・・・・・・・っということで、艾 未未(アイ・ウェイウェイ)さんという中国の芸術家の発言をネットで読みました。
「中国の統治の仕方そのものが、伝統的に自由という思想と相容れない。その土壌が変わらない限りは中国は変化しないだろう。」
この「土壌」という言葉が刺さりました。
確かに現代の中国人は、共産党から「与えられた自由」の範囲内での自由で満足させられています。
その範囲を超える自由を求めれば、即座に「不自由」の身に落とされてしまいます。
中国を読み解く時、共産党という制度を手がかりにするのが一般的です。
ぼくも、ずっとそういう流れで中国を見ていました。
艾 さんは、「中国人の心が本当に自由であったことはない。中国は過去2000年の大半の時期、ほぼ統一された中央集権国家であり、同じような倫理観や、支配者と被支配者との関係性がずっと続いてきた」と分析するのです。
そっか、2000年も続いて来たのかと気付かされます。
では、「自由」とは何でしょう?
「個人の自由」は欧米でもつい最近発見(?)された概念です。
それでさえ、女性の自由、有色人種の自由はまだまだ完成されていません。
一口に自由と言っても、2000年の間獲得できなかった自由とは、個人の自由とは若干異なるでしょう。
その自由とは、支配の妨げになる自由のことであるはずです。
支配者にとって、国民の自由を許すのはとても大きな度量が必要なのです。
・・・・・・・
自由という芽が発芽するのは、多くの場合芸術という土壌からです。
ルネッサンスがその典型的な例です。
キリスト教によってガチガチに縛られていた民衆の心を、絵画、彫刻、音楽が解放のきっかけを作ったのです。
それが宗教改革の大きなうねりとなっていったのです。
そういう意味で芸術は、 国民の精神的・知的・文化的な生命の源となるのです。
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艾さんはさらに続けます。
インターネットの普及によって、中国に資本主義、中産階級が出現すると見られていたが、発芽するのに必要な知的土壌を共産党は決して許さなかったので、自由思想は根付くことができなかったと分析します。
怖いのが、国民が弾圧を弾圧と感じなくなり、慣らされていくことなのです。
日本も、廃仏毀釈という不幸な時代がありました。
芸術の持つ力を侮ってはならないのです。