・・・・・・・っということで、ちょっと遅くなりましたが、エストニアをまとめます。
すでにバルト三国でエストニアを書いていますが、エストニアのアイデンティティを単純に決めることは不可能です。
ローマ時代からエストニアは辺境の地に住む異教徒でした。
遅ればせながら、キリスト教に改宗させるために、十字軍が派遣されました。
ドイツを中心とした騎士団が居座り、長くドイツの支配を受け、原住民たちは詐取を受けました。
その後、デンマークやポーランドもドイツと組んでちょっかいを出しましたが、その頃の大国であったスウェーデンに占領される時代が続きます。
スウェーデン統治はかなり緩かったそうです。
その後、ロシアが占領し、農民たちは塗炭の苦しみを味わいました。
第一次世界大戦後のロシア帝国の崩壊により、エストニアは独立宣言をします。
ところが、第二次世界大戦が始まる頃には、ドイツと密約を交わしたロシアが侵攻して、エストニアは戦わない選択をします。
軍人たちとロシアへの編入に投票しなかった者たちは即処刑か、シベリア送りになってほとんどが帰ってきませんでした。
彼らの墓も荒らされ、侮辱を受けました。
エストニアという国の地政学的地位は、本当に辛いものがあります。
ソ連崩壊でようやく独立を勝ち取ります。
しかし、ソビエト時代に多くのロシア人が移り住み、ロシア語を話すロシア系住民は人口の4分の1、およそ30万人にのぼります。
人口の構成比率もそれくらいです。
ウクライナの二の舞になる可能性は高いのですが、かろうじてNATOに加盟したことで免れている状態です。
ソ連が建設した銅像を撤去する問題では、「青銅の夜」と言われるロシア人の暴動が起きて死者も出ています。
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そんな暗い歴史のエストニアですが、なにか「明るい雰囲気」を感じました。
エストニアはITの育成に力を入れ、政府機関のIT化がどんどん進んでいます。
教育もIT技術者を多く育成しています。
あのSKYPEはエストニアの発明です。
先に触れた青銅の夜事件の時、ロシアから激しいサイバー攻撃を受けました。
それを教訓にメインサーバーをデンマーク(だったかな?)に置いて、データの保護に努めています。
タリンの歴史地区も整備され、多くの観光客を集めて、観光収入も増えています。
この辺の柔軟さは、フィンランド人との共通性を感じます。
IT化では原始時代といえる日本はエストニアに大いに学ぶ点がありますね。
あと、ぼくの印象ですが、こういう大胆な社会基盤の切り替えは、ソ連時代に受けた影響が良い方面で発揮されていると感じます。
何しろ全体主義の国家は、上が右と言えば国民は右を向く教育を受けていますから。
日本人には、あまりにも「論客」が多すぎて、なかなか社会が切り替わりません。
以上、エストニアの自己流理解でした。