野村證券で学んで起業 | いっちゃんのひとり言

野村證券で学んで起業

私が野村證券の営業企画部時代にひとりの新人女性が私の下に配属されてきた。

有名女子大を出たお嬢様であった。

名を羽田賀恵と言った。

今はCLAYD JAPANマザーアース・ソリューション(株)の社長である。

立派に成長して活躍している彼女は素晴らしい。

彼女が会社を起こして再会した時に、私と会食をした。

その時に彼女が私から野村證券で学んだ内容について話しをしたのでここに紹介したい。

1、世の中の常識やマーケットを知る

羽田君が新入社員の時に、市村から高級時計をプレゼントしてもらった。

その時に、新人ながら初めて社会人としての価値観や物事の捉え方を学んだ。

2、野村證券では7時を過ぎた日経新聞は紙くず

分刻み秒刻みで野村マンは数字を追っている。

情報は早く、マーケットの先を走るのが当たり前。

3、遊ぶときはとことん遊び、仕事のときは死ぬ気で結果を出す

仕事中は些細なミスも許されない程の緊張感を持って取り組み、その後の打ち上げは全員が酔いつぶれる程思い切り楽しむ。

そして次の日には、全員が朝6時から昨日は何事もなかったかのように出社し切り替えて仕事に集中する。

4、正しく厳しい上司であれ

当時の市村は今以上に厳しく怖い存在だったが、指摘されていることが正しいからこそ部下も悔しくて涙を流していた。

羽田君も市村と会う事を考えただけで、入社した22歳の時の緊張を感じたと言っていた。

5、キープヤング

野村證券の中枢である営業企画部は、当時ほとんどが20〜30代の若手社員で、しかもたった5名の組織で全国2万人の営業マンの数字を市村は管理し指示を出していた。

市村も当時31歳でありながら、漉しても漉しても灰汁が出る程、今と全く変わらず異常な程オーラを出していた。

6、営業はシンプルに相手の事だけを考える(市村から教えてもらったこと)

羽田君は今は自分自身で新規開拓のテレアポをし、大手百貨店バーニーズも一本の電話から契約まで繋いだ。

会社の電話番号がなくてもそこで諦めず、お客様相談センターに電話する。

ライバル会社の事例を出し、バイヤーが本質的に求めている「業績を上げたい」というニーズをくすぐったトークで開拓していった。

その時は、自分が伝えたい商品の効果や成分の事は考えず、相手の店舗に行って企業分析をし、シンプルに「相手に響くのは何か」という事だけを考えていた。

7、何事も逆境と思わない

羽田君の今のお給料は野村證券時代よりも少ない。

起業当時も半年間は、社員も含めて無給で働いた。

しかし全く辛いと思わず仕事がとても楽しいと感じている。

他人からは相当なストレスと感じる事も、自分にとってはそれを乗り越える事を考えてワクワクしてしまう。

8、背水の陣で真剣に行うのとそうでないのには、大きな差がある。

片手間での成功はあり得ない。

昼も夜もビジネスの事を考える真剣さや成功する自信がなければ結果には決して繋がらない。

上記のように彼女は私に話してくれたのが懐かしい。

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