どんなに多くの知識を持っていても素晴らしい運動の力を
兼ね備えていても思うが儘に社交ダンスを楽しめない事が
少なく無くて一体どの様に演じたら良いか解らないで
悩んでいる踊り手が少なくありません。
踊る為のアイテムを身に付け日々の練習を重ねたとしても
満足できる踊りが出来るとは限りません。
その為最初は夢を持って練習に励んでも次第に自分の限界を
感じて踊る事を辞めてしまう方も多くいます。
習った通り踊っているのに間違いなく踊ろうとしているのに
一向に求める様な音楽表現が出来ないのは知識が足りないとか
練習が足りないというより自分が持っている能力を充分に
活用できていなかったりお相手や音楽を感じないで自分だけの
記憶や感覚で踊っている場合も有るのです。
戦後社交ダンスが多くの人に踊られる様に成った頃と比べれば
現在の踊り手達を取り巻く環境はより豊かな物となり
踊る為の情報は格段に多くなっています。
社交ダンスが上手に踊れる為の環境は驚く程の進歩を遂げ
誰もが社交ダンスを如何に踊ったら良いかの情報を簡単に
手に入れる事が出来る様に成りました。
所が素晴らしい環境と成ったにも関わらず多くの方の踊りが
常に思い通りの音楽表現とは成らず昔以上に悩みを抱えて
いたり上手く踊れない事への不満が無くなりません。
技術も運動表現も非常に発達し誰もが望む様な感動的な
踊りが出来るはずなのに現実は今も昔も変わりせん。
ほんの一部の方々がその素晴らしさを体験しているだけで有り
殆どの踊り手は心から楽しんで踊れていない様です。
何故思い通り踊れないかはもちろん知識や運動表現の至らなさ
有りますが大きな問題は踊り手自身の心が進化して来た技術や
運動表現を感じられていない事です。
華やかで美しい音楽表現で躍っていてもその表現が自分自身の
心と身体が感じて創り上げたものでは無く既に作られた踊りを
そのまま記憶して再現したものであり単にルーティンの説明と
成っているだけの踊りが多い事が問題です。
この事は初心者が覚えようとしている基本的な演じ方でも
エキスパートが演じている華やかな踊りであっても差ほど
変わらずどちらも自分の本心からの踊りでない事を感じていて
本当に心から満足は出来ないのです。
社交ダンスを上手に踊る為には踊る為のハウツーを覚える以上に
自分のセンス(感覚)を育てる事が重要です。
単にテストの答えを書いている様で記憶力を示しているだけで
踊り手のその時の音楽やお相手そして環境を感じた結果の踊り
でない事が非常に多いです。
間違いなく踊る事も大切ですがそれ以上に踊り手の心が踊り姿に
感じられないと単なる一過性の踊りと成り踊り手自身も借り物の
感情表現で心から満足できないのです。
本当に心から満足出来喜びを感じられる踊りは自分自身が感動し
自然に身体が動く事で生まれます。
その時大切なのが心を表す為に社交ダンスのアイテムが必要
であり演ずる為に覚えたステップや運動表現を如何に使って
ペアとしての感動の踊りを見せられるかがとても大切です。
他人と比較するだけの踊りは単に技術上の順位を決めるだけ
であり踊り手の真の価値を決める物では有りません。
何故音楽と踊り手を感じながら踊る事が重要なのかが解るかと
思いますが多くの踊り手がより上手と思われる踊り方を真似たり
記憶する事が目的と成っています。
社交ダンスのみならず普段の生活に於いても五感を育てる為に
見る物聴く物触れる物全てに自分の心を働かせる事が
本当に豊かな生活を送る為の大きな力と成ります。
かつて日本にははっきりとした四季があり人々は季節季節の
移り変わりに心を動かしたものです。
日本人が万物に対して非常に豊かな感情を抱き素晴らしい社会を
築いて来たのも常に自分が置かれた環境にシッカリと反応して
生きて来たからと言えます。
しかしながら近年日本の四季が極寒と酷暑と言った二季になり
人々の自然に対する感性も失われつつあります。
自然に対する時も人に対する時も同じで有りコンタクトする
お相手と音楽を感じる力を失うと一方的な運動表現と成り
踊りが粗っぽく自己満足と成って社交ダンスの楽しさが失われ
上手く踊れない事へに不満が大きく成って来ます。
社交ダンスは覚えたフィガーや運動表現を通じてお相手と音楽を
感じる事がとても大切です。
ペアとしてお互いの気持ちを察し二人の思いを音楽表現に
出来る事が最高の喜びへと成ります。
豊かなセンスを育てる事が心から楽しめる社交ダンスを
踊れる事に繋がるのです。