・・・・・・・っということで、五島でキリシタンの殉教を聞かされたので、「死」について考えてみました。
哲学ってなかなか分からないけど、手っ取り早いテーマが「死」じゃないでしょうか。
死を考えると哲学的にならざるを得ません。
まず、「自分とは何か」を考えなければ先に進みません。
自分を考えると「存在」を避けて通れません。
「時間」「善悪」「価値」「神」「正義」・・・。
ほらね、哲学のテーマがぞろぞろ出て来ます。
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ぼくがいま取り憑かれている概念が「世の中」です。
誰でも世の中で生きていますよね。
死とはその世の中に存在しなくなることです。
じゃあ、その世の中ってなぁ〜〜〜〜に?・・・と考えるわけです。
ぼくは自分なりに考えた世の中で生きています。
ぼくが考えているのですから、ぼくが死ぬと世の中は消え去ります。
じゃあ、世の中はそれで無くなるかというと、ぼくの存在なんて関係なしに続くはずですよね。
あなたにはあなたの世の中で生き続けるから、ぼくが死のうがあなたは影響を受けません。
当たり前です。
じゃあ、ぼくの世の中とあなたの世の中は別物なのですよね。
世界中の人間がいま共通の世の中で生きていると信じていますが、実は人の数だけ世の中があるのです。
一言で世の中と言っちゃいますが、一つとして同じ世の中はないのです。
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ぼくは世界をかなり旅行しているので、旅行していない人より世の中を知っているつもりです。
ぼくは68年(もうすぐ69年)生きて来たので、若い人より多くの経験を持っています。
でもそれは、他人より上等の世の中かどうかは別物です。
だって、自分が経験したこと、学んだことの寄せ集めでぼくの世の中は構成されているのですから、知らないことは山ほどあります。
同じ世の中を見ているつもりでも、人によって全く別物なのです。
すると全ての人間は、別々の世の中で生きているってことですよね。
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最初に定義した「死とは世の中に存在しなくなる」とは、間違っていることになりますね。
もう少し別の説明をすると、「えっ?!この人亡くなっていたんだ」ってことありますよね。
逆の場合も然りです。
ついこの間まで、ペルーのフジモリ元大統領はとっくに亡くなっていたと思っていました。(勝手に殺してごめんなさい。<(_ _)>)
故人になってしまった人でも、ぼくが知らなければ、まだ生き続けているのです。
死なんてそんなものです。
他人が知らなければ死なんか存在しない。
自分で自分の死を認識できるはずがないので、本人にとっても死は存在しない。
どうです?・・・分かったような気になりましたか?^m^
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ここまで分かった(ような気で)殉教を考えてみましょう。
殉教とは、死後には別の世の中があると信じて死ぬことですよね。
キリシタンたちが信じるパライソ(天国)という世界です。
そういう世界が存在すると教えられ、信じて来た共通の世界観です。
しかし、ホントーに信者全員が同じパライソを描いているの?
この世だって違うのに、同じはずがないじゃないか・・・と疑うべきじゃないですか?
ぼくは殉教した人たち、子供まで道連れにして殉教してしまった人たちに言いたい。
もっと哲学的に死(=生)というものを考えてみるべきだった・・・と。