自尊心 | The life of fiskflickan

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大抵常に何かくだらないけど面白いことを考えています。
そんなわたしの頭のなかで起こっているランダムなことを書いていきます。

ついこの間、ふと思った。

わたしたち日本人は子供の頃から、親や先生から良く言えば人の気持ちを考えるように教えられる。

わたしたちは
人の気持ちを察するようになる。
顔色・声色を伺うようになる。
空気を読もうとするようになる。
和を乱さないように周りに合わせるようになる。
人に迷惑をかけないようにと考えるようになる。


しかし、今までに誰かから
「自分を愛してあげなさい。」
「自分の気持ちも考えてあげなさい。」
「自分のことも大事にしてあげなさい。」
「自分を優先してあげなさい。」
と、教えられた覚えがない。

そういう風に育ってきて、
自分の人生さえも自分中心に考えて生きられてないと感じるときがある。
他人・社会が自分の思考の中でさえ優先されるのだ。


それを実感したのが数ヶ月前、結構厳しい腹痛に襲われていたときだった。
わたしの頭の中に浮かんでいた一番はっきりした思いは、
「何か悪いもの食べたか?」でも「なんでわたしがこんな目に?」でもなく
「これ、今わたしは仕事も何もしてないからいいものの、仕事の予定でもあって、こんな腹痛にでもなったら働けないじゃないか!そんなことでどうする!」(迷惑になる)というような自分を責める内容だった。
その時、なんとなく自分が自分をどこか「製品」として見ている部分がある事に気づいた。
そんな自分を少し可哀想に思うと同時に、日本人ならわたしと同じように自分を扱っている人は珍しくないのではないかとも思う。(日本でこれを言うと「何が『自分可哀想』だ!もんなもっとつらい想いしてる!」と言われそうで怖いが・・・)


わたしがスウェ-デンで鬱気味になることがあるのは、
もしかするとスウェ-デン人や他の移民が自分主体で時にはわがままに自分という存在を大事に、一番に考えてやりながら生きているのを間近で見るからというのが理由の一つではないかと今日思い始めた。

わたしの中で、そういう人たちを横目に見ながら、どこか羨ましいと感じるところがあるのではないか。
自分もそういう風に生きてみたいと感じるところがあるにも関わらず、
日本人的な部分が今までの他人の気持ち優先を考える思考パタ-ンが修正できなかったり、
他の日本人からの反応が怖かったり、
そのパタ-ンを「変えてはいけない」というようなおかしな感情が重石のようにかかっていて、
思うように自分を解放してやることが出来ずにストレスとなっていた(いる)のではないかと考え出した。

考えてみると、自分大好き人間(表現が少しおかしいが、他に思いつかない)ほど堂々としていて楽しそうな人はいない。

自尊心の高い人といえば「自分大好き人間」よりわたしが意としているものに近いかもしれない。
日本人的な考えだと、もしかすると「自尊心が高い」=高慢だと考える人もいるかもしれない。
わたしも正直、そういう考えを持っていた。
しかし、自尊心と自信は違うものだということ、
自尊心というものが本当はどういうものなのかというのをインタ-ネットサイトで読み考えを改め、
今更ながら自らの自尊心を育ててやりたいと思うようになった。

手始めに現在、自分を責めない・否定しない・他人が自分に対して言いそうな批判を頭に浮かばせない(勝手に浮かんでくることが多いため)を実行している。
自分というものをどうであれ肯定してやるのだ。

例えば、
昼まで寝た日があっても、
食べ過ぎても、
一日引きこもってしまっていても、
体調が悪くなってしまっても、
スウェ-デン語が酷いくらい出てこない日でも、
太っていても、
不細工でも、
(他人から見て)おかしな格好をしていても、
人と考えが違っても、
風変りだったりアブノ-マルなことが好きでも、
自分を否定しない。

逆に出来たことには小さなことでも「出来た!」と思うようにする。

誤解されると嫌なので一応書いておくが、
昼まで寝ていて、
暴飲暴食をし、
引きこもって、
体調を崩し、
スウェ-デン語はさっぱり。
「それでもいいやー!」と言っているのではない。
それは違う。


言いたいことが伝わっているかどうかはわからないが、
これから自分の気持ちがどれくらい楽になっていくか実験してみる。
自尊心が育ち、自惚れまで身についたとしたら、もうプレゼンテ-ションなんか怖くもなんともないはずだ。