わたしのパ-トナ-のアパ-トのバルコニ-からは隣のアパ-トのフロントドアや窓が見える。
一年ほど前に尋ねてきた際にいつも部屋の窓から外を覗いているおばあさんを見つけた。
おばあさんはかなり年をとっているようだった。
でも、ひとりで暮らしているようだった。
毎日、そのおばあさんはまるで他の住人の監視員でもあるように窓から外を覗いていた。
わたしとパ-トナ-はそのおばあさんを「見ているおばあさん」と名づけ、面白半分に毎日何度もバルコニ-からおばあさんを見た。
外を見ている「見ているおばあさん」を観察していた。
話をするわけでもなく、手を振るわけでもなく、 朝起きてブラインドを開けておばあさんが窓辺に立っているのを見た。 夜もおばあさんの部屋の電気がついているか消えているか見た。
おばあさんを見るのが習慣になった。
そのうち、わたしは日本に帰り、おばあさんを見れなくなった。
でも、おばあさんのことは忘れてはいなかった。
パ-トナ-の国への移住が決まってから、少なからずわたしはおばあさんのことを考えた。
「引っ越したら思い切って窓越しにおばあさんに話しかけてみよう」
「紙に大きく文字を書いて掲げたら読めるだろう」
「もしかしたら友達になる日が来るかもしれない」
おばあさんの部屋でお茶することを想像したりもした。
なんというのだろう。
友達でもなんでもない。
でも、そこに居てあたりまえの存在だった。
引っ越してきて、1年前にしていたように窓からみているであろうおばあさんを見ようとブラインドを開けてみた。
もしかするとバルコニ-に出てみたかもしれない。
そこからわたしが見たのは空っぽの窓だった。
花が植わってるプランタ-もなかった。
おばあさんも窓辺に立って無かった。
キッチンの窓から見えていた家具も無かった。
空だった。
階を見直してみた。
やっぱりおばあさんの部屋だった。
おばあさんはいなくなっていた。
パ-トナ-は「死んだのかもしれないし、ケアホ-ムに移ったのかもしれないよ」と言った。
知らないおばあさんだ。
わたしのじゃない。
どんなひとだったのかも知らない。
もしかしたらとんでもない意地悪ばあさんだったかもしれない。
もう、おばあさんはいない。
でも、わたしはやっぱり今もおばあさんの部屋を見てしまう。
朝起きて。
夜日が落ちて。