【国家と宗教】
保坂俊司著
光文社新書
2006年10月20日刊
ゲッ! 10日以上も間が空いてしまった。
その期間中たった1冊しか読んでいない。
だが.....、とてもよい本に巡り会えた。
最近にない好著である。
実は、何回か読み返しているところだ。
著者の専門は比較宗教学とのこと。
比較文明論とか、比較文化論とか、比較人類学とか、「比較~」という言葉は良く聞くが特に気にしていなかった。
しかし、比較することによって対象物の同一性や違いがより鮮明になるということは、考えなくてもよく理解できる手法だ。
想像するに、研究する側にとって、とても面白い学問分野じゃないかと思われる。
勿論この本は、宗教を比較しているのだ。
今まで、キリスト教とか、仏教、イスラム教など、漠然と分かったつもりでいたのだが、この本によってナルホドと教えられることが多かった。
特に、テロリズムと直結しがちなイスラム教の理解に興味を持っていたので、他宗教との比較によってその教理の特徴が鮮明になった。
このような小冊子にも拘らず、上記の宗教プラス神道まで踏み込んでいる。
いかにも詰め込み過ぎと思われるかもしれないが、各宗教が簡潔にまとめられているので、返って成功している。
当然のことながら、著者もこのような企画に挑む行為は無謀であると理解している。
中途半端な問いかけに終わっている部分も多い。
しかし、今の時期にタイミングよく、このような本を出版することに意義があるのだ。
何度も言うが、学者は自分の専門分野を時代に生かすことを心がけなければならない。
自分の専門分野に身を隠さず、世間が知りたいときに専門家として意見を発言すべきだ。
最近どこかで目にしたのだが、「21世紀は宗教の世紀である」と誰かが書いていた。
本当にそう思う。
9.11以来、特に世界中が宗教の問題を真剣に考えないといけないと思うようになった。
まあ、そのような問題意識を持っている人には、是非この本を読んでいただきたいと思う。
さて、本の中身だが。
政治と宗教だ。
簡単に政教分離などは当然と思っていたが、逆に政教一致の方が自然であることはちょっと考えれば分かることだった。
(キリスト教)
今の政教分離の考えは、キリスト教内部における宗派対立の血塗られた歴史から得られた、最近の結論であることの指摘だ。
そうだろうな。この考えに至るまで、どれだけの悲劇が繰り返されたのだろうか。
キリスト教には、「カエサルのものはカエサルに。神のものは神に」とキリストが答えたように、政教分離の原則が内包されている。
しかし、政治が宗教を利用することは必然であり、宗教も政治的にならざるを得ない。
そうすると、キリスト教が神の祝福をなどと善意面をしているが、その衣の下には常に鎧が隠されている。
一神教はそのように、非常に政治的な要素を持っている。多神教を駆逐することが宿命付けられているからだ。
キリスト教が今のように、全世界に広がるためには、その教理の中に「普遍性」を持っていなければならない。
そうでなければ、発祥の地であるカナンから外には出られなかった筈だ。
簡単に想像してみても、気候風土からして日本とは全く違うのだから、イエスさんもまさか極東の地にまで布教されるとは想定外だったはずだ。
キリスト教の持つ「普遍性」とは何だろう?
