トイレの哲学シリーズ(その18) | so what(だから何なんだ)

so what(だから何なんだ)

人生のバックパッカーのブログです。
暇はあるけど体力と金と気力がない。
そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、主語は存在するのか?

ぼくはいまブログを書いている。

アナタはいまぼくの書いたブログを読んでいる。

ここでのぼくとは?アナタとは?

ぼくはぼくで、ぼく以外の何者でもないじゃないか。

では、ぼく(アナタ)とは何か?

ぼくの定義は何か?

ぼくと言う場合、何か不変の存在のように思われるが、昨日のぼくと同じか?

1日歳を取った今日の自分と昨日のぼくが同じであるわけがない。

肉体は常に新陳代謝をして、二十歳のぼくと60歳を過ぎたいまのぼくは、まるで別人と言っていい。

肉体ばかりじゃない、考えかたもぜんぜん違っている。

今朝のぼくはよく寝られて気分が良かったが、今のぼくは目の前を通り過ぎたオヤジが風上で咳をしやがって、とても気分が悪い。

いま、今のぼくと言ったけど、その時と今では厳密には違うぼくである。

何を言っているのか?

ものごとは常に変化するものである。

これはぼくとか生き物とかばかりでなく、物質だって絶えず変化をしている。

例えば富士山という主語だとして、思い浮かべる富士山は人によって様々。

思い付く限りの主語は全て定義が定まっていないことに気付く。

定義が定まっていないものを主語に持ってこられるのか?

要するに万物流転、諸行無常、色即是空なのだ。

これは目に見えて、じっさいに手で触れるものを対象に述べてきたけれど、目に見えないものはもっと定義付けが困難だ。

誠意を見せろ、正義を行え、時間がない、信用が第一だ・・・など、どれも主語に持ってくるには曖昧すぎる。

それに比べたら名詞や代名詞のような主語より、動詞や形容詞などの述語のほうがずっと定義が易しい。

冒頭に書いた「主語は存在するのか」という問いは、こういうことなのである。

・・・・・・・

こういうことを考えていると、「自分の存在」が実に曖昧になって来るのである。

自分と周囲の境界線がだんだんぼやけてきて、自分の存在さえ怪しくなってくる。