【聖書の名句・名言】 | so what(だから何なんだ)

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そんなお年頃。
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【聖書の名句・名言】
千代崎秀雄著
講談社現代新書
1987年刊

ウ~ン聖書である。
オマケに著者は牧師である。
ヘタにケチをつけるとバチが当たる。

これでも旧約・新約聖書は読破した経験がある。
世界で一番のベストセラー、最大の宗教の原典である。
正直、どこが良いのかサッパリ分からん.....っというのが、中学時代の読後感である。
我ながら、正直だ。
信者はどうか分からぬが、この本(聖書)をサラっと読んで、面白かったと思う人は稀なのではないか。

娘がミッション系の学校に通っていたことをキッカケに、またキリスト教について興味が湧いたので、その関連の本を何冊か読んでみた。
中学時代と違って、人生の経験豊富な(?)今となってみて、感ずることは多い。
何故、聖書がこんなに人に対して影響を与え得るのかと。

さて、聖書はキリスト本人、ましてや神様本人が書いたものではない。(アタリマエか。)
弟子がキリストはこう言いましたとか、あるいは預言者がユダヤと神の関係について、どうたらこうたらでしたと記述したものである。
論語も、「子のたまわく」ってぇいう具合に、孔子が直接記述したものではなく、弟子が書いたものだ。
(子供の頃、「子のタマワク」のタマワクってどんな玉の枠なのか?と不思議に思っていた。余談だが。)
他の宗教も、似たりよったりだと思うが、イスラム教だけはムハンマドという預言者が、神が言った言葉をそのまま記述したものだ。だからコーランは神が直接話しかける形式をとっている。回教徒が自信満々なのは、解釈に迷いがないからだ。(もうマホメット教と言わなくなったのかなぁ?)

では、何故聖書(あるいは論語も)は本人が書かなかったのか?
不思議だ。
キリストは(あるいは孔子は)一行も書かなかったのか?
あった筈だ。字が書けなかった筈がない。(孔子ならなおさらだ。)
何故残っていないのか。不思議だ。

この本の書き出しは「はじめに、ことばがあった」だ。著者が目論むこの本のテーマはズバリ「ことば」だ。
この辺に、カギがありそうだ。

言葉は発声された順に、すぐに消えてしまう。
音波が空気中を伝わり、相手の耳から脳に達し、蓄えられていた言語からその内容を聞き取り、そして消えてしまう。
いまなら録音する手段がいくらでもあるから、もしキリストの時代にそれがあったら、いま彼の肉声が聞こえるはずで、残念だ。
でも、そうなったら有難味がなくなってしまうことは請け合いだ。
言葉というものを記録するには、文字という手段がある。
だが、キリストが言った言葉をそのまま記録することは不可能だ。
記述者の脳を通る間に、フィルターがかかり、削除されたり、違ったニュアンスが加わったり、あるいは意図的に捻じ曲げられて書かれることになる。

預言者の書物が全てが残っているわけではない。時代のフィルターの中で、消滅したり、これまた意図的に闇に葬られたりして、現在の聖書の形となったわけである。
内容も、都合の悪い部分は書き換えられたり、付け加えられたりしていることは想像に難くない。
(これはダヴィンチコードで知ったのだが。)

このように時代のフィルターの中で変容して残ったものを解釈するわけなので、そう簡単には理解できないわけだ。
だから、この著者のように、自分なりに解釈する作業が必要になる。ここで陥りやすいことは「深読みしすぎる」危険性だ。この著者にもその嫌いはある。

歴史を経て残った文章というものは、バカにはならない。
途中で、色々な細工がなされたとしても、歴史のフィルターを通すと、純粋なものに昇華していくものだ。
ましてや、世界的なベストセラーだ。腰を据えて読まないと。

私は、何を言いたいのか?
自分の経験が増えるにしたがって、昔分からなかったものが、いまになって分かることが往々にしてある。聖書の役割はズバリそのことなのだろう。書物という形になると、読み返すことによってそれが可能になる。
だから、読んですぐ分かる書き方は敢えてしていない。
ましてや、キリストが直接書いたのでは、あまりにもストレートになり、解釈の違いなどの奥行きが出ない。
ベストセラーになった理由は、各自の人生の歩み、人生の深みに応じて、聖書の中からそれぞれの段階に合った解釈を提供する仕組みが、上手に出来上がっているからなのだ。
意図的かどうかは分からないが、そのような構成をとった書物なのだ。
時代を経るうちに、人々の情念がそのような書物になるべく完成度を高めていったのだと思う。
誰が書いたというより、人類(とりわけ信者)が作った本なのだ。

私は、何を言いたいのか?
ことばの力である。
書物という媒体は上で述べたように、フィルターがかかっており、且つ、解釈も如何様にも出来る。
だが、言葉は待ったなしだ。
ボーっとしていると、何も残らない。
我々が普段発している会話の殆どは、何も残らないものばかりだ。
毎日むなしく消え去る言葉を発しているに過ぎない。
だが、そんな言葉の中で、確かに相手の心に残る言葉は存在する。
自分でも覚えていないような言葉を、相手がしっかり覚えていることを経験したことは沢山あるはずだ。
著者は「生かすことば」と「殺すことば」という言い方をしている。
ことばの持つパワーはすさまじいものがある。
ペンは剣よりも強しというが、ことばはペンよりも強しだ。
私の言いたいことはこれだ。
これほどパワーのあるものなのに、普段は殆ど意識せずに使っている。
恐ろしいことだ。
本当は、その恐ろしさに自覚せずとも気付いているからこそ、普段は逃げて、意味もないことばを使っているのかもしれない。若者は案外その辺が敏感だ。

キリスト、孔子、ムハンマド、仏陀など等は、彼らの発することばに非常なパワーがあったのだろうと思う。
だから、また聞きにせよ弟子が書き記しても、パワーが衰えないのだろう。