久しぶりのブログ。
山梨と長野でゆったりぐったりとすごしてきて、自宅に戻ってみるとちょっとした報告文を書けという催促が。
そんなに形式ばったものじゃなくてもいいだろと思ったから、思ったままに留学期間を総括してみた。
したら、こんな文章になった。
2009年9月、想像以上の不安と寂寥を抱えながら、日本を飛び立った。あの日から、あっという間に10ヶ月が過ぎた。留学は竜宮城への小さな旅であったようにも感じる。
抱えていた不安はすぐに期待に変わり、楽しくて楽しくて仕方のない日々を過ごした。リスボンでの生活を端的にいえば建築とサッカーと酒を飲みながら話すこと。それに尽きる。そして、休暇が取れれば旅行へ。それがすべてだったし、それさえあれば十分だった。
課題に対しては必死だった。まず、どのスタジオを選択するか決めるのに一苦労。僕たちは現地の最終学年である5年生のクラスに在籍し、一年を通して最終プロジェクトに取り組んだわけだが(これは例年通り)、昨年までは建築コースはどのスタジオも同じ課題に共通で取り組んでいたのに対し、今年はスタジオによって、敷地も課題も違っていた。日本を発つときには都市のスタジオをとるつもりなど毛頭無かったが、説明を受けて最も興味をひかれたのは都市のスタジオの課題であった。ヨーロッパで勉強できるのだから日本では出来ない事がしたいと常々思っており、郊外へのスプロールを誘発しているようにも感じられる敷地(建築スタジオ)よりはモニュメントが多く残りリスボン随一の観光エリアとなっている敷地への介入(都市スタジオ)のほうが予想もしない考え方や発見に出会えるのではないかと考えたためである。
しかし、一方でリスボンにおいて建築を学ぶ一番の魅力、ディテールまでを深く考えていくことでわかる新たなデザインの方法というものがはたして都市のスタジオでも修得することが出来るのかという不安があった。そこで、直截的には僕らを指導することのない都市の若い教官に「建築と都市はどこが違うのか?」「都市スタジオにおいても建築の設計に重点は置かれるのか?」「ディテールまで指導してもらえるのか?」といった様々な質問を浴びせ、彼の言葉を信用して都市スタジオを選択することにした。
都市のスタジオ(テーマは「モニュメンタルエリアへの介入」)を選択したことにより、ヨーロッパの都市空間の構成や成り立ちについて見聞が広がり、特にヨーロッパの都市空間において重要な役割を果たす「広場」に対する意識や視座は、日本で生活をしながらヨーロッパを旅していた時とは全く異なったものになった。これは、実際に我々の指導教授が設計をした広場の実施図面を見せていただきながら、ペイヴメントのデザインから車止めのデザイン、照明の配線までディテール図を描いた成果の賜物であろう。同時に日本に帰国したのち、留学前には気にも留めなかった、車道における勾配の付け方と側溝への雨水の集め方など、日本では建築学科の設計教育では触れられることのない、様々な都市空間のディテールに無意識に関心を向けるようになっていた。
この都市のスタジオで得たものは他にも数え切れないほどあるのだが、受動的に指導を受けたことよりも課題と向き合ううえで自ら思考したことが強く残っている。そしてそれを同じスタジオを選択した東大生と議論したことはとても重要なことであった。
都市のモニュメント性、モニュメンタルエリアという日本人には実感の伴わない課題に対してお互いに共通して持っていた感覚は「時間(歴史)を伴わずにモニュメンタルエリアを作ることは可能か」という疑問であり、「テーマパーク化してしまうのでは?」という懸念であった。しかしそれに対する回答が全く異なっていたことはお互いに興味深かった。僕は核となるモニュメントを抽出し、付随する広場をもう一度整備することで新たなる歴史を積み上げていけばよいと考え、彼はパブリックパークという概念を持ち込み、限られたエリアを完全に設計することでその答えを出した。
また設計手法にもお互いの違いは現れた。
僕はヨーロッパで学びながら日本の現代建築を眺めてみて(僕自身の過去の設計も含め)、「恣意的に作為性を隠している」ということが気になった。それはルールやパターン、アルゴリズムという法則に従ってデザインしていく方法や、恣意的に明確な軸をひくことを避けるような潮流であり、それらは建築を建てることに対する免罪符のようにも感じられた。
僕はこの留学中は一つ一つの線に意思を持ってひきたい、デザインしたいと考えた(これは好き勝手に自分の主張によって新しい都市を創生するということではない。もちろんコンテクストには従う。コンテクストから重要なエレメントを抽出しそれらをつないで軸を作っていくこと、その一つ一つの軸、線に意味を込めて、逃げずに責任を持つということだ)。それがヨーロッパのやり方だと感じだからである。しかしティポロジアに造詣の深い彼は様々な都市の平面の断片を組み合わせ、パッチワークを作るように新たな都市をプランニングした。
