No.1930 【ウレぴあ総研】女優・前田敦子の第2章が始まる | あっちゃんとファンの架け橋~あつ王子のファースト・ラビットを追って~

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『毒島ゆり子のせきらら日記』第5話を観て思った。
ついに、女優・前田敦子という「ダルマ」に目が入ったのではないか?
このドラマに「ダルマ」がイメージとしてインサートされたり、具体的な小道具として配置されてきたのは、つまり、こういう宣言だったのではないか?



前田敦子に、目を入れます

思えば、前田敦子は女優としてずっと「片目」だったのかもしれない。

そもそも、『毒島ゆり子のせきらら日記』というタイトルが非常に示唆的、批評的だ。

毒島と書いて「ブスジマ」と読む。前田と言えばドラマ『Q10』共演者たちといまだに集まる「ブス会」が有名だし、その無表情にも映る仏頂面は(多くの場合)愛をこめて「ブス」と形容されてきた。

「ブスジマ」という音の苗字の選択がいかなる意図によるものかは不明だが、こうした前田のある種のパブリックイメージを逆手にとった発想もあるのではないか。劇中では、可愛いともてはやされる一方、「あんた、ブスね」と言われるシーンもある。

そしてこれはたまたまの一致にすぎず、深読みしすぎかもしれないが、「ブスジマユリコ」の音の印象は「オオシマユウコ」によく似ている。

そう、AKB48時代、人気を二分した大島優子である。前田の後に卒業し、前田同様、現在は女優としての活動がメインになっている大島は、かつてもいまも、前田とは対照的な資質の持ち主である。

取るに足らない妄想だが、たとえば、『毒島ゆり子のせきらら日記』は大島優子主演でも成立するかもしれない。大島は前田に較べてはるかに(特にドラマでは)、役どころとして「普通」のヒロインがフィットする。前回指摘した通り、毒島ゆり子は「普通」の女の子である。そして、前田は(特に映画では)「普通」の役がほとんどなかった。



いま一度、『マジすか学園』第1シリーズを振り返ってみよう。

謎の無敵転校生「前田敦子」は学園にはびこる不良生徒たちを次々に倒し、ついにラスボス「大島優子」と相見えることになる。病に倒れ、既に闘える状態ではなかった「大島優子」はけれども、多くの部下たち(もちろん、当時のAKB48主要メンバーたちが演じている)に慕われ、支えられる任侠の女だった。任侠の女。そう、真っ当なドラマツルギーを成立させ、多くの観客の共感を得る「普通」のキャラクターである。ところが、「前田敦子」はその強さの背景がほぼ不明で、ほとんど理由もなく強い、そして孤独という役どころだった。

任侠の女。これほど前田にふさわしくない役もないだろう。

大島は任侠の女を演じることができるが、前田には難しい。前田はこれまで(映画にしろ、ドラマにしろ、舞台にしろ)観客の共感とは別な場所で、その演技表現を繰り広げてきたし、それが彼女の個性だったからだ。

だが、よく新人の演じ手たちが常套句のように用いる「どんな役でもこなせる」役者など、ほとんどいない。器用に見えるベテランにしても、与えられたある一定のポジションの中で、その都度役の種別を変幻させているにすぎなく、基本的には「その人にあった」役を、「その人ならでは」の方法で演じているだけなのだ。その幅がある人は広く見えたり、見えなかったりするだけのことだ。

だから、当たり前のことだが、大島優子は大島優子にできることをしているし、前田敦子は前田敦子にできることをしている。それが、彼女たちそれぞれの表現としての個性になっているのだ。

たとえば、『もらとりあむタマ子』に主演している大島優子はまるで想像できない。あるいは、ドラマ『安堂ロイド』に登場している前田敦子はありえないだろうと思う。

ところが、ここがこのドラマのすごいところなのだが、『毒島ゆり子のせきらら日記』に主演している大島優子の姿はなんとなくイメージできるのだ。そして、大島なら別なかたちで、このヒロインに説得力を持たせるのではないだろうかと考えることができる。




