・・・・・・・っということで、山を歩きながら考えた。
人生の目的はなんだろうと。
もし、目的が無いのなら、自分は無目的に生きているのか。
目的の無い人生に意味があるのだろうか。
意味の無い人生って・・・・。
人生に目的があるという考えそのものが間違っているのか。
人生は生きる過程そのものだ。
前回は、その過程こそに意味があり、過程が目的だとまで考えた。
しかし何か腑に落ちない。
意味があるかないかという考えそのものが、オカシくはないのか。
あろうがなかろうが、そもそも結論の出ない問いではないか。
答えの出ないものを考えても時間の無駄だ。
いやいや、答えがあるかも知れないではないか。
もし、人生に意味があるとすれば、いったい誰に意味を与えられたのだ。
誰かに意味を与えられたからこそ、この世に生まれ死んでいくのではないのか。
そうでなければ、生きることに価値は無いではないか。
全ての動物だって、生まれて死ぬまで必死で生きている。
これは単なる現象に過ぎないのか。
ならば、全てが無意味、即ち価値が無いではないか。
やはり神か。
神が人生の意味と目的を与えたからこそ、全ての生き物が生という瞬間を延々と繋いでいくのだろうか。
いや、待てよ。
これは西洋の一神教に毒された考えではないのか?
神がこの世を創造したから、そんな考え方をするのではないか。
神には意思があり、神の意思の元に世界は作られたのだから、神の意思には目的がなければならない。
意思があると考えるから人生の意味を考えてしまうのではないか。
そういう発想こそ、神を「擬人化」する過ちを犯しているではないか。
一方で神という人間を超越した存在としながら、一方で神を人間のレベルまで引き下げているではないか。
人生の目的を考えるのに、神を持ち出してしまったら行き止まり、そこから先に進まないではないか。
西洋の考えとは異なり、アジアの神は多神教だ。
八百万(やおよろず)の神々は、それぞれ自分勝手に善行もし、そして悪さもしている。
人に解釈を強要せず、実に人間的だ。
中には、世界の全てを創造した神もいるかもしれないが、決してオールマイティではない。
そういう世界観の元では、人生の目的という問いは発せられるだろうか?
どうだろう?
・・・・・・・・山を登りながら考えた。