人生の目的(その2) | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
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そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、山を歩きながら考えた。

人生の目的はなんだろうと。

もし、目的が無いのなら、自分は無目的に生きているのか。

目的の無い人生に意味があるのだろうか。

意味の無い人生って・・・・。


人生に目的があるという考えそのものが間違っているのか。

人生は生きる過程そのものだ。

前回は、その過程こそに意味があり、過程が目的だとまで考えた。


しかし何か腑に落ちない。

意味があるかないかという考えそのものが、オカシくはないのか。

あろうがなかろうが、そもそも結論の出ない問いではないか。

答えの出ないものを考えても時間の無駄だ。

いやいや、答えがあるかも知れないではないか。



もし、人生に意味があるとすれば、いったい誰に意味を与えられたのだ。

誰かに意味を与えられたからこそ、この世に生まれ死んでいくのではないのか。

そうでなければ、生きることに価値は無いではないか。

全ての動物だって、生まれて死ぬまで必死で生きている。

これは単なる現象に過ぎないのか。

ならば、全てが無意味、即ち価値が無いではないか。


やはり神か。

神が人生の意味と目的を与えたからこそ、全ての生き物が生という瞬間を延々と繋いでいくのだろうか。


いや、待てよ。

これは西洋の一神教に毒された考えではないのか?


神がこの世を創造したから、そんな考え方をするのではないか。

神には意思があり、神の意思の元に世界は作られたのだから、神の意思には目的がなければならない。

意思があると考えるから人生の意味を考えてしまうのではないか。

そういう発想こそ、神を「擬人化」する過ちを犯しているではないか。

一方で神という人間を超越した存在としながら、一方で神を人間のレベルまで引き下げているではないか。

人生の目的を考えるのに、神を持ち出してしまったら行き止まり、そこから先に進まないではないか。


西洋の考えとは異なり、アジアの神は多神教だ。

八百万(やおよろず)の神々は、それぞれ自分勝手に善行もし、そして悪さもしている。

人に解釈を強要せず、実に人間的だ。

中には、世界の全てを創造した神もいるかもしれないが、決してオールマイティではない。

そういう世界観の元では、人生の目的という問いは発せられるだろうか?

どうだろう?


・・・・・・・・山を登りながら考えた。