日本という国から同じリスボンという街に留学し、同じ設計スタジオを選択してもこれだけ異なったデザインになったことが面白かったし、話し合う中で自分にはないたくさんのものを彼の抽斗から収集することが出来たのは非常に貴重な経験であった。
もうひとつ彼との話を付け加えておくと、イースター休み(キリスト教圏の国ではイースター=復活祭はクリスマスと並ぶ重要な祝日。日本のゴールデンウィークのように一週間程度のまとまった休日が3月末~4月頭にある)の前に彼が図書館でポルトガルの集落図集を発見したために、休暇中に大変興味深いポルトガル北部の散村巡りをすることが出来た。今までの先輩たちの中にもここまで辺鄙なところには来たことがないのではないかというような場所にまで目的を持って赴くことが出来たのは、彼の捜し出してきた集落図集のおかげである。この旅ではアルヴァロ・シザをはじめとする建築家による様々な現代建築や広場(ポルトガルでは広場の設計も建築家の仕事の一つである、もちろん限られた建築家だけがその仕事を手にすることが出来るのはいういまでもない)を訪れることもでき、有意義なものであった。
さて、都市のスタジオでももちろん建築の設計を行うわけで(彼らは大学を卒業すると自動的に、建築家の資格を手にすることが出来るので、大学の指導も実際に社会に出て仕事が出来ることが重要視され、ディテールまでしっかりと叩き込まれることとなる。日本の教育と比較すると、学生生活を通じて取り組む課題の数は少ないものの、一つ一つの課題に長い時間をかけ、ディテールまで詰めるという作業を若い学年のころから行っている)、我々のクラスは馬車美術館の設計が課題であった。後期はどっぷりと建築の設計に漬かることが出来ると思っていたのであるが、実際は後期も都市のプランを詰めていく作業に長い時間を割かざるを得ず、建築の設計は1カ月足らずで、まとめあげなければならなかった(基本的なコンセプトなどは前期のうちに決定していたが。付記しておくと、我々のクラスは前期に一通り都市のマスタープランから美術館のコンセプト、大まかなプログラムまでを設計し、後期にそれを一つ一つ現実的なものになるように裏打ちしていく作業を行った。この時系列どおりに動かないスケジュールは僕らの大学の中でも我々のスタジオだけだったようで、戸惑いも多く、モチベーションをあげるのに非常に苦労した)。
したがって、留学前に期待していたようなディテールのデザインの仕方などに関する細かい指導を受けることはできなかった(もちろんディテールは必要図面として最終プレゼンテーションに要求されたが僕らは雑誌を参照してそれを描いた)。都市クラスにおける現地学生の建築デザインははっきりいって決して高くないと感じたし、教員の指導も都市のデザインをしているときは色々と細かく厳しい指摘が飛んできたのに対し、建築のフェーズに入った途端にエスキスというよりは楽しい建築談義にすり替わってしまったように感じた。もちろん、そういった時間も非常に有意義なものではあったが、もっとしっかり建築についても指導してほしいという気持ちは最後まで抜けなかったし、建築コースをとればよかったのではないかという後悔は今でも心に引っかかっている。
リスボン留学中は学生寮の狭い部屋に住んでいたわけだが、この寮にはポルトガル各地から、さらにはブラジルやアルゼンチンといった遠く離れた国から学びにやってきた学生が暮らしていた。寮の仲間たちはとても親切であったし、「寮」という一つのつながりのおかげでいくつもの楽しいパーティーに参加することができた。また、「建築」「寮」というつながりに加え、「フットボール」というコミュニーティーも大変重要なものであった。クラスの仲間、寮の仲間ともフットサルを頻繁に行ったが、それ以外にもサッカーをしていなければ繋がらなかった出会いというものが数え切れないほど存在した。建築やサッカーにおいては、たとえ言葉が通じなくとも同じイメージを共有することが出来、こういった瞬間には言葉で会話する以上にしっかりと会話出来ていた。
最後に一緒に留学した仲間が本当に素晴らしくてよかった。
リスボンで出会ったすべての人々の親切心、そして快く留学へと送り出して下さった全ての方々に感謝しています。
留学生活のすべての要素をしっかりと自分の一部にしてこれからの生活に活かしていかなければならない強く感じている。
なんだか偉そうだな。あんまり堅苦しくなく、どうでもいいことを書いてやろうと思っていたんだけれど、意外とまともだったかな。
まあいいや。そういやバルセロナの旅行についてまとめてないなあ。