今日は早起きして8時からの授業に遅れないように早く出かけた。もちろん今までも遅刻したことはないけど。
いつもより少しだけ早く起き、余裕をもって寮を出たのだ。するととても素敵な光景に出合えた。
バスを待っているとき、町中の街燈の照明が消えたのである。もちろん、すでに朝日は射していたけれど、その時間はまだ暗めで、照明が一気に消えたとき、ほんの少しの間だけではあるけれど、街が暗闇に包まれたように感じたのだ。そしてそれはまさに「7月24日通り」で吉田修一が描いた文章から僕がイメージしたものだったのだ。眠たかったけれど、早起きするとよいこともある。
今日の授業のために、リスボンと京都、そしてニューヨークの地図をセイムスケールで並べたものを朝起きてから学校に行くまでの忙しい時間の合間を縫って、1分もかけずに作った。ただ並べただけであるけれど、こうやって並べてみると同じグリッドの都市であるのにも拘らず、その町の様相が全く異なっていることがわかる。頭ではもちろん理解しているつもりだけれど、こうやって並べて視覚的に把握すると改めてビビッドに違いが明確につかめる。
上から京都・ニューヨーク・リスボン いずれの都市もグリッドからなる(リスボンは映っている範囲ではバイシャのみだが) のにもかかわらず、そのスケール、そして身を置いた時に受ける印象は、あたりまえだが、全く異なったものとなっている
国による相違は大きくて、この間、京都の町のリミットが鴨川にあるかその東の143号線にあるかという討論になり、「川が切れ目のほうが視覚的にわかりやすい」というポルトガル人に、僕は「川は物流の中心でもあり、川の周りに町が出来る傾向がある。川が町の切れ目になるってことはあり得ないだろ」って日本の川をイメージして反論した。その時は、いくら視覚的にわかりやすいからってこいつあまりにも短絡すぎるだろってその子のことを思った。でも、その後気づいたのだ。間違ってたのは僕だって。ニューヨークだってリスボンだって河が切れ目になっている。日本の川と世界の川はスケールが違いすぎる。日本の川はものの3分もあれば渡しで渡れるものが多いし、橋がかけられないほど大きい川ってそんなにはない。でもテージョは。そこに橋を架けるのに、一体どれだけの知識と資本と労力が必要だろうか。
こういった感覚の違いはこれからもどんどん生じるだろう。そういったものにたくさん出会えればいい。そして、それらを受け入れ、日本の感覚とリスボンの感覚、世界の感覚を自分の中で育てていけばよい。それだけ視野が広がることにつながるから。それにしてもグループが不安。ニューヨークも本当に積極的に意見していかないと…。すごく質が(プレゼンどうこうでなく、リサーチの内容の質が)低いものしかできずに終わってしまいそうだ。
でも、現在僕はすごくいい状態にあると思う。楽しみながら、一生懸命授業に取り組めている。
今日は金曜。週末でたくさん遊んで息抜きしなければ。