡奉行となり破綻した藩財政の立て直しを行う。学者としての名声高く,久坂玄瑞,秋月胤永,河井継之助らが来遊従学する。文久2(1862)年藩主が老中に就任するや,方谷を顧問とした。慶応1(1865)年藩主の老中復職後再び顧問となり幕末政局に対するが意を得ず帰藩する。維新後はもっぱら教育に努め,明治6(1873)年再興の岡山県閑谷学校に請われて出講した。その思想は陽明学であるが,単なる祖述に終わらず「経世致用の学」との自信に裏付けられていた。<著作>『山田方谷全集』<参考文献>山田準『方谷先生年譜』
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と交流を結びます。


嘉永6年、草庵は佐藤一齋の講義を受けたいと上京してきます。

一齋の講義については、同行者で弟子でもある池田盛之助の日記に、

「一齋の講義を聴く者40~50人、中には居眠りをしている者もあり。真剣な雰囲気がなく、講義そのものからも感銘を受けることはなかった」

とありますが、おそらく草庵にとっても物足りないものとなったと思われ、草庵は専ら写本と一齋の高弟である大橋訥庵と交流を深めていき、二人は「千古の心友」となりました。

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大橋訥庵

没年:文久2.7.12(1862.8.7)
生年:文化13(1816)
幕末の尊攘派志士,儒者。長沼流兵学者清水赤城の4男。名は正順,字は周道,通称順蔵,訥庵は号。佐藤一斎門下。江戸の豪商大橋淡雅の養子となり,その援助で宇都宮藩に仕えるとともに,日本橋に思誠塾を開き子弟の育成に努めた。
のちに陽明学を排して朱子学を奉じ,過激な攘夷論を主張し,ペリー来航時には幕府に上書して攘夷の実行を迫った。
また安政の大獄の際には,刑死した頼三樹三郎の死体が晒されているのを悲しみ,密かに葬っている。桜田門外の変後は和宮降嫁,公武合体に反対し,王政復古策を密奏するとともに日光輪王寺宮擁立運動に加わる。
これが未発に終わると関東の尊攘激派による老中安藤信正襲撃計画に合流,その斬奸趣意書を起草したといわれている。
その一方で一橋慶喜を擁立した挙兵計画にかかわり,信正襲撃3日前の文久2(1862)年1月12日,捕らえられた。挙兵を計画すれば実行に加わる有志が次々に現れるであろうとの楽観論を持ち,その状況認識には甘さがみられる。
獄中で病気になり,7月7日,許されて出獄し宇都宮藩に預けられたが,同12日に死去した。<参考文献>『大橋訥庵先生全集』全3巻
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こちらの写真は、佐藤一齋を訪問した勉強の旅日記。


草庵が好んで書いた言葉に、


為天地立心,為生民立命,為往聖繼絕學,為萬世開太平


というのがあります。

天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く。

これは宋代の張横渠の言葉ですが、

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張載
ちょうさい
(1020―1077)

中国、北宋(ほくそう)の思想家。字(あざな)は子厚(しこう)、鳳翔(ほうしょうび)県(いまの陝西(せんせい)省眉県)横渠鎮(おうきょちん)の人で、世に横渠先生と称された。程(ていこう)・程頤(ていい)の表叔(母方の叔父)である。異民族の侵入もある土地柄から、青年時代、軍事を論ずることを好んだが、范仲淹(はんちゅうえん)との出会いを契機に名教(儒教)に志し、仏老の書にも目を向けながら研鑽(けんさん)の日々を送った。38歳、程頤らとともに科挙に及第し、地方官としてとくに辺境の民政軍事面に見識を示した。やがて神宗(しんそう)に召され、三代の治の復活を進言して古礼を説き井田(せいでん)制を主張したが、結局王安石(あんせき)とあわず、故郷に帰り講学に専念した。陝西つまり関中で講学したので、その学派を関学と称する。張載はとくに思想的に仏教との対決を試み、その幻妄説の排撃を意図して「太虚(たいきょ)即気」論を唱えた。そして仏者の心性説に対抗すべく、気の存在論と心性論の統一を図ろうとした。虚無・空無を否定して気が聚(あつ)まると万物となり、気が散じると太虚となると考え、人間の認識のいかんにかかわらず万物の変化は気によることを明確にした。物の生成をめぐる一気と陰陽の関係の分析や、気質という概念の提出は、天地の性、気質の性という性論、気質を変化させるという修養論とともに、朱子学の形成に大きく関与した。また明清(みんしん)時代、王廷相(ていしょう)や王夫之(ふうし)、戴震(たいしん)らいわゆる気の思想家に多大の影響を与えている。著作には『正蒙(せいもう)』『西銘(せいめい)』『易説』などがあり、『張氏全書』に収める。1978年、中国からより完備した『張載集』が刊行されている。[大島 晃]
『西晋一郎・小糸夏次郎訳注『太極図説・通書・西銘・正蒙』(岩波文庫)』
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『近思録』にも収録されている有名な言葉です。