それは「アガペー(愛)」だ。
神様は人間を愛しておられる。なんていうのはちょっとした発明だ。(本当はイスラエルの民を一番愛しているのだろうが。)
「愛」を錦の御旗にしているから、世界に受け入れられるのだ。
だが、その下には常に「征服」という一神教の鎧がチラチラしていることを忘れてはいけない。
.....え?何だって? アメリカを見りゃ分かるだろ。
(イスラム教)
その鎧が、表に出ているのがイスラム教だ。神様は愛なんか説いていない。俺の言うとおりに服従していれば幸せなんじゃとのたまう。
最初から、政教一致だ。
イスラム教徒にとって、異教徒を改宗させるのは「義務」だ。
イスラム教を選択すると同時に、政治も選択したことになる。
No other choiceだ。
コーランに全て書いてある。コーランは神が直接語った言葉だ。コーラン=オールマイティーなのだ。
この宗教を選択した国家は、急速に柔軟性が失われる。
ド壷に入るのだ。アラブ諸国が陥っているジレンマだ。
国をまとめるのには非常に役立つ反面、その後の展開を立てにくくするのだ。
しかも、先進国といわれるにはキリスト教的でなければならない。即ち、政教分離で行かなくてはならないのだ。
だが、昔のイスラム世界は最先端を行っていた時代もあるのだ。
トルコ帝国も、他の宗教には寛大であった。
イスラムの世界が陥っているジレンマから抜け出すためには、その宗教の中に「普遍性」を見つけ出すことではないか。
コーランの解釈から出発するしかないのだろうが、その中から「寛大性」とか「柔軟性」をより強調する方向にもって行かなくてはならないだろう。
そのためには、アラブ社会でもう少し話し合う場を設けるべきではないか。
テロにおびえる世界観など、その教理の中には見出せないはずなのだから。
(仏教)
この宗教の中には、暴力装置が組み込まれていない。それとは逆に、無抵抗主義だ。
この宗教は、そもそもが「普遍性」を持っている。
その普遍性とは、人間の悟りを目指しているからだ。
要するに、人間個人を高めることを求めているのだ。
当然、為政者に対しても。
わたしは、仏教は政治性を持った宗教などとはこの本を読むまで全く思っていなかった。
ガンダーラの一地方の宗教が、インド、アジア、中国を経て日本まで広がったというのは、奇跡的である。
それも、イスラムのように武力を使わずにだ。(全然というわけではないが、比較として。)
しかし、よく読んでみると、アンチ・ヒンドゥー教として広まっていったという側面に気付かされる。
実力はあるが、ヒンドゥーの社会では下層に属する征服者が、自らの地位を理由付けする手段として仏教は用いられたのだ。
仏教の説く、人間生まれながらに平等である教えは、まさに自分を正当化するのにうってつけだ。
だが、仏教の偉大さは、そのように手段として利用されたとしても、次第にその教えが小手先の考えを凌駕し、本当に征服者を仏教に帰依させてし
まうことだ。
これは、この宗教が「普遍性」をもっている証だ。
残念なことに、暴力装置を内包していないがために、圧倒的なパワーには屈せざるを得ない。インドも、中国も、そして日本もだ。
しかし、精神の中に深く静かに根を張っているので、長い目で見れば仏教が見直される時代が来るかもしれない。
私の勝手な解釈は、仏教はすごくモダンで流行る様式だったのだろうと思う。
今ではダサいとなるが、あの精神的に超越した世界。仏教哲学の奥深さ。悟りを開いた人のカッコよさ。今では考えられないが、当時はすごくファッショナブルなスタイルとして目に映ったのだと思う。
(神道)
指摘されてみれば不思議だと初めて気付くのだが、聖徳太子は天皇ファミリーだったのだよね。
即ち、神道の旗頭であるはずの人間が、何で仏教を積極的に広めたんだろう。
江戸時代に陽明学が流行るものの、それまで日本人の心の底辺はずっと仏教だったのである。
多くの天皇が、出家したという。
要するに、日本は昔から神道と仏教のダブルスタンダードでずっと来ていたのだ。
それが、光格天皇以後、明治維新で神仏分離、廃仏毀釈運動と過激なまでに仏教が弾圧される。
この運動について、案外触れられることは少ないが、常識的に考えて異常な行為だ。
それまで心のよりどころとしていた仏教施設を、徹底的に打ち壊してしまったのだ。
分からん。ホントーに分からん。日本人っていったい何なのだ?
また変な例えを出して申し訳ないが、やはり日本人にとって仏教はファッションじゃなかったのか。いや宗教は単なる流行としか捕らえていないの
じゃないか。オーム真理教もその脈絡なら説明しやすい。
流行だから、飽きるのだ。飽きたらすぐに別の流行(宗教)に鞍替えするのだ。
実に不可解だ。宗教っていうものはもう少し流行に左右されない、心の根深いところの問題ではないのだろうか。
普遍性のある仏教から、極東のローカル宗教に鞍替えだ。
それだけなら、たいした問題ではなかっただろうが、日本国全体が神道と政治を直結させたのだ。
その結果はご存知のとおり。
そもそも、ローカルもローカル、ど田舎の土着宗教を八紘一宇と称して、アジア各国に押し付けようとしたのだ。
何と無謀な。
分からん。ホントーに日本人というものが分からん。
まあ、以上が私の感じたことを思いつくままに並べたわけだが、この本からは色々なインスピレーションが得られる。
座右の書として、何度も読み返すことだろう。