前田敦子はこれまで、「普遍的な器」には縁がなかった。

もちろん、このドラマは、前田敦子のために企画されたオリジナルなものである。だが、同時に、ある種の「器」としても成立する、幅広い可能性を有した「普遍的」なドラマでもあると思う。

家庭環境の不幸から、二股恋愛という前提条件をバリアのように己に施し、自分を護りながら生きてきた女が、二股というバリアを解除した途端に、丸裸になり(それが「せきらら」ということだろう)、ドツボにはまっていく(おそらく、そうなるはずだ)物語の展開は、筋が通っている。しかも主観ドラマ。大島のみならず、同じ年頃の他の女優が演じたら、どうなるのか観てみたくなる「器」なのだ。そして、前田はこれまで、そうした「普遍的な器」には縁がなかった。

よくわからない。素性は知れないが、確かに、そこに立っている。前田敦子には、そのような役が多かった。そして、そのような役を演じるとき、彼女の唯一無二の個性が発揮された。ドラマ『マジすか学園』から映画『イニシエーション・ラブ』へと至る約5年のキャリアのもっとも美しい成果は、「理屈を超えた存在感」にあった。

かつて、彼女の演技表現について「磨かなくてもそこに在る石」と評したことがある。何の変哲もない路上の石だが、つい目にとまってしまう。多くの者たちの演技は(とりわけ女優は)「磨かれた石」として提示されているが、前田のそれは一見、何もしていないように映る。なのに、つい気になってしまう。その、明らかに周囲から隔絶したありようが活きるのが、映画空間だった。前回、記したように映画は「日常」ではなく、「非日常」を志向するメディアだったからだ。

前田敦子はかつて、そのような役どころを、主に全身で表現していたように思う。だが、『毒島ゆり子のせきらら日記』は違う。顔で芝居を成立させている。
言うまでもなく、テレビは顔を映し切り取るメディアだ。

前述したように、前田の魅力は無表情を思わせる仏頂面にあった。そして、「ブス顔」とも形容されるこの優れた無表情にふさわしい役を、山下敦弘も黒沢清も用意してきた。

廣木隆一の『さよなら歌舞伎町』、そして沖田修一の『モヒカン故郷に帰る』から前田敦子の演技は明確に変化しつつあった。

『さよなら歌舞伎町』はグランドホテル形式の群像劇だったから、そこまで明瞭ではなかったが、妊婦を演じた『モヒカン故郷に帰る』では、明らかにキャラクタライズがおこなわれている。

かつての前田が「どこにも属さない」アウトサイダーたちを演じていたとしたら、『モヒカン』の彼女はたとえば「ヤンキー」の一言である程度のカテゴライズができる(『もらとりあむタマ子』の主人公にもヤンキー的な体質はあったが、そこに留まらない底知れなさがあった)「どこかに属している」一般市民を演じていた。そして、『毒島ゆり子のせきらら日記』では、より共感度の高い人物像が形成されている。

そして、この人物像を、前田は百面相と呼んでいい多彩な顔面演技の数々で体現している。

愛する人とのふたりきりの時間を噛みしめるしあわせも、ふった男に哀願と共に詰め寄られそれでも「ごめんなさい」と伝える後ろめたさも、スクープをものにしたときの自分だけの高揚感も、高名な政治家とミラクルなアイコンタクトを成就したうれしさも、わずか数秒の「数枚」の顔面の推移によって、伝えてみせる。その様は、いい意味で漫画的な明快さがある。

これは、3話までのくだりに顕著だったが、自らをルールによって縛りつけることで逆に自身を保護していた主人公は、伏し目がちな表情を見せるたびに、「なにかが始まるということは、なにかが終わるということ」という恋の宿命を、観る者に感じさせてくれた。

ほんとうの恋をしたとき、ひとは、それまで己に課してきたルールを放棄するしかなくなる。
この真理を体現する前田敦子を見つめるということは、つまり、この女優の中でも「なにかが始まり、なにかが終わる」過程に遭遇することなのではないか。

『毒島ゆり子のせきらら日記』で、女優・前田敦子はそのキャリアにおいて、いよいよ「第二章」に突入した感がある。

ついに「両目に墨の入った」彼女の行方を、引き続き、追いかけていきたい。

(ウレぴあ総研/相田 冬二)