「為萬世開太平」という言葉でお気づきの方もおられるように、終戦の詔勅の出典となった言葉でもあります。






青谿書院こそ、池田草庵が偉大な子弟を輩出した場所、「但馬の松下村塾」とでも言えるかも知れません。

草庵は30歳のとき、八鹿村に帰り「立誠舎」という私塾を開きます。

青谿書院は草庵が35歳のときに建てて移ったものとなります。





上の写真は池田草庵が教えていたころの建物ですが、ほとんど変わりないことがわかります。

草庵が亡くなるまで、立誠舎と青谿書院で学んだ弟子は673名でした。

草庵の死後、弟子たちは明治20年に山陰義塾を設立しますが、資金難となり明治28年に閉校。

その後、明治30年に県立簡易蚕業学校を創設し、現在の県立八鹿高校、但馬農業高校となっていきます。





池田草庵の写真です。明治11年、亡くなる少し前に草庵の弟子が写真撮影したものです。








草庵が教えていた場所です。

生徒側と草庵側の視線の二つを撮影。







こちらのトイレ、当時のまま残っております。





トイレの扉についている無数の黒い跡がわかると思います。

これは深夜になっても門下生は勉強していたため、トイレにロウソクの炎の跡がついたためです。

昔の人の向学心たるや凄まじいものがあります。私もまだまだ遠く及びません。。。。






このモミの木は、弘化4年(1847)、青谿書院を開塾した記念に門人らが植樹したものとなります。170年近く経つ今もそびえています。





「青谿書院ノ記」です。

明治13年に門人たちが建立しました。

これは青谿書院の建学の理念を記したもので、青谿の景勝を真に永遠ならしめるためには、自分(草庵)が古人に恥じない百世の師とならなければならないとの自戒が記されており、明治三大書家の一人、長三洲の揮毫となっています。

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長三洲

没年:明治28.3.13(1895)
生年:天保4.9.22(1833.11.3)
幕末明治の漢詩人。名は〓,字は世章,秋史,通称は富太郎,光太郎。三洲は号。豊後国(大分県)日田の医者で漢詩人であった長梅外の長男。父の薫陶を受け,のちに広瀬淡窓の咸宜園に学んで頭角を現した。18歳で淡窓の弟旭荘の大坂の塾に招かれて塾長を務めたが,次第に尊王攘夷論に傾倒するようになり,長門藩に仕えて奇兵隊に加わり,各地を転戦した。木戸孝允の知遇により新政府に出仕,権大史,大学少丞,学務局長兼侍読などを歴任し,明治10(1877)年に致仕。その後は詩文書画を楽しむ自適の生活を送った。木戸孝允の奏議の文章は多く三洲の手になるという。『三洲居士集』などがある。<参考文献>『明治漢詩文集』(明治文学全集62巻)
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上の写真手前に小さい石碑がありますが、こちらは「松風洞」とあり原六郎が寄贈したことが書かれています。

おそらく上の建物のことを指しているのではないかと思います。

中は池田草庵らを祭っています。







途中、池田草庵の墓という矢印つきの看板を見つけ、行こうとしたのですが、網が張られていて行くことが出来ませんでした。。。。(-_-;)

おそらくあそこがお墓だと思われる場所を撮影。





青谿書院には資料室があり、こちらは門下生が発言する機会を公平に決めるため使っていた抽せん器だそうです。

竹でできており、棒には墨書または朱書きで、「斎」「元」「江」「冬」などの文字が書かれているそうですが、これを使ってどのように順番を決めたかはわからないのだとか。

近江聖人といえば、中江藤樹が有名ですが、但馬聖人、池田草庵も中々興味深いものがあります。

良い勉強をさせていただきました。